23.Melia
シュテルが、戦っている。宰相ルーファス・グレイスターと。そして、メリアにはもはや見ることのできない何かと。
戦っている。シュテルだけが。
この身はただ守られているのに。
違う、とメリアは思う。なぜなら自分はクロネリア王国の女王。民を守り、導く立場にある。
そしてそれは、シュテルのことだって例外ではない。たとえ彼がクロネリアの民でなくとも、守られるばかりではなく、守りたい。そのように、メリアはかつて選んだはず。
そしてメリアは、こうも思う。どうして未来を見ることができないのか、と。
いつかの未来視によれば、メリアはここでないどこかで死ぬはずで、だからここで死ぬことはない……ならば今は、未来視は必要ない?
未来視の権能は祖神クローネの意思で、クローネの望む未来を選ぶための力で……そのために今は、未来視は必要ない?
クロネリアの国と民を導くための力は、シュテルのためにあるのではない……だから今は、未来視は必要ない?
ああ、もしそうなら……冗談じゃない、本当に。
メリアは知らず知らずのうちに、強く奥歯を噛み締めていた。命を賭してこの身を守ってくれている人の力になれないのなら、こんな権能、いったいなんの役に立つのだろう。
発砲音が響いたのはその時だった。
メリアの記憶では、それは自国の軍事演習で火砲が金属球を撃ち出す時の音と似ていた。
そして、時間が凍りついたかのような静止ののち。
グレイスターの右手から発せられた何かを、すんでのところでかわしたシュテルが、剣の追撃と蹴りを受けて大きく後方へと飛ばされた。
「シュテルっ!」
メリアは思わず、大楯を放って駆け出していた。脚にまとわりつくドレスの裾など破り捨て。
シュテルのもとに駆け寄っていく。
グレイスターが、再び右手を構えている。そこから轟音の源が撃ち出される直前、メリアはシュテルの身体を押し退けて、間に割って入った。
メリアの髪が束になって貫かれて落ち、床石が深く穿たれる。。
シュテルが叫んだ。
「なっ! メリア! なんてことを……死んでしまうぞ!」
「死なないわよ私は。だって、そんな未来は見えてないもの……今のところはね」
唖然とするシュテルの左腕は、鎖骨から肩にかけて裂傷で赤く染まっている。
メリアは慌てて破ったドレスの布を巻きつけ、その傷口を塞いだ。
「ふっ、趣味ではないが……時には出し惜しむことにも益はある。これは、銃という。火砲の原理を基盤に、それを拳ほどの大きさに小さくしたものだ」
グレイスターの右手には湾曲した笛のような、木と金属で組んた筒状のものが握られている。
「こうして懐に忍ばせるには最適。引き金を引いて先端の穴から鉛弾を撃ち出すのだが、そうと知らずに避けることができたのは、お前の運か、はたまたセンスというやつか。弾丸がその胸を貫いていれば、今頃はもうこの世にいまい。そしてそれは、次の弾でも同じこと」
「やめなさい、グレイスター卿。これ以上、私のシュテルを傷つけないで!」
「これはこれは、メリア女王陛下。何用か。もしや再び俺の元へと戻る気に? ガイオンとクロネリア、互いに手を取って和平の道に?」
「いいえ、あなたの言うかりそめの和平など、信じるに値しません」
「ならばなぜ。俺がそなたを、殺さないとは限らんぞ。そなたの命など、俺の描く筋書き次第」
メリアは一度だけじっと胸を押さえ、やがてまっすぐ、グレイスターへと向き直った。
「筋書き……私は、その言葉が嫌いです。やると言うのなら、やってみればいいわ」
売り言葉を買うように、メリアに向かって引き金が引かれる。撃ち出された弾はメリアの頬のすぐ横を抜け、長い真紅の髪を散らした。
銃などというものは、メリアにとっては見たこともない武器だ。だが、この弾に当たればどうなるかなど、想像に難くない。恐怖が、足元から背筋を伝って込み上げてくる。
でも逃げられない。いや、逃げたくなかった。
なぜならメリアは、特別な力を持っているのだ。
それなのに、何もできていない。
国と民を導くための権能を持っているのだ。
それなのに、彼のために何もできていない。
断片的な未来視。不明瞭な未来視。唐突な未来視。全て、願い下げだ。この身はそんなものに操られる人形であっていいはずがない。
メリアはシュテルを庇うように立ったまま、小さく、口元で呟く。
「……私の未来は私が決める」
