16.Ster
月の大きな、ある晩のこと。ガイオン王国南西部ヴォルテール侯爵領、水運都市アントワープから少し外れた高台にあるヴォルテール邸では、会食が行われていた。
ただ、会食とはいっても非常に小さなもので、館の奥の個室にて、たった三名が集うのみ。
テーブルに座る一人は館の主、ヴォルテール侯爵。銀の食器を静かに動かしながら言う。
「昨夜のことだ。我々についていた若手の貴族が消された。お前も用心しておけ、シュテル」
正面に座るシュテルは一瞬だけ目を大きく開いたが、それでも声色は平静なまま尋ねた。
「それは……グレイスターの手によって、ということでしょうか?」
「証拠はない。目撃者がいないのだ。何しろ館にいた者は家族も使用人も、女子供関係なく皆殺し。侵入者と争った形跡はほとんどなく、警備はされていたものの内側から総崩れと」
「そうでしたか。どこかで聞いた話と、随分似ていますね」
シュテルとしては、精一杯の強がりだった。手口はアレイシア王城の時とまったく同じ。ならば、実行犯はあの黒い女で間違いないだろう。
「それでも、彼奴らをまともに罪に問うことは難しい。今ではグレイスターが宰相として取り決めた案件が、形だけ議会に通され、国王のもとへと持っていかれて承認を受けるだけだ。ガイオンの政治は、こうなってもう久しい。十年ほど前までは、ヘンリー陛下が自ら議会に出席し、政を取り仕切っていたものだが……今は持病が悪化して、ご静養なさっているとのことだ」
伝聞調なのは、ヴォルテール自身もはっきりとしたことを知りえないからだろう。
ガイオン王国国王ヘンリー十八世について、市井の間ではほとんど確たる情報を得られないというのが、ここ最近の通念だ。シュテルとしても、ヴォルテール以上に知ることはなく、宰相の取り計らいで優秀な医者に診せているとかいないとか、そんな噂を聞く程度である。
「何か聞いているか、エレノア」
そこでヴォルテールは、右隣に座る女性に視線を向けた。
「いえ、わたくしは何も。随分前から、父との謁見は容易ではありません。必ずグレイスター卿が手を回してくるのです。母も、おそらく同じでしょう。母はすっかりグレイスター卿に怯えていらっしゃいましたし、王城内に離宮を設けられてからというもの、そこから一歩もお出になられていないようですので」
彼女の名はエレノア・ガイオン。ヘンリー十八世の唯一の息女であり、同時にヴォルテール侯爵夫人という立場にある。華やかで気品に溢れるバターブロンドの長い髪は、ガイオン王家の人間である証。しかしながら、今はヴォルテールと同じくやや憂いを纏って見えた。
「グレイスター卿……あの若い貴族はやり手ですが、それ以上に、とても恐ろしい。グレイスターと家名こそ名乗っているものの、その実、かの家の出身ではないという噂も耳にします。その素性は杳として知れず、その目は飲み込まれそうなほど深い闇色をしている、底の見えない男です。父はかつて、こちらのヴォルテール卿と、かのグレイスター卿、二人の貴族を側近としていましたが……当時からわたくしは、あの男にただならぬ影を感じておりました」
聞けば、彼女がヴォルテールに嫁ぐ時も、グレイスターはいい顔をしなかったそうだ。エレノアが過去の話をする時、いつも不安げに目を伏せることを、シュテルは知っている。その瞳には、グレイスターという男への拭えぬ憂懼が表れている。いささか食事も進まないようだ。
再びヴォルテールが口を開く。
「シュテル、今、ガイオンがクロネリアとの戦争の準備をしているという話は知っているな」
「……はい」
「民の生活を犠牲にして、ガイオンには――より正確にはグレイスターの手には、十分な兵力が集まりつつある。もはや秒読み段階だろう」
予感はあったことだ。それを先延ばしにするために、シュテルもやれるだけのことをやってきた。しかし決定打を欠いているのが現状だ。
「だが、対クロネリア開戦は絶対に止めねばならん。そこで私は、グレイスターを討ち倒すための、武装蜂起を考えている」
「っ! ヴォルテール卿、それは!」
はっと顔を上げたシュテルに対し、ヴォルテールはあくまでも落ち着いて告げる。
「案ずるなシュテル、無闇に戦火を広げはせん。長らく備えをし、機をうかがってきた。必ず首都王城内で事を収め、国民への影響は最小限に留める」
