19.Melia

 メリアを乗せた馬車は、賑やかな行進の末にガイオン王城の礼拝堂まで辿り着いた。

 グレイスターに手を引かれて降車し、衛兵が左右に開く大扉を抜けて中へと入る。すると、すぐにまた扉は閉じられた。

 礼拝堂内はなぜか、冷たくしんと静まり返っていた。メリアたち以外に人はおらず、華やかに飾られた座席や祭壇が、よりいっそう虚しさを掻き立てる。天井は高く、磨かれたような白と黒の床石が、窓からの遠い光を跳ね返している。

 立ち止まるメリアに構わず、グレイスターは一人、硬いブーツの靴音を響かせ歩みを進めた。

「そう険しい顔をせずともよかろう? 俺は不安になってしまうぞ。そのような女と初夜の臥所に入った日には、首でも掻っ切られてしまうのではないかと。そう、例えば――」

 グレイスターが首だけでわずかに振り向く。

「こんなふうにな」

 その時、メリアの左目が強く真紅に煌めいた。


 淡光降る礼拝堂。正面には背を向けたクレイスター。

 直後、メリアの死角――おそらくは右後方からの衝撃で、身体がぐらりと左に流れた。視界が傾き、歪んだ正方形の床石が近づいてくる。

 そして意識は暗く、遠退いた。


 我に返ったメリアの眼前に、グレイスターが立っている。その鋭い視線が、メリアの背後に向けられていた。

 メリアは不穏な気配を感じ、咄嗟に左へと身を捻った。

 すると右後方から飛んできたと思われる短剣が、鋭利な金属音とともに床に突き刺さる。

「ははは、今のをかわすか。祖神クローネより伝わる未来視の権能というのも、あながち嘘ではなさそうだな」

 作り物のような笑い声が、礼拝堂内に反響する。

 次の瞬間、床の短剣が独りでに浮き上がり、グレイスターが鷹揚に広げた右手に、ゆっくりと吸い寄せられていった。

 倒れて床に手をついたメリアは、その光景を前に目を見開く。

「うむ、ようやくそなたの驚く顔が見られたな。これが、俺の権能だ」

「権能!? まさか……半神の!?」

「この世で権能といえばそれしかあるまい。まあ、もとは孤児ゆえ、生憎と祖神は知らぬがな」

 グレイスターは右手で弄ぶ短剣を、時折宙へと軽く放る。その短剣はくるくると回転していたかと思えば、急に軌道を変えて頭上を周回し始め、やがてまたその手に戻っていく。

「周囲の視認できる一空間に、一定の荷重を加える。それは近ければ片手のひらほどの――」

 その声に呼応するように、三人掛けの座席の一つが片側から浮かび上がり、横転する。

「そして遠ければ……うむ、三十歩ほど離れれば、指先ほどの力になる」

 次にはメリアの後方で、礼拝堂の扉の引手に施された造花の装飾、その一房がふいに落ちた。

「感覚的には、変幻自在の見えない第三の腕があるようなものだ。ゆえに俺はこの力を『三の権能』と呼んでいる。ただそれだけの実に粗末な権能よ、そなたの未来視のそれに比べればな」

 グレイスターは謙遜を述べつつも、その口端はわかりやすく引き上がっていた。

 困惑を露わにしながらメリアが呟く。

「権能は、聖母アリア様の子ら――半神から受け継がれ、同じく半神となったそれぞれの国の王だけが持つもののはず……」

 なぜなら権能は王権の象徴。歴史上、その所有者全てが、自らの国の王となっている。

 そして国と権能は一蓮托生。権能の陰りは国を傾け、また国が滅びる時には、同時に権能も途絶えたとされた。

「いかにも、その通りだ。そなたはいいことを言うな。半神の権能は王たる証。ゆえにこの俺が今、王でないのは、世界の摂理に反していると思わんか?」

 三の権能……呼び名は言うまでもなく、聞いたことがない。

 しかし実際に目の前で不可思議な事象を見せられては、信じる他にないだろう。

 メリアを見下ろしながら、グレイスターがゆっくりと近づいてくる。

「なあ、その未来視の権能を、俺のために使う気はないか? クロネリアの女王の予知は、必ず実現するという。この俺が全ての人間の王になる未来を、そなたに見てほしいのだ」