もしシュテルがここで死ぬのなら、この命もここまででいい。そうなれば、決して違えることのないというクローネの未来視が、初めて外れる瞬間となるのだろう。
「たとえ私がここで死ぬのだとしても、それは私自身の選択。あなたの筋書きではありません」
すると再び銃弾が放たれる。だが、今度はメリアの身体がわずかに右に傾いた。
それはおそらく、本能的なものだった。動かなければ肩先をかすっていた位置だった。
その一連の動きの中で、ほんのわずかだけ、メリアの左の瞳が煌めいていた気がした。
「なぜ抗い、死に急ぐ? そなたも皆々と同じく、争いのない安寧を求めているのだろう?」
グレイスターは訝しげにメリアを見下ろし、やがて口端を引き上げた。
「故人は言った。誰しもが赤子として生まれ落ちた時に嘆くのは、この阿呆ばかりの舞台に引きずり出されたのが悲しいからだ、と。統べる者なくしては、愚者はいつまでも争うものだ。歴史がそれを証明している。ならば、俺が、それを終わらせよう。俺こそがこの舞台の主役、唯一絶対の王となり、世界を導く。俺の世界では、生まれてすぐの赤子も笑うぞ!」
「詭弁を並べるな! まさに今この国で、いったいどれだけの人が泣いていると――ぐっ!」
声を上げたのはシュテルだ。しかし痛みでそれも途切れる。
「さて、詭弁はどちらだ? この国の王はもはや半神ではなく、権能を持たない無能な王。そのことのほうが道理に合わぬ、民への裏切り。そう思わぬか?」
シュテルを射抜く、グレイスターの視線。
メリアは立つ位置を変えてそれを遮り、力んだシュテルの肩に優しく後ろ手を置いた。目を閉じ、そして、ゆっくりとまた開き。
「いいえ、思いません」と首を横に振って答えたのはメリアだ。
「これまで民は皆、神を求め、神を崇め、その神の選んだという半神の王に従い……そして今、あなたのように苛烈な為政者のもとで自らの不幸を嘆いています。私もかつて、民の一人であった時、己の不幸を嘆いたことがありました。生まれながらに王女という境遇に縛られ、選択の余地なく王座につかなければならないことを。世界がこのまま変わらなければ、未来の民も同じように、やはり嘆くことでしょう。自らの生きる道を選び取れない、その人生を。それではいけないと思いました。それではいけないと知りました」
無言の発砲――するとメリアの瞳から、再び真紅の煌めきがこぼれる。
わずかに動くメリアの身体。その腕があったはずの場所を、銃弾が通り過ぎていく。
グレイスターはすぐに次弾を発射したが、対するメリアは、今度も最小限の回避行動をとりながら、同時にその手でシュテルの身体をも少し引き寄せる。
メリアの肩とシュテルの頬のあったはずの場所を、銃弾が通り過ぎていく。
「誰だって、自らの歩む道は、自らで選ぶ権利を持っていると思うのです。民とは、本当に、あなたが導かなければならないような方々でしょうか。皆それぞれの意思を、生活を持っている。そうした民たちの集まりを国と呼ぶのです。一人一人が選び取る未来こそが国なのです」
ああ、その通りだと、半ば情動的に出た自身の言葉に、心の中でメリアは頷く。
わかった。ようやく、ここにきて。
国々に、もはや王は必要ないのだ。ならばすべからく半神も、そしてそこに宿る権能も――。
「ほら、今ここにも、国のためにその身を賭して戦っている民が一人」
メリアは右後方に半歩下がって、再びシュテルの姿をグレイスターに見せた。立ち上がらせ、剣を握るその腕に、両手を添える。
「あなたが自らを王と名乗るのであれば、あえてそれは否定しません。ですがなればこそ、この舞台の主役は彼ら……一人の民として世界を生きる彼らなのです。断じて、あなたではない!」
毅然としたメリアの声が、凛と響いた。
しばしの沈黙が流れ、やがてグレイスターは低く笑う。
「ははは……わかった、もうよい。そなたなどいなくとも、俺はこのままガイオンの王となり、すぐにクロネリアをも飲み込み、全ての人間の王となる。筋書きの読めぬ役者には退場願おう」
ことさらゆっくりと撃鉄を起こす音が、メリアの耳にも届いた気がした。
「次で最後だ。この弾はそなたに当たる。さあ、絶望して死ね!」
その時、メリアの左の瞳が、これまでよりもひときわ強く、真紅に煌めく。
迫り来る凶弾。メリアへと向かってまっすぐに。
それは凄まじい速度で目の前まで迫り、この胸に当た――。
「いいや、当たらない」