「そんなことが……可能なのですか」
「ああ、今だからこそ可能と言える。それだけの戦力を、我々も準備することができたのだ。平時に表立って兵や武具の用意をすれば、反乱予備軍として国家叛逆の罪を突きつけられるところだが、今はクロネリアとの戦いに備えるという名目で動きやすい。近々、グレイスターからロールズへの召集もあるだろう。これにかこつけて兵を向ければ、正面から王城に近づける」
なるほど、理屈は通っている。
「内乱は、ただ起こせばいいというものではない。周囲に強国がひしめいていれば、介入されて自国そのものが取り込まれる危険もある。内乱で勝利したとしても、それが両陣の民と土地を多く失わせるような辛勝では意味がなく、権力者を失脚させたあと、一時的に浮遊する国政を速やかに安定させ、疲弊した民の暮らしを回復させ、財政を立て直す。そうして国を再建させて初めて、大義を成したと言える。逆にそれができなければ、考えなしに自国を滅ぼす暴徒となんら変わらない。そこまで理解したうえで、しかし、やらねばならぬ。宰相となって久しいグレイスターを裁く法など、もはやこのガイオンには存在しないのだから」
確かに、宰相を権力の座から引きずり下ろし、この国を正常化するには、どこかで実力行使に出るしかない。ガイオンは既に、そういう段階に至っている。
ヴォルテールの表情は硬い。心優しい彼のことだ、武装蜂起という決断に至るまでに、再三迷いはあっただろう。それでも必要だから戦う。変わることに、痛みはつきものだから。
「あなた、ここからはわたくしが」
唇を引き結んだヴォルテールの隣で、今度はエレノアが口を開いた。
「シュテル、あなたは、この国の祖神ジオ様からガイオン王家に受け継がれているとされる『大地洞察の権能』が既に失われているという噂を、聞いたことはありますか?」
「ない、と言えば嘘になりますが……しかしあれは、王家をよく思わない一部の者たちの、虚言に過ぎないもので……」
「いえ、これは本当のことなのです。その者たちが真偽を知っているとは思いませんが……このガイオン王国第一王女エレノア・ガイオンが、断言いたします。ガイオンの王は、既に半神の権能を有しておりません」
さすがのシュテルも、驚く他なかった。その事実にも、その事実をここで自分に明かすという行為にも。このような話は無論、最上位の国家機密だろうが……それでもエレノアは、これについて詳らかに語った。
現国王より遡ること六世代。その代の王には娘しかいなかった。しかしジオは男神、ゆえに権能も男系継承。苦心して産ませた息子も十五を迎えずして落命し、ついに当代国王は、権能を有したまま次代に託すことなく崩御した。
そこで王家は、国王の娘の息子――つまりは孫を、王の実の息子として次王の座に据えた。こうして対外的には男系継承が続いているものとして、これまで国家を保ってきたのだという。
「古くより伝わる、王権が半神の権能とともにあるべきだという考えに則るのであれば、ガイオンの王権は、もはや紛い物なのです。そんな紛い物の王権が、あの男に利用され続けるようなことがあってはなりません。この国には、新しく優秀な指導者が必要です」
エレノアは視線を隣へと移す。
「それが彼、ヴォルテール卿です。貴族内では利権に溺れた一部の者たちがグレイスター側につき、派閥分裂が起こっていますが、民の間ではヴォルテール支持の声が圧倒的。彼の先導であれば、国は間違いなく安定します。今回の蜂起が成功した暁には、ガイオンから半神の権能が失われている事実を国民に明かし、この国を共和制としたいと、わたくしは考えています」
彼女の言う通り、今となってはグレイスターが笠に着るだけの王権を廃し、国民一人一人が主権者たる共和制となれば、ヴォルテールこそがその支持を集め、名実ともにガイオンの指導者となるだろう。そこにエレノアの推挙もあれば、なおのこと。
「父は、権能こそ有してはいませんでしたが、王としての資質は十分にあり、今まで民を導いてこられました。しかしあの男を宰相に選んでしまった。それだけが唯一にして、最大の失策と言えるでしょう。ならばその償いとして、父の一人娘であるこのわたくしが、グレイスターの専横を止めねばならないところですが……このように、我が夫を頼む形となりました」
