第五幕

21.Melia

 ガイオン王城の旧区画は、まさに人々に忘れ去られたような場所だ。時代に取り残された、戦いのためだけの構造――高い防壁に、見張り用の尖塔、それらに囲まれた城主が住まう主塔。

 その主塔三階の一室に、メリアはいた。

 古く、しかし堅牢な建てつけの部屋の隅。はやりものの絨毯の上に横たわる彼女の足は鎖で繋がれている。鎖は短く、石壁から伸びているので、ほとんどこの場から動けそうにない。

 ただそれ以前に、メリアは深く眠っていた。昼間、礼拝堂からここへ運ばれたままなのだ。

 一室は、狭くはないが広くもなく、執務机が一台あり、また別にソファとテーブルがある程度だ。壁の暖炉は、今は使われていない。

 その時、暗い室内に扉の開く音が響いた。窓と窓の間にある、繋がる先のない奇妙な扉だ。

 そこから現れたのはグレイスターだった。

 ほとんど同時に、室内の一角で薄い影がぬるりと動いて、彼に歩み寄る。グレイスターは片手に持った書類の束を執務机にぽんと放ると、着ていた外套を脱いで、影に預けた。

 影は、よく見れば黒いドレスに身を包んだ女で、ちらりとだけのぞく口元や指先は、この暗闇の中でも光るように青く白い。

「お疲れ様でございます、主様。お休みになられますか?」

「いや、まだいい。王者に安眠なしというやつだ」

 すると、女は壁掛けの小さな燭台に火を灯した。

「それよりレド……次の手は決まったか?」

 レドと呼ばれた女はテーブルへ向かい、そこに置かれたチェス盤から白駒を一つ掬い上げる。

「はい。ナイトをe5へ、ポーンをテイクします」

「ほう……」不敵に笑ったグレイスターは、執務机に深く腰を沈めた。「クイーンサクリファイス――自陣のクイーンを捨てると見せて、それを囮にこちらのキングをはめる手か。面白い手を指すようになった……と言いたいところだが、まだまだ素直な手だ。お前の心根と同じくな」

 そう言うと、グレイスターからは遠目にあるはずのチェス盤で独りでに黒の駒が動き、対局が進められる。彼の権能をもってすれば、この程度は造作もないことだろう。

 対してレドは、無言でチェス盤を見つめる。仕掛けた攻撃が肩透かしにあって、戦略を練り直している様子だ。

 熟考ののち、彼女はまた駒を動かした。傍目には、彼女が一人でチェスに興じているように見える。だが実際には、二人の対局がしっかりと進行していた。

 しばらくは黙々と応手が繰り返されたが、ふと、またグレイスターが口を開いた。

「しかし、傀儡の王から形だけの決裁をもらうのも、まったく手間だな。いっそ殺して王冠を奪うかといつも思うぞ」

「それも名案かと存じます」

 レドはすぐに返事をする。会話を疎んでいる様子はまったくない。むしろ二人にとってはこの会話こそが大切なのであって、チェスのほうがお遊びなのだ。

「ははは。だがな、まだ早いのだ。法整備や勢力関係、俺が王となるための準備はまだある。それをわかっていて止めぬのだから、お前は面白い奴だ」

「わたくしに難しいことはわかりません。一日も早く主様の世となればと、いつも思い申し上げております」

「まあ、ガイオンの王権など、今となってはかつての王が成した偉業の残り滓だ。権能の継承をしくじったにもかかわらず、それを隠匿して続いているお飾りの王権。王が権能の力を示せぬせいで、民にとっては半神伝説そのものが御伽話と成り果てている。準備が終わればすぐに俺が王を継ぎ、戴冠式で冠でも旗でも、目の前で浮かせて見せるさ。先王の権能より、よほどわかりやすかろう? 愚民には祖神の違いなどわかるまい」

「おっしゃる通りでございます。主様こそが、この国の王に相応しい」

「ああ、権能を持つ半神こそが王となる。それがこの世界の摂理だからな」

 椅子に腰掛けたまま首を逸らし、天井を仰ぐグレイスターが、そこでレドへと問いかけた。

「ときに、お前も祖神は知らねど、権能を受け継ぎし半神だ。クロネリアの女王にでもなってみるか? あの娘がそういう未来を見たということにでもすれば……話はすんなり運ぶだろう」