シュテルの構えた長剣が、メリアの目の前で弾丸を叩き落とした。
メリアにはもうわかっていた。先の未来視の終わる寸前で、この光景を既に見ていた。
欠片ほどの恐怖も感じさせない穏やかな声で、微笑みかける。
「ありがとうシュテル。もう少しだけ戦える?」
「もちろんだ」
力強く答えたシュテルの左手は、剣の柄に添えられているだけだ。頼れるのはほとんど右手一本のみ。それでも彼の言葉は、メリアの心にこれ以上にない安堵を与えた。
グレイスターは平静を装っているが忌々しげだ。焦れた様子の弾丸がまた飛んでくる。
メリアの瞳が真紅に煌めく。
標的はメリアともシュテルとも取れない、乱雑な狙いの銃撃。シュテルはその反射神経で見事にまた弾き落とす。
未来視が終わる。飛来する銃弾を避ける必要はない。シュテルが問題なく防いでくれる。
さらに次弾が発砲され、メリアの瞳が真紅に煌めく。
狙いはメリアだ。しかし銃弾はメリアの身につけるドレスの、破れた裾を撃ち抜くだけ。
シュテルがまた身構えるが、手負いの彼が動くまでもない。
「大丈夫」とメリアが制すと、銃弾はメリアのドレスの端を打ち抜いただけで床に埋まった。
さらに次弾が発砲され、メリアの瞳が真紅に煌めく。
グレイスターは撃つ直前に銃口の向きを素早く変え、弾道を読み取らせないようにしていた。
標的はシュテル。彼が動かなければ、そのまま右肩を直撃する軌道だ。
寸前まで、銃弾が迫る。
「シュテル左へ!」
彼は回避の方向に迷っていたようだったが、メリアの声に反応して、着弾寸前で左に飛んだ。
銃弾が、シュテルとメリアの間をすり抜けていった。
一瞬、シュテルが驚いた顔をこちらに向けたが、メリアは答えずに正面を見続ける。
権能の未来視が、連続的に訪れている。
確かこれは、祖神クローネの意思による未来視のはずだ。彼女の意思により、彼女の見る未来を共有することで得られる視界。そして未来視として見ることで、無数の可能性から望む事象を選定し、未来を決定するという。
それが、メリアの無謀な行動による死を避けるために発動したのか。
いや、そんなこといい、とメリアは思った。意思があるのなら十分だ。今、この場でだけでいい。その意思を私に委ねてほしいと――そう念じて、メリアは前を見続ける。
直後、真紅の瞳がはっきりと、メリア自身に向けられる弾道を映した。
しかしそれは、まだ現実ではなかった。寸刻先の未来の光景。
のち、メリアは、現実に放たれた銃弾を難なくかわす。
もはや造作もないことだった。見て、認識し、判断し、動くことのできるメリアにとっては。
メリアの左瞳は、今や連続的に真紅の煌めきを宿している。
左の視界に映る世界が、右の視界に映るそれよりも、わずかだけ早く動くのがわかる。
クローネの見る未来が、この左目に映り続けている。
遠い未来の決定は、いくらクローネの権能をもってしても、そうたやすくは実現できない。膨大な不確定要素を孕む世界で、意図した可能性だけを積み重ねて望ましい未来に繋げることは、相当に稀有な確定的要素を必要とする。
しかし今のように、ほんの寸刻先ならばその限りではない。
人間の行動は、必ず何らかの予備動作を伴うもの。
自然の状態は、必ずわずかな連鎖的変化の帰結として生じるもの。
現在の状態を読み解くことで、現在に限りなく近い未来の状態は、確定的に予測できるのだ。
メリアが見ているのは一瞬にも満たない、限りなく今に漸近した未来。
そんな彼女の視界の端に影が――メリアはここにきて初めて目にする、レドの姿が映り込む。
「左から来るわ!」
柱の影からシュテルの首に向けて一閃。彼はこれを、メリアの声に反応して辛うじて防いだ。
レドはメリアにとって、きわめて不思議な存在として映った。
右目には映らないのに左目では見える。つまるところ、生身のメリアはレドの権能を受けていてその姿を視認できないが、クローネの視界には姿が映るということ。
メリアは夢中で、レドとグレイスターの動きを読み取って口にした。
「右足!」とメリアが叫べば、シュテルはそこに向けられた下段の刺突に対処し。
「左後ろから銃!」と叫べば横飛びで弾を回避する。
シュテルはレドを正視できないが、メリアの的確な指示もあってか、冷静に攻撃を捌いた。彼は今、あえて脱力し、回転と剣自身の重量による遠心力を利用して立ち回っている。それは傷を負った左腕への負担を減らしつつ強い斬撃を生む、優雅な舞踏家のごとき戦い。
