第5話 名探偵にラッキースケベは……/詩亜(好感度5)


「……あっち……」


 滴る汗を手の甲で拭いながら、俺は幻影寮の玄関扉を開いた。

 今日の東京の最高気温は26度。

 これが春? 冗談だろ。アイスが食いたくてたまんねえよ。


 近年すっかり常態化した異常気象に制服の衣替えは間に合っておらず、長袖のカッターシャツはぐっしょりと汗に濡れていた。

 着替え……いや、風呂だ。

 ひとまずシャワーを浴びなければ何をする気にもなれない。


 俺はぐったりしながら古い板張りの廊下を歩いていく。

誰か他の住人が風呂場を使ってなきゃいいけど……と考えて、俺はすぐに否定する。


 冷暖房を含めて、真理峰探偵学園の設備はかなりしっかりしているが、さすがに今日は他の生徒たちもグロッキーになっていた。

 しかもこの炎天下、尾行実習で街じゅうを歩かされたもんだから、水分や冷たいものを求める亡者のようになっていた。

 

 そんな中でもお姫様――詩亜・E・ヘーゼルダインは、ずっと涼しげな顔をしていた。

 名探偵にもなると、体温を制御できるようにでもなるのか?

 このクソ暑いのに、制服をしっかり着込んだまま、汗ひとつ垂らさずに尾行実習をこなしていたのだ。


 きっと今頃、同じように涼しい顔をして、殺人事件でも解決しているに違いない。

 もし仮にあれがやせ我慢で、俺と同じように寮に帰りつくや否や風呂場に飛び込んでいたとしても、何もかもお見通しの探偵王女様のことだ、俺の襲来なんか簡単に察知して、トラップの一つも仕掛けているはずだった。


 そういうわけで、俺は何の警戒もせずに、脱衣所の引き戸を開いた。


「……あ゛ー…………」


 ブゥーン――と、古い扇風機が回っている。

 その手前に、一人の少女が座っていた。


 きらびやかな金髪の。

 妖精のような美貌の。

 青みがかった白の下着に身を包んだ――


 ――詩亜・E・ヘーゼルダインが。


「……あ゛ー……涼しい……生き返――」


「……お、お前……」


「ふあ?」


 間の抜けた声を漏らしながら、お姫様が振り返る。

 俺の姿を見る。

 口を開けたまま固まる。

 数秒の時が過ぎ、お姫様の首から上が真っ赤に染まった。


「ふっ、ふみっ、不実崎さっ……!?」


 お姫様は扇風機の前にスツールを置いて、その上に座っていた。

 身にまとっているのはブラジャーとパンツだけ。

 どっちもクリスタルのような青っぽい白色で、お姫様の新雪のような白くて滑らかな肌を可憐に、そしてセクシーに彩っていた。

 探偵界の至宝にしてアイドルである美少女が、そんなだらしのない格好で、夏休みの小学生のように扇風機の風を浴び、長い金髪を揺らしていたのである。


「な……何して……お前……」


「こ、こっちのセリフですっ! ノックとかするでしょう、普通!」


「だってお前、前は読めてたとか言ってお前、ブービートラップはどうした!?」


「そ、そんなの、暑くてそれどころじゃ……!」


 お姫様は背中を丸め、胸元を腕で覆う。

 それでも隠しきれない豊かな膨らみの上半球と、それを飾る空色のレースの刺繍が、俺の目に強烈に焼き付いた。


「な、何まじまじ見てるんですかっ! さっさと出て行ってください!」


「あ……おう。そうだった……」


 あまりに気が動転して、適切な対処に気が回らなかった。

 俺はくるりとお姫様に背を向けて、後ろ手に引き戸を閉めた。

 さっさとこの場を離れようと思ったが、その前に、閉めた引き戸の向こうからお姫様の弱々しい声が聞こえてくる。


「気が、抜けてました……。この寮には、不実崎さんしか男性がいないので、つい……」


「……その口ぶりだと、俺には見られてもいいってことにならないか?」


 その割には大動揺してたが。


「そ、そんなわけないでしょうっ! ……もう……いつなんどきでも油断するなって、あんなに師匠に教え込まれたのに……」


「……まあ、いいんじゃねえか?」


 俺が言うと、引き戸越しにじっとりとした視線を感じた。


「そりゃああなたは嬉しいでしょうね。私のエッチな姿が見られて!」


「そ、そういうんじゃなくて! ……気が抜けてたんじゃなくて、気を許してたんだろ。それって、この寮のことを、ちゃんと家だと思ってたってことじゃねえか」


 俺は出自のせいで、頻繁に引っ越しを余儀なくされていた。

 だから自宅という概念に実感がない。

 どんな場所のどんな家に住んでも、自分の居場所だとは思えなかった。

 そんな俺にしてみれば、ついうっかり下着姿で扇風機の風を浴びられるくらい、気の許せる家ができたってのは……喜ぶべきことだと思うのだ。


「この寮の中じゃ、お前は名探偵でもなく探偵王女でもない、ただの詩亜でいられるってことだ。羨ましいくらいだぜ」


 物心ついた時から『犯罪王の孫』として生きてきた俺だからこそ……心の底から、そう思う。

 お前は違うのか?

 探偵王の娘――


「……………………」


 沈黙のまま、お姫様がゆっくりとこちら側に歩いてくるのを、引き戸越しに感じた。

 それは俺の背中のすぐ後ろで止まる。

 そしてそうっと、引き戸が内側から、ほんの少しだけ開けられた。

 

 バスタオルで前を隠したお姫様が、その隙間から顔を覗かせて――


「不実崎さん」

 

――俺の顔を見上げながら言う。


「この寮の中に限らず……私にとってあなたは、犯罪王の孫でもそれ以外の何者でもなく、ただの不実崎未咲です」


 詩亜・E・ヘーゼルダインは、花が咲くように微笑んだ。


「ですので、遠慮なく半裸で過ごしてください。気持ちいいですよ」


「……俺の筋肉を見たいだけのくせに」


「私のおっぱいや太ももを見たいだけのあなたと一緒ですね」


 言ってくれるぜ。

 自分から見ようとしたことは一度もないんだけどな、これでも……。


 とはいえ、見ちまったことは事実である。

 一応一言謝って、この件は決着にしようと口を開いた――


 その時だった。


「――お嬢様。シャワーはお済みになりましたでしょうか」


 廊下の向こうから、もう一人の少女の声が聞こえた。

 古い板張りの床を、しかし足音ひとつなく歩いてくるのは、メイド服を着た褐色肌の少女。

 まるで子供のように小さなその女の子を見て、お姫様は「あっ」と口を開けた。


 この褐色チビメイドの名前は、カイラ・ジャッジ。

 お姫様の傍付きメイドにして、探偵助手である。

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