第4話 時系列の曖昧な感覚

 つかさに一時期、のめり込んでいた板倉だったが、半年もすれば、店にもいかなくなった。

 正直、給料とお店の値段を考えれば、いくらボーナスがあるとはいえ、まったく貯金ができない状況を、さすがに憂いてくるのであった。

 さらに、言い方は悪いが、

「つかさに慣れてしまった」

 のだ。

 つかさという女性のテクニックは、男性を引き付けるものが十分にあるのだが、ある程度までくると、

「その身体に飽きてくる」

 と言ってもいいだろう。

 男性の身体と女性の身体の圧倒的な違いがあり、その違いというのは、

「賢者モード」

 と呼ばれるものが、男性にはあるということであった。

 それは、男性特有のもので、

「性行為を行った時、男性が絶頂に達すると、その後に襲ってくる倦怠感のようなものから、急に我に返ってしまい、何かの罪悪感のようなものを感じる瞬間があることである」

 もちろん、男性にも、

「個人差」

 というものがあり、賢者モードがすぐに切れる人もいれば、数十分も続く人もいる。

 昔の映画などで、ラブホで愛し合った男女が、お互いに達した後は、同じように、脱力感を感じるのだが、女性はまたすぐに求めることができる。

 しかし、男性はそうはいかない。倦怠感が襲ってくると、身体中の血液が逆流しているかのような虚脱感であったり、さらに、身体の奥から、何かがこみあげてくるのだが、そこまでなのだ。

 性欲が旺盛な時は、身体の一点に、興奮が集中することで、興奮をさらに高めることができるのだが、

「賢者モード」

 の時は、その

「一点への集中ができないのだ」

 ということだった。

 つまり、

「賢者モードでは、生殖器が役に立たない」

 といってもいい。

 しかも、身体中が敏感になっているので、女性が、男性を慕って、身体のしがみつこうとしても、男は感じすぎるため、しがみつかれると、却って、気持ち悪さがこみあげてくるので、なるべく、離すようにしている人もいるだろう。

 何しろ、シーツが肌に当たるのも、気持ち悪いくらいだ。

 だから、今ではできないが、以前であれば、枕もとの灰皿を近づけて、タバコを吸うような仕草が、よくドラマなどで描かれたものだった。

 そんな賢者モードを、どのようにすればいいのか、考えてみた。

 だが、時間が経たないと、どうしても、身体に力が入らないのだから、どうしようもない。

 中には、賢者モードなどなく、

「何回でもできる」

 という猛者もいるだろうが、普通の人であれば、数十分の賢者モードを過ごし、その日は、できても、後一回とかその程度であろう。

 さらに、どうしても、いくら身体の相性がいいと言っても、毎回同じ人を相手にしていると、

「マンネリ化してしまう」

 という。

 それは、本当のマンネリ化ということもあれば、

「身体に飽きが来る」

 という場合もあるだろう。

 その飽きを感じさせないテクニックが、つかさにはあった。

 しかし、その分、男の方も、そのテクニックに溺れ、

「それが最大に癒しだ」

 と思って、結構短期間に通い続けると、金銭的な問題も絡んでくることで、

「このままでいいのか?」

 と考えるようになる。

 普通の人だと、風俗で何度も賢者モードを感じていれば、次第に、

「これでいいのか?」

 というのを感じるようになるので、2,3回くらいは通うことがあっても、次からは、女の子を変えるか、それとも店を変えるかして、変化を持たせようと考えるだろう。

 同じ店であれば、今までの贔屓の子に対して、

「後ろめたさ」

 のようなこともあったりするので、

「次回は、別のお店にしてみよう」

 と考えたりするものだ。

 それも気分転換。そもそも、お金を払うのは、こっちなのだ。

 だが、昔のように、

「ストレス解消」

 というものが、一番の目的であれば、そのあたりの罪悪感はないだろう。

 しかし、今は、女の子もある程度楽しんでいる子も多いので、男性側も、甘んじてそのサービスを受けることに対して、少なからずの罪悪感というものは、ないのだった。

 ただ、板倉は、少し、つかさに、

「のめり込みすぎた」

 のかも知れない。

 板倉も男なので、多少なりとも、賢者モードはあった。

 だが、そのせいで、

「飽きが来る」

 という感覚があったわけではない。

 単純に、

「つかさの身体に飽きてしまった」

 ということであった。

 それに我に返ると、金銭的な問題もあった。そうなると、

「しばらく、風俗はいいかな?」

 と思うのだ、

 罪悪感がないのだから、

「卒業」

 ということが考えていない。

 あくまでもしばらく遠ざかってみるということになるのだが、必要以上に、身体がいうことを利かないということになると、しばらくというのが、どれくらいになるのかは、想像もつかなかったりした。

