第四幕
15.Melia
広大なクロネリア王宮の一画にある応接室、その扉が開かれると、一人の女性が姿を現した。背中まである美しい真紅の髪を淑やかに揺らし、瀟洒な赤いキルトのドレスに身を包んでいる。
一歩後ろに続いて歩くは、立派な身なりの側近の貴族。さらに後ろには侍女然とした女が二人、恭しく付き従う。
しばらく廊下を進み、十分に応接室から離れたところで、側近が口を開いた。
「先方は、随分と厳しい条件を提示してきましたね。いくらメリア様の幼少の頃から、親交が深いお方とはいえ……」
「構いません。あの方も、クロネリア東部の一地域を収める立場にあるのですから、相応の責任がおありのはず。厳しい要求は私への期待と受け取りましょう」
「左様、ですか」
「ええ。かわりに、こちらの要求も全て飲んでいただきました。有意義な折衝でしたよ」
そうして四人が中庭を囲む回廊を抜けると、横から走ってくる人影が見えた。
「陛下! ああっ、ようやくお会いできました」
陛下と、そう呼びかける声にメリアが歩きながら視線を向けると、荒い息を整えつつ一行に加わったのは、王室付きの司祭であった。
「女王陛下、独断で政務のスケジュールを変更されては困ります」
対するメリアは、これを予期していたかのように冷静に答えた。
「昨夜に通達を出したのですが、行ってませんか」
「昨夜では急すぎます!」
「申し訳ありません。しかし国内の各地域を治める諸侯と親密な関係を築いておくのも、私の大切な務め。特にさきほど打ち合わせした案件は、このあとの会議で間違いなく議題に上がるものでしたので、午前のうちに確認しておかなければと」
「ですが陛下、本日は午前中に、礼拝堂でお祈りの時間を設けるはず……」
さらに二人のやり取りに割って入るように、側近からも進言があった。
「そればかりかメリア様、既に昼食のお時間にも大きくずれ込んでおりまして……大変申し上げにくいのですが、午後の会議の開始時刻を少し遅らせるよう、調整すべきかと」
しかしメリアは、これにも一切の動揺なく答えた。
「そうですか。いえ、調整は必要ありません。我々はこのまま会議に向かいましょう」
すると側近は一瞬、またか、という顔になる。メリアが政務を優先して食事の時間を潰すのは、これまでにも珍しくないことだった。そうなると自動的に、メリアに付いている側近も休憩なしで会議へと向かうことになるわけだが……よもやそんな不満を口に出せるはずもない。
側近の小さな溜息を横に、司祭が息急き切っていた声音を少しだけ緩めて、再び言った。
「あれは……もう三年も前のことでしょうか。即位式典の日に攫われた陛下は、ものの数日で奇跡的にお帰りになられてから、まるで別人のように変わられました。あの時の陛下の……クロネリアの女王になるとおっしゃった時のお顔は忘れません。ローザ様からご継承され、御身に宿った未来視の権能が、陛下をこのようにご立派な女王としたのでしょう。であればその感謝のため、そして何よりも民の安寧たる生活のため、日々のお祈りも大切な陛下のお務めにございます。断じて、疎かになさるようなことがあっては」
「わかっています。今日の議題は全て把握していますから、会議は必ず定刻通りに終わらせます。聖母様と祖神様へのお祈りはそれから」
また、メリアは続けざまに、今度は側近のほうへと声を向ける。
「夕食後は執務室で、上がってきた報告書に目を通しますので、事前の準備をお願いします」
毅然と、まさしく女王陛下然とした様でなされた指示に、両者とも反論できないようだった。
多少の独断も厳しい要求も、全ては国と民を最優先に考えているからこそ。そう思わせるだけの実績が、これまでのメリアには十分に存在する。滅私奉公、謹厳実直な女王陛下とは、他でもない彼女のことだ。
光陰矢のごとしとは実によく言ったもので、メリアが即位してから、はや三年が経過した。
メリアの治世は、かの即位式典初日の誘拐、もとい即位演説の延期からだっただけに、初めのうちは国民から大きく不安視されたものだった。式典の最終日に辛うじて帰国が間に合った彼女の即位演説は、ひどく抽象的で曖昧なものとならざるをえなかったのだ。それも当然で、権能の継承時にメリアが見た未来視は、ごくごく一部の者以外には伏せられている。
そして、メリアは攫われてから戻るまでに何があったのか、その一切を誰にも話さなかった。ただ本人には不思議なほど不安の色はなく、周囲の危惧に臆さない強い眼差しで、王座につく意思を述べた。以後は着実に未来視の恩恵を受け、誰の期待をも裏切らない善政を敷いている。