喝采にも似た剣戟音に、血煙が花を添える。
「シュテル引いて! なんか粉!」
直後、レドが服から毒粉を取り出して散らす。
「傘が開くわ! 隠れて突いてくる! あと後ろからまた銃撃!」
既にそうと決めた行動は、たとえ口に出されても容易に修正できるものではない。
シュテルと直接斬り合うレドの息は荒く、グレイスターの表情に、もう笑みはなかった。
「こやつ、右腕だけでここまで……」
疲労の影が見え始めたレドが、柱で飛び上がって剣先を構え、向かってくる。
「狙いは首よ!」
シュテルは迷うことなく刺突をいなし、反撃で渾身の蹴りをレドの腹に見舞った。
華奢な身体は、いともたやすく放物線を描き、床に打ちつけてからも何度も転がる。
「っ……主さ――」
「今よシュテル!」と、擦り切れたレドの声を遮ってメリアが言った。
グレイスターは、レドに振り向きかけた視線を戻し、今一度、銃を構える。
「民が主役など、お笑い種もいいところだ。民は王に従うが定め!」
走り出したシュテルが呟く。
「定め、か。僕も同じ考えだったよ」
グレイスターが左手で投擲した長剣をかわしながら、シュテルが突っ込む。
銃口が、その回避後の位置をとらえる。
けれどメリアは、シュテルの背中に向けて叫んだ。「大丈夫! そのまま行って!」と。
言葉通り、シュテルはそのまま真っ直ぐに攻めた。
銃弾は彼の胸に直撃し、それでもなお、突進の勢いは衰えない。
シュテルは右手に携えた長剣の切っ先をしかと定め、グレイスターの胸を貫く。
「がはっ……!」
その胸の白刃を握りながら、グレイスターは膝から崩れ落ちた。
「……ああ、聖母よ。半神に生まれ、王になれぬ我が罪を……許せ。お前も許されるよう」
シュテルはそばで目を伏せて、静かに言った。
「……運命に導かれるままに、決められた人生を生きるのだと、僕もずっと思っていた。けれど、それも今日までだ。たとえ定められているのだとしても、自分で選んだと思うことで、その道を歩む気持ちは、きっと変わるはずだから」
仰向けに倒れるグレイスターを残し、シュテルはゆっくりと踵を返す。
「僕はこれから、僕の意思で未来を選ぶ。僕は、メリアとともにいく。お前を越えて。そしてこれまでの僕を越えて」
メリアは、ただシュテルを待っていた。そして二人、手を取って駆け、広間を出ていく。
しばらくして、広間の壁に背を打ちつけてうずくまっていたレドが動いた。這うようにしてようやく辿り着いた高窓の下で、横たわるグレイスターは、もう既に事切れていた。
「ああ……主、様っ……主様……!」
レドの頬に、雫が流れた。それが涙というものであることを、彼女は知らなかった。レドはこれまで涙を流したことがなく、だからグレイスターも、ついぞそのことを教えなかった。
やがてレドは、いつか彼が戯れに読み聞かせてくれた戯曲を思い出し、細い声で呟いた。
「……口惜しいですが、どうやらこれが、最後の演目のようでございます」
痛みに耐えながら身体を起こす。そうして、普段の彼女には似つかわしくないほどの大仰な所作で、グレイスターの唇に自らのそれを当てた。
「主様、いかれるのでしたら、どうぞわたくしもお連れください」
慎ましやかな、添えるような接吻だった。彼の動かぬ唇から滴る鮮血を、わずかに吸い。
「とても温こうございました」
そしてレドは、グレイスターの胸に刺さった剣を引き抜いた。両手で柄を逆手に握り締め、天へと捧げるかのように、自身の胸に突き立てる。
次の台詞は、グレイスターが特に好んでいたものだと、レドは記憶している。
「さあ、幸運なる剣よ。この胸がお前の鞘。どうか錆びるまでいて、わたくしを死なせなさい」
直後、レドは迷うことなく剣を心臓に刺し下ろし、グレイスターに折り重なるように倒れた。
一瞬だけ、世界が全て止まったかのような、真の静寂が訪れて。
やがて、遠く、正門の方角から声がする。
それは兵士たちの鬨の声だ。おそらくはヴォルテール軍が王城に攻め入る合図の声。
この国を半神から取り戻さんと、一丸となって未来へ進む人間の声。
高窓から降っていた月明かりは、いつの時からかその身を潜め、今まさに地平から昇った新しい朝日が眩く差し込んでいた。
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