 そんなことを考えていると、

「このままでは、風俗嬢相手でなければ、身体が反応しなくなるのでは?」

 という懸念も出てきたのだ。

 それは、さすがに避けなければならない。

「女を抱きたいと思うと、そのたびに、巨額の金がいると思うと、これは大変だ」

 ということである。

 ある程度の年齢になれば、かなりの間隔をあけてでもいいのだろうが、まだ二十代などというと、性欲がもりもりと言ってもいい時期だ。

 そんな時期に、自分が満足できるだけの回数、風俗にお金を落とすということになると、「お金がいくらあっても、足りない」

 ということになるのだ。

 そういう意味で、板倉のように、

「賢者モード」

 なのか、

「飽和感覚」

 なのか分からないが、

「しばらく、風俗から離れてみる」

 という感覚も、間違っていないに違いない。

  ついこの間まで、

「早く、つかさに逢いたい」

 と思っていた自分が、かなり遠い過去のことのようで、その感覚は本当に、かなり昔の感覚である。

 板倉は、時々、

「時系列」

 というものの感覚がマヒしてくることがある。

 つまりは、

「あれが、昨日のことだったのか、それ以前のことだったのか、曖昧になってくる」

 というものである。

 つまり、ある出来事を思い出したとする。

 その出来事が、自分にとってセンセーショナルなものだったのか、それとも、そこまでではなかったのかということになるのだろうが、その思い出したことの、起こった時期というのが、曖昧な気分になるということだった。

「じゃあ、それはいつのことを思い出す時なのか?」

 ということを考えた時、

「ここ2,3日のことだったのだろうが、それが、いつだったのかが曖昧に感じられるのだ」

 というものだが、近い過去であればあるほど、

「自分が、健忘症なのでは?」

 と思えてくると、その曖昧さが、次第に、自信喪失につながってくるのだった。

 健忘症というものが、どのような影響を自分に与えるかというのが、理解できなかった。

 年齢的にも、普通ならありえないと思うと、

「気にすることはないのか?」

 と感じて、それ以上は考えないようにした。

 それはいいことだった。

 確かに、若いとは言っても、

「若年性健忘症」

 というのがあるくらいなので、二十代でも、十分に健忘症になることだってある。

 しかし、それこそ、稀なことであって、

「健忘症ではないだろうか?」

 と思ったとしても、それはあくまでも、

「気のせいだ」

 と言ってもいいだろう。

 さらに、板倉は性格的に、

「優柔不断」

 なところがあった。

 そんな性格の人間が、健忘症になるというのは、あまり考えられない。

 それよりも、

「気が散りやすいことで、たくさんの感情が湧いてくるため、頭の中がカオスになり、それらを整理できないのではないだろうか?」

 と考えてみると、何となく、理屈が分かってくるような気がした。

 というのも、

 特に、板倉というのは、よく子供の頃のことを思い出したりする。

 その思い出すこととしては、

「子供の頃に起こった、センセーショナルな出来事であるが、今思い出して、センセーショナルだったという意識は、小学生の時に見た、交通事故の光景だっただろうか?」

 あれは、学校が終わって帰る時、まだ、ランドセルを背負っていたので、小学三年生の頃だっただろうか、

 学校からの帰り道、遠くの方から、

「ガチャン」

 という音が聞こえた。

 いや、そんなハッキリとした音ではなく、

「言葉で表現するのが難しい」

 というような、低音で鈍い、表現ができないような音がした。

 その瞬間、身体にずっしりと何かがのしかかったような音が聞えたので、非常に溜まらあかい音だったのだ。

「何かが当たった音だよな」

 と一緒に帰っていた友達がそういった。

「ああ、あの音は非常に溜まらない音なんじゃないか?」

 と言い出した。

 今から思えば、

「何か鉛のような重たいものが、やわらかいものを押しつぶしたかのような音だ」

 ということで、すぐに交通事故を思い浮べるのだが、小学三年生だったあの頃に、

「交通事故」

 という印象が果たして浮かんできたのかどうか、自分でもよく分からない感覚だったといえるだろう。

 そのうちに、後ろの方で、ワイワイ人が集まっているのを感じた。

「こりゃあ、大変だ。救急車を呼ばないと」

 という言葉が聞えたので、

「ああ、誰かケガをした人がいるんだ」

 ということは分かった。

 最初は無視して帰ろうかと思ったが、

「誰かが、見に行くことを言い出せば、自分も行こう」

 という、感覚になった。

 それでも、結局は、

「他力本願」

 なのだ。

 そういう時に限って、その日も声を上げる子がいた。

 こういう時にはいつも、声を上げるやつで、これもお約束というか、いつもの、

「通常運手だった」

 と言えるだろう。

「よし、行ってみよう」

 という声を聴いて、板倉は、ホッとした。

 きっと、心の中で、

「誰も言い出さなかったら、どうしよう」

 と思っていたからだ。

 最終的には、自分が声を出すしかないのだが、それはあくまでも、

「最後の手段」

 だったのだ。

 それを考えると、

「じゃあ、行ってみよう」

 と言ってくれたのは、心強かった。

 たあだ、いつもは、

「よし、行ってみよう」

 というのに、その日は、

「じゃあ」

 という言葉が最初に来たのだ。

 その違いを、普段だったら、意識するほどではないのだろうが、意識しないどころか、大人になってまで覚えているのは、その時の友達が異常だったからなのか、それとも、事故への意識が強かったからなのだろうか、正直、よくわかっていなかったのだ。

