13.Melia

 大陸西部をガイオンからクロネリアへ向かって南下する場合、道程の多くは山間を通る。緑多き草原や森林を抜けて国境を跨ぎ、日没寸前になって一行が辿り着いたのは小さな農村だ。

 標高の高い位置にあるため冷涼で、かつては避暑地や旧街道の宿場として栄えていたその村は、クロネリア王国王領、名を『サン・シャロン村』という。

 しかし今では、旅人も観光客もほとんど来ない。少数の村民が細々と暮らすだけの寂しい村。

 行商人とは、ここで別れることとなった。彼は本来の目的通り、ロールズの方面へ向けて少しでも歩を進めるということだ。メリアとシュテルは、この村で今夜の宿を探すことにする。

 地面の荒れた村の道。伸びる農作物も、暗がりの中ではあらぬ異形の姿に見えないこともない。それらの近くには、申し訳程度に立てられた道と畑を分かつ木柵がいくつか見えた。

 クロネリアの国内といえど、メリアは見るのも初めての土地だ。無論、シュテルにとってもそうだろう。宿屋がある様子もなく、やがてシュテルが、一軒の民家に目を向ける。

 簡素な木組みに、石と漆喰で作られた家屋だった。屋根は藁葺きで、窓はあるものの何もはめられておらず、内側に布が垂らしてある。壁はところどころが剥がれ落ちていて年季の入りようが見てとれた。

 シュテルがゆっくりと扉の前に立ち、木製のそれを軽く叩くと、薄さと古さのわかる軋んだ音が夜の中に寂しく響く。

 ややあって、わずかに開いた扉から女の声がした。

「はい……どなたでしょう」

 小さな燭台を持ち、いくらかの警戒心を見せつつ顔を出したその女に、シュテルは努めて穏やかに言った。

「夜分遅くに申し訳ありません。旅の者ですが、今夜一晩、泊めていただけないでしょうか」

 その申し出はよほど珍しいものだったのか、女は静かに「まあ」と驚く。

「旅行者の方ですか。こんな村に」

「はい。さきほど到着したばかりで……宿屋も、見当たりませんでしたので」

「ああ、ええ……そうでしょうね」

 そこに、女の後ろからさらに老婆が一人現れた。

「どうしたね。客人かえ?」

「お婆さん。ええ、今夜泊めてほしいとのことで……」

 やや腰の曲がった小さなその老婆は、しかし見た目に反してしっかりとした足取りをしている。柔らかくしわがれた声が印象的だった。

「ふぉふぉふぉ、そうかいそうかい。二人かえ……おや?」

 そうしてメリアたちの方を見て、すぐに何かに気づいたようだ。皺に紛れた細い両目をぱっと見開き、今度はいくらか張りのある声音で言う。

「お、おお! これは、なんと……ローザ様!」弾かれるように前へ出て、少し震えながらメリアの手を取る。「いえ、しかし、あの方はもう何年も前に女王陛下に……とすると、あなた様はもしや……メリア王女殿下でしょうか……?」

 それは突然のことだった。思いもかけず正体を言い当てられたことに、メリア自身はもちろん、シュテルもいくらかの動揺を見せ、二人揃って硬直する。

 シュテルが驚愕の視線を老婆に向ける中、老婆は夢中でメリアの両手を包み込むように握って見上げ、メリアは握られたその手を振りほどくこともできず、この先の判断を委ねるように無言でシュテルの顔を見る。そんな奇妙な、視線のトライアングル。

