春夏

 長く苦しい戦いをバッサリカットしてしまうのはもったいない気がしたため、書き起こそうと思う。


 どう表したらいいのだろうか。ここまでいくつの時が過ぎ、僕の目の前を横切って行っただろうか。


 もう今や桜の季節は終わり、夏にしては涼しすぎる稚内市なのであった。そりゃそうだろう、稚内という土地の特性上海風があり、非常に涼しい気候にはなっているのだ。その代わり風が強いのだが……。いつしか、ナントカオールバックだとかが流行ったなあと書いていて思い出した。僕が稚内にいたことではなく、旭川に越してきてからはやったものだから、思い出的な視点でしか楽しめない。当時稚内にいた頃の僕がこの曲を聞いたらどう思うだろうか。きっと、「稚内あるあるじゃんw」みたいなことを言って終わっているのだろうか。なんだか昔の自分が微笑ましく見えてしまう。


 僕の人間性というのを隅から隅まで書く必要はあるだろうか。僕のタイムトラベル史を読んでいるそこの君たちはもうぼくのことをわかってくれただろうか。

 僕は非常に奥手だ。厳密にいえば少々違うようにも思えるが、第三者視点で見る限りはそうであろうと思う。僕自身はそうであろうという意識はないし、そうでありたいという願望もない。成るがままの自分を育て上げた結果、こういう人間になってしまったのである。


 「奥手」なのがいいのか悪いのか、僕にはわからない。一見すれば慎重ともいえるが、もう一方の側面では「焦らせ」としても読み取れる。果たして世の中はどう見てくるのだろうか、その時の僕はそんなことを疑問としてとらえ、問いに対する答えを探していた。今にしてみれば、そんな傲慢なものはないなと思ってしまう。世論が世の中の総意ではない、いまや多様性を認めようとして動く社会であるのだから、そんな「世の中」なんて大きなくくりで問いを扱うのはなかなかにリスキーであると、数年たった僕は思っている。これも果たして成長なのか、少し気になるところではあるものの、気づけたこと以上のものはないので特に触れないでおく。

 彼女は僕の想いに気付いているのだろうか。もし彼女が僕の想いに気付いているのであれば、先ほどまでの下りはあまりにもバカらしいし、非常に無駄でしかない。確かに準備は必要かもしれないが、そんなことを言ってられないときも多いはずだ。魚釣りだたら、タモの準備ができていないけど引っかかったから巻くしかないというところだろうか。いわば、「チャンスっとタイミング」なのではないのかと思っている。僕という経験もない、センスもないやつがチャンスを見分けられるのかはおいておくとして、そういったチャンス・タイミングをしっかり見計らうことが必要なのだろう。彼女が僕の想いに気付いているのにもかかわらず、それにモジモジして黙り込むのはあまりにもったいない、ゴーゴージャグラーでペカッたのに清算ボタンを押してジュースに交換して帰るくらいバカなのである。背を追いかけるのも悪くはないが、彼女が僕に気付いてバックステップ踏んでいるうちに近づくべきなのである。

 

 ここまでたらたら書いたものの、僕はそもそも彼女が僕の想いに気付いているのか、まったくわからない。もしかしたらもう気付いているかもしれないし、まだ気づいていないかもしれない。僕が知らないうちに彼女へアプローチのような行動をしている可能性も否定はできないからこそ、僕はその真実を知りたく思っている。



 話は変わるが、三年ともなれば修学旅行なのである。中学校は高校と違って中学三年次に修学旅行に行くのである。まあ、受験の規模や内容、難易度を鑑みたとしても、わざわざ2年の時にやる必要もないだろう。

 修学旅行ともなれば、もうそりゃ「告白ラッシュ」の時期ですよ。当時の僕はそんなこと考えずに、「登別の温泉はどれくらい気持ちいんだろうなあ」なんてのほほんと考えていたような気がする。我ながら、ここを告白するチャンスだとここで理解していなかったことを悔しく思う。やはり人生経験がものを言うのか、と振り返っていて痛感したところでもある。

 僕は当時、しおり作成係だっただろうか。当時自分は生徒会長で、割と「みんなやりたがらない仕事は消化しないと」みたいな意識があった。汚れ仕事ではないが、面倒ごとはこういう人間が処理するべきだという思想の元なのだろう。だけども、今こうして旭川に来て学生組織の副会長をやっていて思うが、果たしてその思考回路は本当にあっていたのだろうかと少し疑念をぬぐい切れないことがある。若気の至り故の思考なのだろう、若さゆえのパワフル思考なのだろう。と自分を理解させ、特に違和感がないようにその考えにピリオドを打った。