東でガイオン兵の不穏な動きありと見れば、適切に斥候を派遣して情報戦で優位を取り、西に大嵐の襲来ありと見れば、事前に建屋の補強を命じた。その他、メリアの提案する施策はまさに時代の流れを先にゆくものばかりであり、国内外問わず、人々は称賛の声を上げたものだ。さすがクロネリアの女王は、いつの時代も先見の明を持つ、と。
言葉通りだろう。実際、メリアはその権能により、本当に先の光景を垣間見ているのだから。
結果、一年もする頃には当代女王への信頼は盤石となり、即位一周年記念式典が盛大に催された。そして今年の三周年式典も同様に、つつがなく終えた。
それらの熱がようやく収まってきたこの頃はメリアにも日常が戻ってきたが、そうはいっても落ち着くようなことはなく、女王である彼女にとっては日常がそもそも多忙である。
王は、その身は一つでありながら、全ての国民のためにあらねばならない。たった一人のためではなく、昼も夜もなく、己の時間もない。
夏はもう終わり、今年の豊穣への感謝を捧げる感謝祭の日取りが近い。それが終われば暦は秋だ。政務漬けの日々は瞬く間に過ぎていく。
そんな忙しさの傍らで、メリアは自身に宿った未来視の権能というものについても、感覚で理解してきていた。母ローザが言っていた通り、やはりこの力は祖神クローネの意思に基づいているのだと考えられる。既にこの世界にはない彼女が、メリアという存在を介して、望む未来を実現しようとしているのだ。
権能による未来視は、言うなれば、海へ錨を下ろすようなものだ。無数の可能性が存在する時空の海で、ある一つの事象に向かって錨を下ろし、それを未来視として見ることで、未来を決定する力。だからこの力の発現には明確な法則性がない。たとえ同じ状況を再現しても、未来が見えることもあれば、見えないこともある。全てはクローネの意思――気まぐれ、気分次第、なのかもしれない。
その傍証にもなるだろうか、歩きながらこうしたことを考えていると、ふと左の視界に、別の光景が割り込んできたりする。唐突に、メリアの瞳が真紅に煌めく。
王宮内の、会議室に向かう途中にある階段。これは進むと上階の廊下と丁字に交差する。
その階段をメリアが上りきったところで、視界の右端に何かが映った。前方確認も危ういほどの大荷物を両手に抱えた、駆け足の召使いだ。
その姿を一瞬だけ視認して、視界が途切れる。
未来視は刹那のうちに終わる。メリアは階段を上りながらそれを見た。
廊下と階段は、出会う直前まで互いに死角だ。それでもメリアは階段を上りきる前に歩みを緩め、召使いを目の前でやり過ごす。ついでに後ろから声をかけ、その急ぎ足を止めることも忘れない。
「ご苦労様です。ですがもう少し、王宮内ではゆっくりと」
突然の声に、召使いは飛び上がるように驚き、荷を置いて深々と頭を下げた。
過ぎてしまえば些細なことだ。こんなことをわざわざ未来視で見せるなんて、最初のうちは馬鹿げているとさえ思った。しかし実際、知らずにいたなら衝突し、階段を上がり際のメリアは後ろに転げ落ちていたかもしれないのだ。
他にも、別に命に関わるわけでもないのに、外出前に雨天を見たり、夕食前にその日のメニューを見ることもあったが……こうした恣意的な未来視は、やはりその裏に何かしらの意思のようなものを感じさせてならない。はてさて、偉大な祖神も雨に濡れるのは嫌で、腹が空けば食事が気になるものだろうか。如何せん、謎多き権能である。
そんな具合に思考を巡らせている間に、メリアの歩みは会議室へと到着した。
侍女二人による開扉を抜けた先は広大な会議室で、中央には大きな円卓がある。その場には王族に加えて、様々な階級の貴族、各教区の司教と王室付き司祭、および各都市の代表者たちが出席していた。直接卓を囲まずに脇に控えている者も多く、頭数はかなりのものだ。
中にはローザの姿もある。退位した彼女は、メリアの後見として国政に関わっている。そしてその後ろにはマルガリタも。
会議はすぐに始まった。メリアが主に舵を取り、順調に議題が消化されていく。
「もう時期、収穫祭ですね。今年の麦の出来高はいかほどですか」
メリアがそう尋ねると、各地域における担当の貴族が順々に報告をしていく。