 グレイスターが部屋の隅で眠るメリアをちらりと見やる。これはまた狂逸とも言うべき提案だが、しかしレドの返答は、先と変わらず早かった。

「いいえ。そのようなものは、わたくしには過ぎた施しにございます」

「なぜだ? 権能を持ちながら王にならずば、まこと慚愧に堪えなかろう?」

「いいえ、わたくしの喜びは主様に従うことのみでございます。主様こそが、唯一にして絶対の王。それが主様の、長らくのご本懐ではありませんか」

 グレイスターは沈黙したまま、レドの言葉に耳を傾けた。

「この先、我々が世界で最後の半神となり、主様が全ての人の王となられたその時……世に二人の半神が不要ということでしたら、どうぞわたくしの命はお摘みください」

「ほう……」

「いえ、主様に摘んでいただけるのであれば、それほどの幸福はございません」

 静かに顔を上げ、そう告げる彼女の表情は、主人に仕える家臣のそれというよりは、まるで兄を慕う妹のような、男を思慕する女のような、そういう類のものに見えた。

「そうか……よい、すまぬ。お前の忠誠は疑ってなどおらぬし、少なくとも今は、その命を摘む気もない。大事なチェスの相手がいなくなってはつまらぬからな」

「……左様でございますか」

 不思議と、残念そうな様子でレドは答えた。

「ああ、だが……かわりにそのキングの命は俺が貰おう――チェックだ」

 直後、ほんの少しだけ無邪気な声で、グレイスターがそう告げる。

 チェックをされたら、返しの手番ではキングを逃すか守るかしなければならない。それ自体は、まだ可能な局面だ。しかし、レドはその脳内で数手先まで読んだのだろう。「わたくしの負けでございます」と自らのキングを静かに倒した。

「うむ。とはいえ、だんだんと歯応えのある手を指すようになってきたな」

 身体を起こしたグレイスターは非常に満足げだった。その手で、執務机の上の箱から小さな包みを取って、彼女に投げ渡す。

「食うか。今年の麦で作ったビスケットだ」

 ちょうど彼女の広げた両手に、ぽすんと載った菓子包み。レドはそこから一つを摘み出し、今まさに主がするのと同じように口へと運んだ。

「……同じ味がします、あの時と」

「あの時?」

「はい。主様がわたくしを拾ってくださった時……あの時初めて頂いたのも、この菓子でした」

 その言葉にグレイスターは一瞬だけ首を捻ったが、やがては思い出したようだ。

「そうだったな。まあ、同じビスケットでも質については雲泥の差だが。しかしなんだ、昔の話をするのが好きだな、お前は。別段幸せな過去でもなかったろうに」

「いえ、そんなことは」

「まさか。暗い路地裏で泥水をすすって生き、食い物は三日に一度ありつければましなほど。そんな生活が幸せであったはずはない。俺とて生まれは孤児、生活は似たようなものだった」

「わたくしも、物心ついた頃にはもう既に、あの裏路地におりました。たった一人、あのような場所で身寄りのない女がどうなるかなど、簡単に想像がつきましょう」

 あの裏路地、と彼女が言ったのは、ロールズから遥か東方――当時はまだガイオンの領地ではなかった小さな都市の貧民街だ。そこは領主の目もゆき届かず、野党が幅を利かせ、秩序はないに等しい無法地帯だった。殺さなければ殺され、奪わなければ奪われる。力あるものが他者を食い物にし、弱者はその陰で息を潜めて命を繋ぐ。それが当たり前であった場所。

 そんな場所で、二人は出会った。

「暴力と欲望の海に沈みゆく毎日の中、初めて主様のお姿を目にした瞬間の幸福は忘れません」

「初めて目にした、か。そういえば、あの頃のお前はよく目隠しをされていたのだったな。まあ当然か。その瞳の光を見たら姿が見えなくなってしまうのだから、持ち物を盗まれて追いかける者も、その身体に欲望をぶつけたい者も、相手が見えねば始まらぬ」

「はい。わたくしをとらえた者たちは皆、まず一番に、この目に布を巻きました。あの頃のわたくしは、なぜそのようなことをされるのか、まったくわかっておりませんでしたが……」

 権能を持つ自覚がなく、その制御の仕方も知らない。当時のレドは力を常に暴発させていた。

 目隠しをされた少女と、それを取り囲む男たち。そんな奇妙な光景を前にし、声をかけた名もなき少年は、しかし男たちに邪険にされて突き飛ばされた。

 だから少年は、その場で全員をのしたのだ。幼くして既に自らの権能を使いこなしていた彼にとっては、至極たやすいことだった。

 それが結果的に、少女を助けることとなった。

「戯れに助けただけにすぎぬ」

「たとえ戯れであっても、わたくしにとっては奇跡にも等しきこと……この瞳を覆う闇を取り払い、その目に映らぬはずのわたくしの手を取って、置いてくださったのがこの麦菓子でした」

「それもたまたまだ。あの日は、大きな馬車をつれ回す取引直後の商人を殺したのだ。食いきれぬ食糧は腐るだけ。それをお前に分けたにすぎぬ」

 グレイスターはレドを見る。二人の視線はしっかりと交差している。それでもレドの姿は、グレイスターの視界に映り続けている。

「が、しかし、そうして拾った女が自分と同じ、王になり損ねた半神の子孫だったのは……確かに、巡り合わせかもしれぬな」

 数奇な宿運は引き合うもの。さらにグレイスターがあとから調べたところ、どちらの祖先も乱世で国を追われた王族であろうというところまでわかっている。古今東西、窮地に陥った王族が身分を隠して生き延びるという話は珍しくない。親きょうだいは散り散りとなり、時代の中で入り乱れる子々孫々の末端に、密かに権能が残っている。

 そんな因果が、二人のような存在を生んだ。

「ほとんど知られていない話だがな。齢十五にならずとも、半神の親が死んだらその時点で、生きているうちもっとも先に生まれた同性の子孫に権能が継承する。血筋さえ健在であれば、どこにいても受け継がれるのだ。俺は、物心ついてすぐにこの権能を継承した。どこかで顔も知らぬ父親が死んだということだ」

 レドの場合は、生まれた直後だった。彼女の母親は彼女を産み落としてすぐに死んだ。

「主様は、そんな身寄りのないわたくしを拾って生き方を……言葉も所作も殺しも、権能の使い方も、何もかもを教えてくださったのです」

「それはお前の解釈にすぎぬ。特に権能の使い方など、己の内から湧き出てくるものだ。他者に教えられるようものではない。それ以外のことにしても、教えたというよりは、お前が見て勝手に覚えただけだが……ただ、そうだな、見せてやりさえすれば、覚えるのは早かったな」

 貧民街に生きる少年は、やがてその力で領主に取り入り、伝手を利用してグレイスター家の小姓となった。主人に反対する勢力は全て潰した。敵には容赦なく、時には味方すらも陥れて手柄を立てた。そうして彼自身が貴族階級に叙されるのに、さほど時間はかからなかった。

 彼が少年の面影を失って、手に入れた名は、ルーファス・グレイスター。称号は伯爵。グレイスター家は、代々ガイオン王国の東を治める名家だったが、彼が内側から食い破った形になる。その後、国王に取り立てられて宰相の座に着いたのは、万民の知るところだ。

「ここまで成り上がる過程でも、お前の目には世話になった。その素晴らしい、鉛のように鈍く光る瞳にな」

 グレイスターは椅子から立ち上がり、菓子を見下ろす彼女の顔を覗き込んだ。

「わたくしの目……でございますか。もしご所望でしたら、差し上げますが」

 きょとんとした様子で彼女は言う。彼女は元来、冗談など言わない素直な性格だ。しかしそれでいて、灰の虹彩に囲われた真っ暗な瞳孔のように、心の中は度し難い。

 二人がともに行動するようになって、二年が経った頃だろうか。グレイスターは、すっかり会話ができるようになった彼女に呼びかけようとして言葉に詰まり、名前を与えた。レドと、彼女の持つ美しい灰色の瞳にちなんで。