シュテルがこの館で過ごすようになってから見るエレノアは、いつも父を案じ、ヴォルテールを案じ、国のゆく末を案じ、覇気がなく、どこか陰りを帯びていた。
しかし今、真摯に語るエレノアは、なんと気丈で、迷いも不安も感じさせない強い表情をしていることか。それだけ、彼女が本気であると伝わってくる。
「わたくしは女ですから、仮に権能が健在だったとしてもそれを継承することができず、ゆえに王位継承権もない。そんなわたくしが蜂起の旗印となったところで、逆賊には変わりないのです。けれど、ガイオンを共和制とし、彼がその元首たるために、この蜂起は官軍としてのものでありたい。それには父――現国王に、蜂起の正当性を認めていただかなくてはなりません」
そこまで語り、あろうことかエレノアは、シュテルに向かって頭を下げた。
「ですからシュテル、あなたに父の居場所を探ってほしいのです。居場所さえ確かになれば、戦いの混乱に乗じて助け出し、蜂起の追認をいただくことができます」
通常、王女たる彼女が一国民にすぎないシュテルに対してこのような所作は、ありえないことだ。それでもヴォルテールは止めなかった。
「悪いなシュテル。今回エレノアは、直接自分の口から話すと言って譲らなくてな」
「……いえ、そんな。私としても、もとよりできることは全てするつもりです」
「ともすれば、前線で兵として戦うよりも、難しく危険な役目だが」
「承知しております」
シュテルの冷静な返答に、ヴォルテールは小さく肩を下ろす。
「うむ。では具体的な話は、また後日。お前には近く、ロールズの王城へ向かってもらう」
「はい」
「……というのが、今日この場でお前に伝える用件だったのだがな」
そこまで話して、しかしヴォルテールは妙な発言に繋げた。
「つい先日に入った話だ。クロネリアの女王がガイオンに来るらしい。なんでも、グレイスターと婚礼の儀を行うとか……お前は何か掴んでいるか?」
「なっ……! い、いえ……」
聞いて、シュテルは半ば面食らった。
クロネリアの女王というのはメリアのことだ。そのメリアが……婚礼? グレイスターと?
「寝耳に水とはまさにこのことだ」と、ヴォルテールに至ってはまるで洒落でも口にするかのように皮肉に笑っている。「これがガイオンとクロネリアの不安定な国交を改善するためのものなら、まだいいのだが……そう考えるのはあまりに楽観的だろうな。クロネリア側はともかく、グレイスターにその気があるとはとても思えん。そして万が一にも、クロネリアの戦力までグレイスターに握られてしまっては、この先、奴を討つ機会は訪れぬだろう」
シュテルは言葉が出ない。エレノアも気持ちは同じのようで、苦しい表情をするばかりだ。
「クロネリアは何を考えている? まさかグレイスターという男のことを、まったく知らぬわけでもあるまい? とすれば、知ったうえで奴に与するということか?」
「そ、そんなはずはありません」
シュテルはメリアに、戦争を止めてほしいと言った。言いはしたが……まさかこれが、彼女なりのその方法なのだろうか。
「私とてこんな考え方をしたくはないが……いやはや、まったくわけがわからんな。さすがに、年長者の声を仰いだよ。しかしクロネリアという国は昔からこうだと、皆が口を揃えて言っておった。ここぞという時、理屈でも目先の利益でもなく、未来視の権能に従って行動する。そしてその行動はたいてい、常人には理解し難い。しかし結局のところ、回り回ってそれこそがいつも国を繁栄に導いてきたのだから、稀代の賢者も凄腕の軍師も立つ瀬がない」
饒舌は彼なりの自己鎮静だ。長年備えた計画の決行近く、しかしここにきてクロネリアの――いや、メリアの特上の奇行。仮にシュテルがヴォルテールの立場でも、頭を抱える他にない。
「今代の女王もとんだお転婆といったところか。下手をすれば、先の話は全てご破算だが……」
お転婆の一言で済ませるヴォルテールも、相当器の大きいほうかもしれないが。
「さてシュテル。こうなってしまった以上、我らとしては、精一杯振り回されるも一興か」
そう、まったく、メリアには昔から振り回されてばかりだと、シュテルは思う。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます