20.Ster
日が落ちると、空は厚い雲で覆われ雨となった。細かい雨粒が煙のように視界を遮る霧雨だ。
予定通り王城内に潜入したシュテルは、身を潜めつつ中庭の厩舎の隅を目指す。そこはあらかじめヴォルテールから指示を受けていた場所で、辿り着くと、人影が一つ立っていた。
この暗い雨の中、灯りも持たない、おそらくは女の召使い。まだ遠間のうちから、シュテルの存在に気がついたようだ。
「無事、城内に入り込めたようで、安心いたしました」
不用意に近づいてくることはせず、彼女はその場で左の袖をまくる。見ると、腕には青い布が巻きつけられていた。これは、ヴォルテール派であることを仲間内に示すためのもの……つまりこの召使いは、以前から王城に潜伏している間者ということだ。
「少々無理に抜け出て参りましたので、申し訳ありませんが手短に」
そう告げて、彼女はやや早口で話し始めた。
「まずは国王陛下がどこにいらっしゃるかですが……やはり私の立場では限界があり、未だはっきりと突き止められてはおりません」
「そう、ですか」
「ガイオンでは、数年前から陛下が表舞台に出てこないというのは国民周知の事実ですが、王城内でも、それはまったく変わりません。陛下のご自室はほとんど使われている形跡がなく……一度たりとも、お見かけしないのです」
「一度も……?」
「はい。最後に私がお姿を拝見したのは、もうかれこれ二年前……それから、一度も」
王城は非常に大きく、多くの人が生活する場だが、あくまでも王とその家族の住居である。そこに住み込みで働いているこの召使いが、一度も王を見かけないというのはおかしな話だ。
「となると……国王陛下は自由に出歩けない状況下にある、という可能性もあるのでは」
「私もそう考えました。しかし、地下牢を始め、どの部屋にもお姿はなく……」
シュテルは小さく息をついて黙した。地下牢まで確認して見つからないとなると、もしかすると国王は既に、この城にはいないのだろうか。
しかし、議会ではグレイスターの取り仕切った案件が国王のもとに承認を得ているという話だ。国王を傀儡としているのなら、わざわざ自分と別の場所に置くとも考えにくい。
すると、雨音に混じって召使いの女がまた口を開く。
「ところで、この城は数十年前に大規模な拡充が行われており、これによって増えた場所がほとんどなのですが、一部、改修も使用もされずに残された場所が、北側にございます。城の者たちは、そこを旧区画と呼んでいます。こちらについては、調査の手を延ばせておりません」
「旧区画?」
「はい。というのも、ここに踏み入った者が何人か戻ってこないという噂が、随分と前からあるのです。なんでも、亡霊に攫われたとか」
「亡霊……それは穏やかではないですね」
シュテルとしては、そういったものの類はあまり信じたことはないが……それとは別に、心当たりは一つある。グレイスターの亡霊と呼ばれる存在だ。
「以前、議会である貴族がこれについて言及したところ、数日後に姿を消したという話も耳にしました。そのうちに誰も旧区画については口にしなくなり、今では半ば、禁足地のような扱われ方をしています。そこに出入りしているのが、宰相殿です。加えて数人の要人方も」
つまり、一介の召使いでは不用意に手出しできない場所になっている、と
「わかりました。こちらで調べましょう」
「どうかご武運を。もしも陛下を発見された場合、連れ出すことが困難であれば、この目印を残していただくだけでも十分ですので」
そう言うと、召使いは懐から一枚の青い布を取り出した。さきほど彼女が左腕に巻きつけていたのと同じ物だ。
シュテルが近づいてそれを受け取ると、彼女は続けた。
「それからもう一つ。本日正午、メリア女王陛下がパレードに伴って入城し、宰相殿とともに礼拝堂へと入られましたが、そこから先の足取りが掴めておりません。調べた限り、目撃した者が一人もいないということですので、あるいは……」
メリアもその旧区画とやらにいるのかもしれない、と言いたいのだろう。
その時、霧雨の向こうで松明の炎がかすかに揺れた。召使いは即座にそれを察知して、一歩身を引く。ほとんど同時に、シュテルも陰に身を隠した。
彼女はそのまま小さく会釈をし、足早に去る。ぬかるんだ地面に水音をほとんど立てない、驚異的な足運びだった。
ほどなくしてシュテルも動き出し、話に聞いた旧区画へと進路を取った。
辿り着いた旧区画は、確かに廃れてはいるが、元が強固な造りなのだろう、設備はどれも健在だった。壁が高く、通路は細く複雑だ。これは乱世に建造された要塞としての構造である。
シュテルは足音を消し、まず一帯の地理を把握するのにいくらかの時間を割いた。
空気が張り詰めている。時刻はおそらく、夜の中程。
やがて屋外全域を捜索し終え、次は屋内への足がかりを探っていたところで、一つ、妙な気配を感じ取った。見上げた上空――ほとんど光のないその場所を何かがゆっくりと進んでいる。
何かとは、おそらくは木板だった。四方、両腕を広げるほどの、人間一人が乗れるほどの。
何者かの乗ったそれが、一切の支えなく宙を移動する光景を、シュテルは見た。
当然のこと、目を疑ったが、抜群の視力と夜目を持つシュテルに見間違いはなく、見てしまったからには疑うこともできなかった。
その影は、ある高い尖塔の壁から現れたようで、ゆっくりと対面の主塔三階へ近づいていく。
ややあって、影が消えてから注意深く近づき確認すると、そこには扉だけがあった。垂直の石壁に、繋がる先のない扉……察するに元は渡り廊下があったのだろうが、今では根本から崩れており、ただ壁から張り出した短い足場があるばかり。
それは反対側の尖塔も同様であった。
円柱状の塔の、最上階にだけ扉がある。そのうえ地上の出入口には、あとから石で埋めたような形跡があった。周囲の建造物から独立した、奇怪な塔と言わざるをえない。
シュテルは外套の下から鈎縄を取り出し、慣れた所作で回転させて放り投げると、尖塔の上部に引っ掛ける。上りきると、扉は閉ざされていたが窓から内部が確認できた。
灯りはないが、床には絨毯が敷かれており、隅にはベッドが置かれている。そしてそのベッドの側面を背もたれに、床に座ってうなだれる人影が一つ。
覇気がなく、痩せこけたその人物に、しかしシュテルは見覚えがあった。
「陛下! ヘンリー国王陛下、ご無事ですか!」
できるだけ静かに窓ガラスを割り、錠を外して室内に飛び込む。無礼を承知で肩を何度か揺すると「う、あ……」と、小さく呻く声が聞こえた。
そばには食事の載った盆が置かれていたが、散らかったうえに半分ほどが残されている。
おそらく、食事に薬が入っているのだろう。死にはしないが、意識が混濁する薬だ。
もはや助けを求めて叫ぶどころか、まともな思考を巡らせることさえできないと見える。生かさず殺さず、ただ命だけを繋がせて国王という立場を利用するための、非道の行い。
この国王を助け出すのが、シュテルの役目。
しかし、冷静に判断するならば、それは今ではなかった。この状態の国王を、この暗い雨の中で塔から下ろし、抱えて城を脱出するのは不可能と言える。
ならば次善の策。シュテルは間者の召使いから受け取った青い布を自前の杭に巻きつけて、地上からわかるように塔壁の根本に投げ打った。
これでヴォルテール軍が王城を制圧したのちの、迅速な発見と救出に繋がるだろう。
そうしてシュテルは、再び窓枠に片足をかけた。一息つくという思考はなかった。
なぜなら、シュテルにはまだ、気がかりがある。
次に目指すは、対面の主塔三階だ。そこをめがけて静かに放った鉤縄の先端に、闇夜に溶けるほんのわずかな鈍い光が、一瞬だけ反射する。
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