「ははは、馬鹿を申すな。目だけもらっても意味がない。その目で権能を振るう、お前自身が素晴らしいという意味だ」

「そう……でしたか。いえ、もったいないお言葉です」

「それに、わざわざ目だけもらわずとも、お前は既に、俺のものだろう?」

 問われ、レドははっと顔を上げて、わずかに艶めいた声で答える。

「はい。おっしゃる通り、わたくしの全ては主様のも――」

「宰相殿、ご在室でいらっしゃいますか」

 同時に響いたのはノックの音だ。グレイスターはその場で「よいぞ」と返す。

「失礼致します」と、廊下に繋がる扉から現れたのは甲冑の男だった。

「遅くまでご苦労だな、近衛騎士隊長殿」

「恐れ入ります。宰相殿は……お一人でチェスをしておられたのですか?」

「ん? ああ……まあな」

 対局途中らしきチェス盤のそばに、レドの姿はもうなかった。

 隊長はすぐに視線を戻して告げる。

「ご報告です、宰相殿。ヴォルテール侯爵の軍勢が、こちらへ向かっているとのことです」

「……何? 召集には、まだ随分と早いようだが……」

「はい。ヴォルテール卿からの言伝では、クロネリアとの戦いに際し、兵を鼓舞するためいち早く王城に馳せ参ず、とのこと。未明には大軍が到着すると思われます」

「大軍、か……それは妙だな。彼奴の領地はクロネリアとの戦いおいて前線拠点だ。ヴォルテール本人がこちらに来るにしても、必要以上の兵を動かす愚がわからぬ男ではあるまい」

 グレイスターの低い呟きを聞く隊長は、しかしさほど疑問もないようで言伝の続きを述べた。

「これまでヴォルテール卿は頑なに保守的でしたが、前回の会議では最終的に、クロネリアとの開戦に賛成しておられました。その意思の表明だとうかがっておりますが……」

「いや、違うな。そやつらは敵だ」

「は?」と隊長が素っ頓狂な声を上げる。

「ヴォルテールがクロネリアとの戦争に乗り気になったという話……あれは彼奴のおべんちゃらだぞ。貴族お得意の口八丁に乗せられたな、近衛騎士隊長殿」

 グレイスターは口だけで短くはは、と笑う。

 一方、隊長は何が愉快かわからないと言いたげな顔で、動揺を露わにした。

「いやしかし、敵とおっしゃいましても……ヴォルテール家はガイオンにおいて屈指の名家。クロネリアとの戦争も、影響力の大きいヴォルテール卿の賛成が得られないために、可決寸前でこれまで足踏みしていたはず。それが王城に敵として兵を……それはまるで、内乱では……」

「ん? だからそうだと言ったつもりだったが?」

「ま、まさか! ヴォルテール卿は、国王陛下の娘婿……そのような方が王家に叛意など」

「まあ実際は、王家ではなく俺への叛意だろう。おおかた城を制圧すれば国王の追認を得られると……そんな考えだろうな。勝てば官軍、負ければ賊軍というわけか」

 隊長はさーっと顔を青くしたが、グレイスターの呼びかけで再び居住まいを正した。

「さて、近衛騎士隊長殿。貴殿の責務はこの城の平穏を守ることだな?」

「はっ! その通りであります!」

「では詰め所に戻って防城戦の配備をせよ。ヴォルテール軍が召集に乗じて来るのであれば、主力は当然正門だ。未明開戦なら時間はないぞ、急げ」

「直ちに!」と踵を返した隊長は駆け足で部屋を出ていく。

 続いてグレイスターも、軽く息をついてから暖炉上の壁にかかった長剣を取った。

「聞いていたな、レド。俺たちも行くぞ」

「かしこまりました」

 レドは隅の陰からぬるりと姿を現すとグレイスターの後ろにつき、二人で部屋をあとにする。

 主塔一階まで石階段を降りて、天井の高い吹き抜けの大広間を通り過ぎる。取り壊されずに残った古い通路や渡り廊下は、そのまま進めば王城旧区画の出口だ。

 けれどそこで、両目を細めたグレイスターがふと、立ち止まった。

「……主様?」

「いや……やはり俺は一度戻る。何、主役は多少遅れても構わぬだろう」

「それは、もちろんですが」

「お前はこのまま正門へ向かえ。もし敵軍の防御に穴があれば、そのまま中から潰してよいぞ」

 レドは即座に、その場で片膝をついて恭しく述べる。「仰せのままに」と。

 そして彼女は、闇に消え。

 グレイスターは、眼光鋭く、今来た道をゆっくりと引き返した。

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