「収穫を終えたら、昨年までの出来高と比較をして、各位報告をお願いします。その増減を参考に、それぞれ司教と協議のうえ、租税率を決めてください。それから、一部地域には今年から作付を始めた農場がありますね。収穫の際には私も現地へ足を運びますので、準備を」
すると各貴族は「かしこまりました」と恭しく答えたが、隣の側近が小さく口を挟んでくる。
「恐れながら陛下、全て回られるおつもりですか」
「もちろんです。数も、そう多くはないはずですから」
「とは言ってもですね、移動の時間を考えますと……かなり厳しいスケジュールになりますが」
「厳しいスケジュールはいつものことですが、不可能ではないのですよね?」
「ま、まあ……きわめて急いで、休みなく回れば……」
「では、きわめて急いで休みなく回ればよいではありませんか」
「左様ですか……」
側近の唸り声にはもう慣れた。
政を行ううえで、メリアは積極的に時間に余裕を作り、直接現地に足を運ぶと決めている。その目で見れば、その地の状況が的確に把握できる。三年前、自国の村を自らの目で初めて見て、何も知らなかったことを自覚したからこその行動だ。
「次は、外交ですね。周辺諸国の動きについて詳しくうかがいます」
メリアの言葉に、また貴族たちが報告を重ねていく。そのほとんどは当たり障りのない内容だが、ガイオンとの国境付近の軍拠点から上がったという報告では、少し空気が固くなった。
「東部の国境付近には、相変わらずガイオンの兵士がよく現れます。警備兵や民も、初めのうちは強く警戒しておりましたが……最近は、半ば慣れてきてしまっている様子です。この他、沿岸部や森林地帯でも似た状況が散見されますが、表立った敵対行為があるわけではなく……」
「つまり……変わりなし、と」
「端的に言えば、そうでございます」
メリアは内心溜息をつきながら「わかりました」と答える。もう二年近くになるだろうか、ガイオンにはこうした得体の知れない動向が見られ、常にメリアの悩みの種となっていた。
とはいえ、注意深く報告させても大きな進展は得られない。先の報告も、既に何度か聞いた内容で、そこから出席者一同黙すまでが、ここ最近のお約束である。
「……次の議題に移りましょう。南部の港で進めている造船事業についてですが――」
それでも、この日の会議も順調に議題を消化して、ようやく終盤に差し掛かった頃だ。
事が起こったのは。
「へ、陛下!」と、会議室の扉が突然開くとともに現れたのは、王宮内で別の職務を行なっていたはずの貴族だった。会議中にもかかわらず、駆け足のままメリアのそばまで寄ってきて、懐から何かを差し出す。
それは、手紙だった。見るからに上質な羊皮紙が三つ折りにされ、黒の封蝋で閉じられている。封蝋に刻まれていたのは、なんとガイオン王家の紋章。
体裁はメリアへの親展だ。その封書は、いつの間にか王宮の正面玄関前に置かれており、ついさきほど、召使いによって発見されたのだという。
メリアはナイフを受け取ると、急いでその封を切り、上から目を通していった。
『クロネリア王国女王 メリア・ランカストレ・ド・クロネリア陛下
突然のお手紙、失礼致します。このたびは貴国と女王陛下へ、一つのご提案を差し上げたく、この手紙をしたためさせていただきました。
貴国と我が国、そして今は亡きアレイシア王国による三国同盟が形ばかりの協定となって、久しいかと存じます。しかしながら、同じ大陸に隣り合い残された二国が、このように宙に浮いた関係のままでは、そこに生きる民の心も、不安に駆られてやまぬことでしょう。
そこで今一度、クロネリアとガイオンの間に和平を。その象徴として、メリア女王陛下を我が花嫁として迎え入れたいと考えています。
どうぞ、貴国に咲く花のように、色よいお返事を期待しております。
ガイオン王国宰相 ルーファス・グレイスター』
読み終えて、驚きをすんでのところで飲み込んだメリアだったが、その努力も虚しく、後ろから覗き込むように見ていた側近が「なんですとっ!」と大声を上げた。
主旨は、ガイオン王家からクロネリア王家への和平、そしてその証としての婚姻の申込みだ。
一見、おかしなものではないように思える。しかしながら、この手紙は明確に、常識の埒外にあるのだ。問題は送り主にある。
ルーファス・グレイスター――この男は伯爵位にあり、貴族ではあっても王族ではない。王族の結婚相手は基本的に王族でしかありえず、いくらガイオン王家の認可を得ての婚姻申し込みとはいえ、それで身分が変わるわけではないのだ。