 事故現場に行ってみると、その悲惨さを物語るように、異様な臭いが立ち込めていた。

「まるで、ゴムでも焼くような嫌な臭い」

 だったのだが、なるほど、車から火が上がっていて、タイヤも燃えているではないか。

 それを見た瞬間、

「ああ、もう誰も生きてはいないよな」

 と子供心に思ったものだった。

 救急車のサイレンと、パトカーのサイレンがほぼ同時に聞こえ、まるで、

「サイレンによる、音のカオス」

 が出来上がっていたのだ。

「サイレンというのは、救急車の方が、印象的だな」

 と、その時初めて感じた。

 そもそも、これくらいの大事故でもない限り、救急車とパトカーが一緒に来ることはない。

 しかも、少ししてから、消防車の出動してきた。

 さすがに燃えている光景を見て、通報したのだろう。

 ということは、

「最初から燃えていたわけではない」

 ということだろう。

 野次馬があつまり掛けた時は、そこまで火がひどくなくて、気付かなかっただけかも知れない。

 しかし、この、

「ゴムの焼けるような臭い」

 が立ち込めてきた時、

「これはヤバイ」

 と感じたのだろう。

 実際に消防車がやってきて、消防活動に入った時は、幸いにも、そこまでひどかったわけではないのか、半時間くらいで消火できたようだ。

 しかし、

「下手をすれば、くすぶっている火が残っているかも知れない」

 と思ったのか、消防団員は、少しの間、様子を見ていた。

 それは、消防団としては当たり前のことで、

「さすが、火消しに特化した集団だ」

 と思わせたのだった。

 事故が発生してから、けが人の方は、担架に乗せられ、救急車に乗せられ、急いで、サイレンを鳴らしながら、病院へと急行したようだ。

 これが、実に手際よく行われたので、

「あっという間の出来事だ」

 と言えるのだろうが、その場の場面を思い起こすと、結構なことが行われたのだ。

 感覚的に、

「皆てきぱきと動いていたので、電光石火として、あっという間だったように思えたのであるか」

 あるいは、

「急いで動いたことが、まるで残像のように、コマ送りになり、そのせいで、感覚まで、刻まれたように思うことで、あっという間だったように思えたのではないだろうか?」

 とも感じられた。

 どっちもどっち、理屈的には間違っていないような気がするので、そのあたりは問題ないと言ってもいいだろう。

 だが、一ついえば、

「あの時、実際に、けが人の悲惨な状況を見たと思うのだが、光景を思い出そうとすると、どうしても引っかかって思い出せない」

 というのだ。

 それは、

「本当に見たのかどうなのか?」

 という意識があったのか、なかったのか、自分でも正直分からない。

 それを思うと、

「夢であってほしい」

 あるいは、

「夢だったのではないだろうか?」

 というような、思い出した時、どっちだったのかという、両面からの感覚が両方、自分の中に残っているのである。

 そんなことを考えていると、

「最近になって、また思い出すようになった」

 ということを考えると、過去にも思い出したことが何度かあったという意識があり、そのうちに、

「定期的に思い出していたのではないか?」

 と考えるようになると、まるで途中を輪切りにしたような感覚になるので、それぞれの間に起こったことと比較すると、

「どっちが昔だったのか?」

 ということを考えた時、

「その昔」

 という感覚が遠くなるほど曖昧になるのだが、こういう時でないと感じない、

「かつての記憶が、輪切り状態になって、いくつも存在している」

 という感覚から、

「どちらの記憶が、新しいものなのだろう?」

 ということを考えたとしても、それはあくまでも、曖昧になったとしても当たり前のことであり、そもそも、

「いつが過去のことなのか?」

 などという発想を、そんなに考えることなどないと思うと、

「まるで健忘症のような感覚に陥る」

 というのも、

「実に無理もないことではない」

 と感じるのだった。

 実際に、その光景が、トラウマになってしまっていて、実は光景よりも、

「臭い」

 というものに、敏感になった気がするのだ。

 その時の光景は、悲惨なもので、確か、オイルが漏れていたのか、嫌な臭いがした。

 しかし、その時の光景を思い出そうとした時に、想像される臭いは、

「オイルの臭い」

 ではなかった。

 自覚しているその臭いは、何か、

「酸っぱいような臭い」

 であった。

 あの時の雰囲気で、酸っぱいような臭いが滲んでいるわけはないのに、なぜなのか、自分でもしばらくは分からなかった。

 それが分かるようになってきたのが、ちょうど、中学の頃だっただろうか? 今から思えば奇妙な経験だった。

 あれは、女の子も混じって一緒に表で遊んでいたのだが、服装は皆学生服だったので、そんなに激しい運動でもなかった。

 ちょっといえば、軽い、ハンドボールのようなもので、体力の温存であったり、手を抜こうと思えばいくらでもできるような感じだった。

 しかし、ハンドボールをしていると、中には、

「手を抜くということを知らない女の子」

 もいたようで、しかも、

「一つのことに集中すると、まわりがまったく見えないくなる」

 という女の子で、その子からすれば、

「楽しいから、気になっていなかった」

 ということであろう。

「何か、酸っぱいような、それでいて、鉄分を含んだような臭いがするな」

 とは思っていた。

 その時は、まだ、小学生の時に、遭遇した、あの悲惨な事故のイメージが頭の中に残っていたのだ。

 その時、すぐに、

「これは、血の臭いだ」

 ということは、ピンと来たのだが、周りを見ても、この状況でも、

「どうして、血の臭いなんかがするのだろう?」

 という思いに至ったのだ。

 思春期に入っていたが、その時はまだ、

「女の子の生理」

 というものを理解していなかった。

「男と女の身体は、まったく違ってできている」

 ということは、えっちなことで聞いていたので、歪んだ形での知識として頭に入っていたのだった。

 その時に、他の人も気付いたのか、露骨に嫌な顔をするやつもいた。

 そいつは、結構ませていたので、生理くらいのことは知っていただろう。

 だが、何も言わなかった。

「おかしいな。こういうことに気付けば、いつも真っ先に言わないと気が済まないタイプなのに」

 と思った。

 普段から、あまりまわりに気を遣う方ではなく、

「お前は、KYだ」

 とよく言われていたやつが、気付いているはずなのに、何も言わないのだ、

 気づいているのは間違いないだろう。露骨に嫌な顔をしたのだから。

 ただ、その顔も一瞬だった。

「あいつが、一瞬で寸止めできるほど、器用なやつではないはずなのに」

 と感じた。

 そんなことを感じていると、一人の女の子が、さすがにヤバイと思ったのか、

「ごめん。一回中断してくれるかな?」

 と、タイミングをうまく見計らって、そういうと、一人の女の子を連れて、校舎の方に入っていった。

 そういえば、相当悪い顔色になっていたのを、連れていかれる時に気付いていた。

 それが、普段から、

「集中してしまうと、まわりが見えなくなる子」

 であり、実際に、ちょっと前までは楽しそうにしていたのは分かっていたはずだった。

 板倉は、彼女の様子をじっと見ていた。

 自覚はなかったが、好きだったということなのだろう。そのことに気付いたのは、実にこの時であり、

「一瞬の違いに気付けなかったことを、必要以上に後悔している」

 というのを感じたからであった。

 好きだったということを自覚したことで、彼女の様子が余計に気になっていた。

 だが、その時、頭の中でその時の状況がハッキリと分かった気がした。

「彼女は、自分でも気づかないうちに生理になっていた。しかし、楽しく遊んでいたので、気付かなかったが、動きがあるので、その血が身体から漏れる形になって、脚の方に流れていったのかも知れない。しかも、汗を掻いているので、その臭いが、それぞれ混じりあうことで、何ともいえない、悪臭を放つことになったのだおる」

 と思った。

 さらに、

「友達もそのことを分かっていたが、気を遣ってなのか、指摘できなかった。指摘してしまうと、必要以上なことを言わなければならず、最初の指摘で自己満足する男に、言い訳や、理屈を言わないといけない状況に陥ることは、決してあってはならないことだ」

 と思っていたのだった。

 そんな状況になって、初めて、友達の女の子が皆を制して、校舎に連れていったのだ。

 行き先がトイレなのか、保健室なのか分からないが、ここから先は、女性しか立ち入ることのできない

「禁断の場所」

 だったに違いない。

 さて、その場で男性陣と、他の女の子たちは、取り残された気になったが、事情が事情だけに、

「男の子が男同士」

「女の子は女同士」

 という形に別れるしかなかった。

 お互いに、会話が聞こえないくらいのところまで離れて、輪を作っている。

 それでも聞こえてはいけないということで、なるべく、輪を小さくして、完全に、相手からは遮断したという、明らかにおかしな雰囲気だった。

 男の方は、、丸くなった波いいが、何を言っていいのか分からない。

 会話になっていないのに、なぜか会話のようにしていた。

 それは、会話をしていない方が、違和感があるように感じるからだった。

 だが、どんな言い方をしても、男には女の身体は分からない。本をいくら読んでいたとしても、自分の身体には、絶対に起こりえないことなのだから、何を言っても同じなのだ。

「せめて、状況説明くらいしかできないだろう」

 つまりは、まったく分かっていない人に、

「最低限のことを教える」

 ということである。

 さすがに、まったく分かっていない人はいたが、

「教えてもらっているのだから、真面目に聞こう」

 という態度は取るが、どこまで分かっているのか分からないものだ。

 あの状況で、まったく分かっていないことは、今の状況を順を追って話をしたとしても、しょせん分かるはずなどないからであった。

「あれって、生理なに?」

 と、板倉が聞くと、若干のメンバーが意外そうな表情をした。

 それはきっと、

「板倉くらいのやつが生理というものを知らなかったのか?」

 ということであった。

 板倉は、まわりが、意外そうな顔をするのを見て、自分もビックリしていた、

「俺って、皆から、どんな目で見られていたのだろう?」

 ということであった。

 今はここに、男子しかいないので、この反応は致し方ないかな?