 まあそれはさておき、だれもやらなかったのでしおりを作成することになった。別に特に難しいことはないのだ。ただ旅先のところについて書き記し、注意点などを面白おかしく示しておけばいい。「おけばいい」というと、なかなかに人聞きが悪い気もするが実際に完成したしおりもその程度なのである。みんな観光地の情報やなんかより友達とかそういう人間との関わりを楽しむ時間なのである。


 今思えば、修学旅行前の周囲は「誰に告白するー?」の色恋組と「何買うー?」のガチエンジョイ勢の二強だったか。

 僕は都会の小学校に通ったことがないかわからないが、僕の地域は中学校で友達と別れるなんてことはなかったので、小学校の修学旅行より盛り上がりのベクトルが違ったようにも感じた。もしかしたらそれは、彼らの成長や泊数の違いなどから来ているものかもしれないので、単純には比較しにくいが。なんにせよ、「中学校」という狭い社会の世論はそんなもんだった。

 僕がどういう考えを持っていたのか、それは今振り返ってもわからない。この頃の自分が何を考えて何を思っていたのか、あまり記憶にない。しいて言えば、彼女が好き、くらいだろうか。まったく、ばからしい。あの時の自分が今この高専を生きるときに、まさかこんな文章を書き始めるだなんて思いもしなかっただろう。


 そもそも、修学旅行が悪いのである。修学旅行がちょうどいい時期にあって、修学旅行をするときには青春にあこがれを持ち、それに近づこうとする。どれも間違いじゃないし、至極当たり前のことである。そんな「今しかできないこと」しか詰まっていない修学旅行というイベントを最高のものにしようとする。間違っていないんだ。

 だけども、なぜだろうか。僕は少しだけ思うことがある。ほかの皆は「好きな人に告白したとき、どうなるか」とかを考えないのか、など。僕もその波に乗ろうという気持ちは多少なりともある。けどやっぱり「怖い」んだ。彼女の笑顔をもう二度と見ることができなくなるということ。少々大げさかもしれないが、そうだろう。いま今まで積み上げてきたこの関係性を、その「好き」の一言で壊すことになるというのだから。僕はその行為自体について特に何も思わない。むしろそれを肯定するまでである。だけども、だ。そう今までいわゆる「安パイを打ち続けてきた」というのにもかかわらず、いきなりぶっこ抜きをやり始めるようなものだ。彼彼女らは、何を思って告白に踏み切るのか、いまいち自分でもつかめずにいた。


 学生の一日というものは非常に早いものである。僕の感覚では寝て起きただけなのにもかかわらず、2日分くらい経っているのである。有名な法則でジャネーの法則というものがある。それは簡単に言うと、「0-20歳の体感時間と20-80歳の体感時間はほぼ同じ」というものである。若いうちは何かと早く感じるのはそういうことであろう。

 ボーっとしていると、もう修学旅行目前なのである。クラスメイトは必要なものを買ったりする話をしている。確かに、必要なものを買わなければいけないなと思うのと、こういう会話を聞くのもこれが最初で最後なのだろうな。と。

 社会に出て、あの頃が懐かしいや、あの時はよかったなんてボヤく大人もいるだろう。自分自身もそういう風になるんだろうなと思う反面、多分ほかの人が思っているような、そういう懐かしさを覚えるのではないと思う。どちらにしても幾分かほかの人と感覚のずれた懐かしみをするんじゃないのかなと思っている。僕が今も昔もあこがれている「青春」というもの。僕自身はこれを手に入れたいという願望よりかは、「それを横目に見て楽しみたい」なのである。つまり、傍観者が僕は好きで、それでありたいというわけである。僕自身が淡い青春をしたとしても、僕自身が熱い愛を確かめ合ったとしても、僕の欲望は満たされないだろうと思う。そう思うとこの感覚は小説家には都合のいい感覚なのではないのかと思って、「もしかして適正あるのでは?!」なんて思ったりもしてしまった。絶対それはないと、もう一人の自分が心の中で諭してきたような気もするがあまり気にしないでおく。


 ともあれ、修学旅行である。戦略を考えるのは好きなので、これをどう使うのか。考えてみようと思う。

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僕のタイムトラベル史 れもねぃど @remoneed_blue

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