しかも提案によれば、グレイスターがメリアを娶り、ガイオンへ招くという形になる――一臣下である宰相のグレイスターが、国主であるメリアを、よもや自国へ嫁入りなど。
誰がどう見ても、突飛かつ不躾な提案だ。
文書の内容は瞬く間に出席者たち伝わっていき、当然のこと、中には激昂する者も現れた。
「なんと傲慢な! 我々クロネリア王国に対する侮辱です!」
「三国同盟を一方的に破棄した国が再び抜け抜けと和平など、いささか戯言が過ぎるのでは」
「近頃のガイオン兵の不穏な動きといい……我が国への挑発行為とも考えられます」
そう、丁寧な文面を装っているが、これはまさに挑発である。和平などと書いておきながら、実際のところ、クロネリアに対してガイオンに下れと言っているも同義なのだ。
「ありえません、こんな提案! 却下です!」
側近がメリアから手紙を取り上げると、その勢いに任せて卓上の燭台で焼こうとする。
しかしその瞬間、メリアの左目が強く真紅に煌めいた。
やや遠目、光差す中に門が見える。周囲は甲冑に身を包んだ多くの兵士で溢れていた。
騒然としている。各々が得物を高く掲げて突き進んでいく。
響く鬨声。それはまさしく、戦を前に自らを鼓舞する者たちの咆哮。
こじ開けられた門に、その進軍を阻む力はない。
「待ってください!」
意識が現実に戻ると、メリアは即座にそう叫んだ。同時に考える。今の光景は何か、と。
まるで……まるで、そう、戦争が始まる時のような。守りを打ち破り、敵に攻め込んでいく時のような……。
「何をおっしゃるのですメリア様。このようなもの――」
側近が、またも手紙を燭台の火にかけようとする。すると再びメリアの左目が光る。
門――兵士たち――鬨声――進軍――。
意識が現実に戻っても、何度も何度も同じ未来視が映った。メリアの瞳が赤く明滅するたびに繰り返すそれは、ともすれば警告のようですらある。
「待ちなさいと言っているでしょう!」
メリアはさきほどよりも強く叫んで側近を止めた。
未来視は短い。汲み取れる情報は多くはない。しかし、わかることもある。
場所は門。攻め込む軍勢を後押すように差す光は、昇りたての陽光のように眩しい。
そして、彼らの兵装はガイオンのものだ。ガイオンの軍勢が攻め込んでいく相手といったら……それほど想像には難くない。
権能の連続発動からくる余波だろうか、メリアの心臓は大きく脈打っていた。卓上に右手をついてもたれかかり、もう一方の手で左目を押さえる。
もう、未来視は見えない。側近はこちらを向いたまま硬直している。
恐る恐る歩み寄ってきたローザは、案ずるように尋ねた。
「メリア……未来が見えたのね。いったいどんな……」
どんな、と聞かれれば、戦争の始まるような光景としか。けれどそんなこと、おいそれと口にできようか。
過去、権能の未来視が外れたことはないとローザは言った。そして現在まで、メリアの経験則としてもそうだ。クローネは、婚姻を断れば戦争が起きると言いたいのだろうか。
結婚……自分が?
その時、脳裏に浮かんだのは、三年前に別れた彼の姿だ。
左手が自ずと胸元に伸びる。首にかけ、衣服の下に隠したロケットが、そこにはある。
メリアはかつて、幼い頃に彼を選んだ。選ぶと決めた。決めたはずだ。
そして再び彼に出会い、今度は王の道を決めた。
国のために。民のために。彼のためとは言えなくとも。
王となったメリアはもう、彼一人を選ぶことはできない。
その身は国の舵を取り、そこに生きる民の先頭に立って導く存在。常に孤独で、しかしその一挙手一投足には民一人一人の命が懸かり、ゆえに全身を国民に捧げなければならない。
王であるメリアは、自分の言葉さえ、自由にはならない。
「……提案に応じ、ガイオン王国へ、参ります。準備を……お願いします」
それは、まさに喉から搾り出したような声だった。
彼は言った。戦争を止めてほしいと。
そして手紙の送り主――グレイスターという男こそが、戦争の火種であると。
放っておいても、その火種が消えることはないだろう。大きな戦火となるのみだ。
メリアの強い瞳と、纏う空気に、周囲の人々は気圧されていた。驚いてもいたが、誰もメリアを止めることはしなかった。できなかった。
メリアは再び、服の下のロケットを強く握る。
「シュテル……」
その小さな小さな哀哭は、誰の耳にも、届くことはない。
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