 と思ったが、

「女性の中に、自分というものがいたら、どう感じるだろう?」

 ということを考えると、

「そんなにませて見えたということだろうか?」

 と感じると、恥ずかしい気持ちになったのだ。

 恥じらいというよりも、知らなかった方が恥ずかしいと思う。その方が今の時代は、正義なのかも知れない」

 と感じるのだった。

 知らなかったことを知ってしまうと、そこに恥じらい。いわゆる、、

「羞恥」

 という感情が浮かんでくる。

 それは、女の子が感じなければいけないはずなのに、彼女は、無邪気と言えばいいのか、感情が、破天荒で、

「天真爛漫」

 なところが、

「彼女のいいところなのだが、たまに、こうやって、まわりを巻き込む形になってしまうと、それでも、彼女の肩を持つ人が、男側にも女側にもいるということで、何とも、役得なところがある」

 と感じられるのだった。

 しばらくすると、抱きかかえるようにして、校舎の方に連れていった女の子が一人で戻ってきた。

 二人で戻っていると思っていたその場は、暗い空気に包まれて、皆おかしな気分になっていた。

「苦虫を噛み潰したような」

 というのは、まさしくその通りなのだろう。

 一人で帰ってくる時、彼女は、下を向いていた。

 普段から、いつも前を向いて、ハッキリと自分の態度はまわりに示すような人だったが、そんな女の子が、顔を下に向けているのだ。

 その様子を見ていると、

「顔を上げて、表情を見られるのが嫌なのかな?」

 と感じた。

 とすると、どんな表情をしていて、いや、していると思っているから、見られたくないと思っているのだろう?

 そんなことを考えていると、やはり、

「男性と女性の身体の違いは、まったくもっていかんともしがたい」

 と言えるのではないだろうか?

 どんなに説明しても分かってもらえない。

「あるものがなくて、ないものがある」

 というのが、男と女の違いだからだ。

 と言えるだろう。

 つまり、それは、男女の間の、

「禁断の会話」

 というもので、お互いに恥じらうという感覚は、聖書の、最初の方にある、

「イブが、禁断の果実を食べたからだ」

 ということで、その様子は、完全に、

「太古の昔の、さらに、創生に近いところだったのだ」

 と言ってもいいだろう。

 女の子たちが、小学生の時、学校の先生からどのように教わったのかということを聞いてみたい。

 学校によっては、

「男女一緒に教える」

 というところもあるようで、

「どこまでが、禁断で、どこからが許されるのか?」

 と考えてしまう。

「ひょっとすると逆なのでは?」

 と考えるが、それがどう違うのかを理解できているというのだろうか?

 実際に、男子として聞いたことはなかったので、どうやって知るかというと、基本的には、男子は、誰か先輩から聞いたり、友達から聞くという、

「口伝」

 のような形か、同じ口伝でも、

「女の子から教えてもらう」

 ということもありのようで、

「その時の女の子には、恥じらいなんかないさ。あからさまに恥ずかしい言葉を連呼しているのさ」

 というのだ。

「おもしろいか?」

 と聞くと、

「おもしろいというのとはちょっと違うが、恥ずかしいことを平気で口にしているということは、それだけ、大っぴらにいうのだから、余計に恥ずかしいということを悟らせないように喋っているんだろうな」

 ということであった。

「逆も真なり」

 ということになるのだろうか?

 そんなことを考えていると、

「俺たち男は、そんなこと誰から教わるかによって、見方もまったく違ってくるから、本当は、保健体育の授業として、キチンとした形で聞くのが当たり前なんだけどな」

 と言っている人がいたが、まさにその通りだった。

 そもそも、これらの、

「性教育的な話」

 というのは、高校生になってから、生物の授業で勉強することだ。

「だったら、何も高校生になるまで待たなくても、中学生の思春期の段階でやればいい」

 と言えるのではないだろうか?

 実際に、教育界の方で、

「性教育の授業というものを、正式化させればいいのではないか?」

 という意見があるかどうかというのは、正直分からないが、それを、

「性犯罪につながるから、中学生には早い」

 という意見があるとすれば、それこそ、本末転倒である。

 というのも、

「性犯罪は、知らないから、知りたいと思うことで起こる犯罪だということになれば、教えておく方がいいに決まっている」

 と言えるのではないだろうか?

 それを考えると、

「教育委員会という立場から考えると、犯罪を未然に防ぐということから、性教育にっ関しては、中学から進めるべきではないか?」

 という意見であってもいいのではないか?