 しかしやがて、老婆の確信に満ちた様子を前に観念したのか、シュテルが答えた。

「申し訳ありません。素性を隠してお訪ねした非礼をお詫びします。私は単なる護衛ですが、こちらは……ええ、あなたの想像通りのお方です」

 メリアに振り返って、シュテルが頷く。これはたぶん、言ってもいい、ということだろう。

 メリアは静かに、ゆっくりと老婆の手を離した。それから居住まいを正し、身に着けているエプロンスカートの裾を両手で持ち上げて、目礼をする。

「初めまして。クロネリア王家第一王女、メリア・ランカストレ・ド・クロネリアと申します」

 途端、老婆はたまらず嬉しそうに声を上げた。

「おお、おお……やはり、そうでございましたか。私はゾエと申します。その昔、召使いとして王宮で働かせていただいておりました」

 ゾエと名乗った老婆の顔に、次第に赤みがさしていく。その口ぶりは、喜びの火を灯したかのように淀みなく続いた。

「メリア様のお祖母様であらせられますイリス前女王陛下とは、歳が近かったこともあり、畏れ多くも幼少期から親しくさせていただきました。そして現女王陛下のローザ様のご面倒も、見させていただいておりました。歳を取り、お役に立てなくなってからは王都を離れ、家族共々この村に移り住んだ次第でございます。メリア様におかれましては、この遠くの地でお話だけはおうかがいしておりましたが、まさかこのような折にお会いできましょうとは。美しい真紅の髪も、お顔立ちも、イリス様やローザ様に、とてもよく似ておられます」

 ゾエはもう一度ゆっくりとメリアの両手を取る。その恭しさはまるで神仏に祈りを捧げるようですらあった。

「そ、そう、でしたか。えっと……ありがとう、ございます」

 対するメリアは、半ば戸惑いながらもされるがままだ。

「よろしければ、姫様と、お呼びしても構いませんでしょうか?」

「ええ、もちろん」

 メリアの母であるローザのことも、かつてはそう呼んでいたのだとゾエは語った。

 やがてメリアとシュテルは、ゾエによって家の中へと通された。そこは入ってすぐ台所とテーブルがあるだけの屋内だった。ゾエと女の他に、テーブルには食事中の男と、小さな少女がいる。奥の方には衝立てが見え、後ろに家族の寝所があるのだろうと推測できた。

 テーブルの上に置かれた燭台一つが、屋内全体を照らしている。ふと目に映るのは傷んだ柱。そしてつぎはぎを重ねたカーテンに、古い板張りの床。整えられてはいるが、率直に、隠しきれない老いを感じる空間でもあった。

 しばらくして、台所に立った女が言った。

「ああ、どうしましょう、お婆さん」

「どうしたね」

「今日の分は、もう麦がなくて。でも、王女様がいらしたのに何もお出ししないわけにも……」

「それなら、村の共同の穀物庫にあるものを使えばいい。どれ、私が持ってこよう」

「大丈夫ですか。外はもう、暗くなってきていますけど」

「何、問題ないよ。ついでに、館の鍵も必要だね。今管理しとるのは、ええ……誰だったか」

「鍵でしたら、川沿いを三軒上ったところの」

「ああ、そうだったね」

 話し終えると、ゾエは再び振り返った。

「お二人とも、どうぞもっと中へ」

 テーブルに添えられた椅子を一脚メリアに差し出し、さらにシュテルに向き直って告げる。

「ただ、申し訳ありませんが、護衛のお方を含め、姫様をこのような狭い家にお泊めするわけにはゆきません。準備をして参りますので、今しばらくお時間をいただければ」

「そんな、どうかお気遣いなく――」

 しかしシュテルが言うが早いか、ゾエはそそくさと外へ出ていってしまった。

 するとその場は、途端に沈黙に包まれた。女は台所に立ったまま。おそらくは食事中だった男のほうも、テーブルに肘をついて黙っている。その向かいに座って無頓着に食事を続ける少女の、拙い匙使いの音だけが辺りに響いた。

 メリアに差し出された椅子は空席のままだ。

 しばらくして、ふいに静寂を破るように男が言った。

「穀物庫の麦は……ありゃあ、村民全員で管理してる備蓄用のもんだ。勝手に使っていいのか」

 その声は、話しかけられた女だけではなく、メリアとシュテルにも聞こえる声量だった。

「お婆さんの判断なら、みんな悪いことは言わないでしょう」男とは対照的に、女はできるだけ声を落としつつ答える。「それに……王女様に失礼があってはいけないし」

「けっ。まずそれだよ。言うに事欠いて王女様たぁ、冗談にしてもつまらねぇ。あのボケ婆さんの言うことなんか信用ならねぇだろ。こいつら二人が、ただ都合のいい話に乗っかってるだけかもしれねぇんだぜ」