 メリアが見上げたグレイスターの顔は、逆光で黒く塗り潰れている。

「そなたが、こたびの婚儀に乗り気でないにもかかわらずここへ来たのは、その権能に促されたからであろう? 国を守るという目的に忠実で、与える示唆は奇抜かつ的確……なかなかに見込みのある力ではないか」

 確かにメリアは、未来視の権能に仕向けられてここへ来たと言えるだろう。

 けれど、そうして初めて、今、はっきりと理解した。クロネリアのためにも、またそこに生きるたくさんの民のためにも……自らがともに歩む相手が、この男であるはずがないと。この男はいけない。花嫁となって取り入って……そんな生半可な方法で、止まるような男ではない。

 それに……やはりここまで来てもまだ、消えないのだ。メリアの中から、彼の記憶が。かつて自らが添い遂げると決めた、シュテルのことが。

 その時、メリアの拳が強く握られる。

「何か、勘違いをしておられるのかもしれませんが……この権能は、確たる未来を予見することも、意図的な未来を見ることもできません。数ある未来の可能性の、ほんの一部を垣間見る力に過ぎないのです。ですから、あなたのお力には、なれないかと」

「……ほう」

「それに、他人に未来を決めてもらって、満足ですか?」

 グレイスターの表情が、にわかに冷えた。

 それでも臆さず、メリアは立ち上がった。すくむ足を抑え、努めて毅然と。

「自らの未来を決めるのは、他の誰でもないこの、自分自身であるはずです」

 胸に強く手を当て、言って……それがまさしく自らへ向けた言葉であることに、メリアは気づく。権能を継ぎ、悪戯に未来が見えるようになったとしても、今も昔も、変わらない。

 忘れていたわけじゃなかった。

 クロネリアの王になった。民のために捧ぐ身となった。

 でも、忘れたわけじゃない。

 たとえ今、シュテルが隣にいなくても、この心が選ぶのはシュテルだけ。

 メリアが決めた。メリアが選んだ。世界でたった一人、彼を。

 もう変わらない。もう揺るがない。誰になんと言われても、たとえ一国の王となろうとも……どうしようもなくメリアは、シュテルを求めてしまうのだ。

「私はそちらへはいけません、グレイスター卿。この身に祖国を背負っていれば、なおのこと」

 静かに響くメリアの声。視線は、まっすぐに射られた征矢のよう。

 わずかな沈黙の末、クレイスターの目がゆっくりと閉じられた。

「……そうか。まこと残念だ。ならば俺は俺で、それ用の筋書きに従って動くとしよう。まずは、そうだな。そなたの配役とこの先の粗筋について話そうか。クロネリアの女王であるそなたは、かねてよりこのガイオンを狙っていた。宰相である俺との婚姻に二つ返事で応じたかと思えば、これに乗じて俺の命を奪おうとする。それをすんでのところで防がれたのだった、と」

 語り終えると、グレイスターは手すさびに回していた短剣をメリアの足元へカランと放った。

「なっ! そんな馬鹿な話が――」

「通るさ。何せこの場にいる証人は俺だけだ」

 つまるところ、この男は初めからそのつもりだったのだろう。

「ガイオンはこの件をクロネリアの敵対行為として報じ、戦争に持ち込む。あるいはクロネリアがいち早くこの捏造に感づいて、囚われのそなたを助けに攻めてくるなら、それもよし」

「あくまで理由をでっち上げて、戦争を起こそうというのですね」

「戦いが嫌なら、今からでも本物の花嫁になってもいいぞ? クロネリアはガイオンの属国となる。女王であるそなたが表立って俺を支持すれば、民の反意も少ないだろう」

 それもまた、到底飲めない提案だ。

 歩き回るグレイスターが背を向けた時、メリアはその視線で、床の短剣をとらえる。いっそここで本当にこの男を……と考えたのは一瞬だ。

「まあ悩め。眠っているうちに、考えが変わるかもしれぬしな」

 そこに不穏な指示が飛んだ。「もういいぞ、レド」と。

 刹那、メリアの背後に音もなく人影が降り立った。メリアは振り返ろうとしたが、それよりも早く、首に受けた衝撃で身体がぐらりと左に流れた。視界が傾き、歪んだ正方形の床石が近づくうちに、意識は暗く、遠退いていく。

 力の抜けたその身体を支えたのは黒衣の女だ。

「運んでおけ」という低い、興味の失せたような主の言葉に、女は静かに頭を垂れた。

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