 と感じるのだった。

「中学生の思春期というと、確かに一歩教育を間違えると、もっと性犯罪が進むかも知れない」

 という考え方もあるだろう。

 しかし、それは、

「自分たちが決めてしまって、実際に性犯罪が増えてしまうと、すべての責任は、教育委員会になってしまう」

 ということである。

 だとすれば、

「このまま何もしなくても自分たちのせいにならないのであれば、このままがいいのだ」

 ということになり、そこで、

「何もしないのが正解」

 という、実に保守的な考え方になり、今の政府と何ら変わりのない、

「ご都合主義になってしまう」

 ということであろう。

 その時の女の子は、その日が初めてだったようだ。

 いわゆる、

「初潮」

 というもので、彼女自身、いずれは自分の身体に生理が訪れるということは分かっていたが、それがまさか今だったとは思わず、しかも、その状態になっていたことを、まったく分からなかったことで、かなりの羞恥の気持ちになっていたようだ。

「恥ずかしい」

 ということを連呼しながら、布団に顔うずめて、絶えず、恥ずかしがっているだけだった。

 しかし、次の日には、まわりが気を遣っているにも関わらず、

「何もなかったか」

 のように、

「おはようございます」

 と言って、学校に登校してきた。

 さすがに一日で生理が終わるわけもなく、少し身体を休めながらの行動は、いつもの彼女を知っているだけに、痛々しく感じるのだった。

 その日は、さすがに学校で待っていても仕方がないということで、

「もう、皆帰ろう」

 と、彼女を連れて校舎に向かって、一人戻ってきた彼女が、そう声をかけたのだ。

 皆。心の中で、

「帰った方がいいよな」

 と思っていたのだろう。

 誰もその言葉に反対を申し立てる人は誰もいなかった。

 当然のごとく、学校から帰ったのだが、

「どうも何か納得のいかないことがあるんだよな?」

 と板倉は感じていたが、その意識として、

「あの臭いが、どうにも忘れられない」

 ということであった。

 そして、今のままでいけば、

「あれが生理の臭いだ」

 ということを思い知らされてしまい、あの臭いを感じたその時は、

「吐き気を催して、どうにもたまらなくなってしまうのではないだろうか?」

 と感じたのだった。

 その臭いを思い出した時、彼女の生理の時に思い出したつもりだったが、ひょっとすると、もっと前のことだったのではないかと思うのだった。

 というのは、彼女の生理を感じてから、数日が経っていたその時、どこからか、風に乗って、

「鉄分を含んだ、酸っぱい臭いを感じた」

 のだった。

 その臭いが、

「生理の時に感じた臭い」

 だったのか、それとも、

「子供の頃に目撃した、あの悲惨な交通事故の意識だったのか?」

 どちらにしても、トラウマとして残っていたのは、どちらにしてもあったことだった。

 その記憶は、はるかに子供の頃の方が遠かったが、生理への意識とは違うところで、

「どちらが遠く感じるか?」

 と言われると、ほとんど変わったという意識がないように感じるのだった。

 その時に感じたのは、

「交通事故の感覚」

 というものは、

「臭い」

 という意識だけではなく、別の意識としての、

「瞼の裏にこびりついている光景」

 と両方があったのではないか。

 そして、それらが単独であっても、小さなトラウマくらいにはなっているといっても過言ではないだろう。

 そう思うと、

「瞼の裏への意識」

 さらには、

「臭いというもののトラウマ」

 しかもそのトラウマが、

「羞恥心から来ている」

 というものであれば、その二つが揃ってこそ、さらなる大きなトラウマを作り出すのではないだろうか?」

 と言えるのではないだろうか?

 そんなことを考えていると、

「臭いを思い出すと、瞼に裏に光景が」

 そして、

「瞼の裏に光景が浮かんでくると、その時一緒に臭いも経ち籠ってしまう」

 ということで、その意識が、重複して感じ、

「切っても切り離せない」

 という感覚になるのだろうと、感じるのであった。

 それを思うと、

「トラウマというのは、一つだけではないのかも知れない」

 と感じる。

 そのために、

「五感」

 というものがあり、それぞれに、

「覚というものを導くのではないだろうか?」

 と感じるのだった。


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