「ち、ちょっと、あなた……」

 女は慌ててこちらを見ながら、気まずそうに男に駆け寄った。そしてさりげなくテーブルの上の杯を男から遠ざける。

 中身はおそらく酒だろう。よく見れば男は赤ら顔で、既にいくらか酔っているようだった。

 シュテルはすかさず、真摯な態度で彼らに言った。

「いえ、そう思われるほうが自然です。しかしこちらとしては、今は信じていただく他なく」

「信じるもクソも、第一、今は王都で即位式典の真っ最中だろう。だったら、主役がこんなところにいるはずがねぇと思うんだが?」

 これも当然の指摘だろう。

「それについては、数日前から王家で他国の視察に出向いておりまして……予定通りの帰国なら即位式典には十分間に合うはずでした。しかし手違いで彼女だけ遅れてしまいましたので、私がこうして、秘密裏に送り届けている次第です。式典は内容を調整して滞りなく進んでいるはずですので、大事にならぬよう、このことはどうか他言無用に願いたい」

 虚実に加え、憶測も入り交じった説明だ。しかしシュテルは、それをためらわず堂々と語った。彼とて、今は違えど昔は王族。その立ち居振舞いはやはり、常人にはないある種の説得力というものを持つのかもしれなかった。

「……用意してきましたみたいな言い分を流暢に喋りやがる」

 男は思いがけず気勢を削がれたらしい。もしシュテルがうろたえでもしたら、さらに根掘り葉掘り探ってやる気でいたのだろう。

「まあ、本当に王女様だってんなら、それはそれでちょうどいい。普段腹に溜め込んだ文句も言えるってもんだ」

「……文句、ですか」

 これに対しては、今度はメリアが反応を示した。

 男は失った語気を取り戻してまた続ける。

「ああ、そうさ! 王都じゃどうだか知らねぇがな、この村じゃあ、クロネリア王家と聞いて有り難がるのなんざ婆さんくらいのもんだ。なんせ国土の端の端、他国の兵や賊に荒らされたことだって何度もある。それでも国がしてくれることなんてごくごく一部だ。いつだったか村の教会が荒らされた時なんて、司祭様が国に掛け合うために王都に行ったかと思いきや、そのまま向こうで別の教会に就くことになって、誰も戻ってこなかったんだぜ。結局、教会は荒れたまんま、国からの音沙汰は一切なしだ」

 まくし立てるように話す男を、メリアは内心で驚きながらも黙って見る。

「だったら、荒事さえなけりゃいいかっていうとそうでもねぇ。例えば、俺たち農奴は麦を育ててるわけだが、そうなりゃ当然、麦粉引きが必要になる。それを使うにも国に税を払うんだ。ああ、わかるさ、あれもただじゃねぇよ。維持費管理費もあるだろうから、税を取る理屈はわかる。だが二年くらい前だったか、水車小屋と併設の麦粉引きが、暴風雨で壊れちまった。本来なら国が直してくれるはずだが、何度言ってもこれもやっぱり音沙汰なしだ。仕方ねぇから村のみんなで苦労して直したさ。なのに直して使うとなったら、税は変わらず取られる始末だ。おかしな話だよな。俺たちが汗水垂らして納めた年貢は、いったいどこにいっちまってんだ?」

「あなた、もうそれくらいに……」さすがに見かねたとばかりに、横から女が制止に入る。「こんなこと、今ここで王女様に言ったって仕方ないでしょう」

「仕方ねぇわけあるかよ。畏れ多くもクロネリアの王族、それも第一王女様だ。次期女王陛下様だぜ。この国で起こってる問題は、全部知っていただかなくちゃならねぇ」

 それでも男は止まらない。喋れば喋るほど拍車がかかる、酔っぱらい特有の調子もあった。

 男は鋭い視線でメリアを一瞥すると、また一段、声を低くして尋ねた。

「あんた、王宮の会議でこの村のことを聞いたことは?」

「……二月ほど前に母に同席した会議では、こちらの地域を担当している役人は、平常通りで問題ないと、言っていたと思います」

「はは、そうかいそうかい。ご立派なお役人様だ」

 男が何一つ面白くなさそうに笑うと、また長い沈黙が落ちた。

 話が終わったわけではない。男はどっかり椅子に腰掛け、下に向かってだらりと首を垂らしているが、意識は依然、鋭くこちらに向けられている。

 そのいやに重苦しい空気に、メリアはまるで答えを急き立てられているような気分になった。

 だからメリアは言ったのだ。

「じゃあ、こういうのはどう? 今夜一晩、泊めてくれるお礼に、あなたたちを王宮で雇うの」

「……は?」と男から声が漏れる。

「私から家令に言えば話は通ると思うし、決して待遇は悪くないわ。今よりもいい暮らしができるはずよ」

「メリア、それは――」

 シュテルが制止の声をかけようとするが、しかし次の瞬間、それすら遮る男の大声が響いた。

「けっ! お忍び旅行の帰りに不幸な家族を一つ持ち帰って、民思いの為政者気取りか。王女様は気楽でいいねぇ。だがそいつは、冗談だって言われたほうがまだ面白ぇ」

 男は女の手から酒を引ったくると、顎を天に向けて一息に煽る。それからだんっと杯をテーブルに置いて立ち上がった。

「もういい。おらぁ寝るぜ。ただ飯食らいが突然二人も来ちまいやがったら、夜の蝋燭代も節約せにゃならん」

 一瞬だけよろっとふらついて、すぐに思い出したようにそばに立てかけてあった杖を取る。その歩く姿はやや不格好で、酒のせいだけではない、片足を庇うような節があった。

「あんたが本当に王女だってんなら、もうじきこの国の女王になるんだろう。まあ所詮、俺たち民草に王を選ぶことなどできやしない。せいぜい上手くやってくれ」

 燭台の灯りが届かなる直前、男は吐き捨てるようにそう言って姿を消した。

 メリアもシュテルも、そして女も、ただ固まった。テーブルに座る少女はいつしか食事を終えたようで、去っていく男の背中を不思議そうな目で見ていた。

 そこに背後から声がかかる。気づけば、ゾエの姿がそばにあった。

「お待たせしております、姫様と護衛のお方。さあ、参りましょう」

 ゾエはまたメリアの手を取り、二人を外に連れ出して扉を閉めた。



 暗い夜の農道を、ゾエを先頭にして三人が進む。明かりといえば彼女の持つ小さなカンテラ、それと空の星と月くらいのものだ。

 川沿いの緩い上りに差し掛かると、心地よいせせらぎの音が耳に届く。加えて草葉の擦れる音に、虫の鳴く声。それらは静寂を美しく彩る伴奏のようでもあった。

 しばらくして、ふいにゾエが前を向いたまま言った。

「姫様、さきほどは嬉しいご提案、誠にありがとうございます」

 穏やかで優しい彼女の言葉に、しかしメリアの反応はあまり思わしくなかった。

「いえ、でも……なんだか怒らせてしまったみたいで」

「ふぉふぉふぉ、嬉しい提案であること自体は、間違いないのです。ですが、王宮に居場所を用意してもらえるからといって、私ども家族だけが、おいそれと甘えるわけには参りません。この村は、決して豊かではありませんが、その分、皆で支え合って日々を生きております。突然に誰が欠ければ立ちゆきません。今はこの場所にこそ、私どもの生活と責任があるのです」

「そう……なのですね」

 細く呟くメリアを励ますかのように、ゾエは変わらず明るく続ける。

「あれは、私の倅です。申し訳ありません。国だ税だと知ったふうなことを言っとりますが、まだまだ未熟なもので」

「そんな、私なんてもっと……」

 もっと、未熟だ。内心で、メリアはそう思わずにはいられなかった。

 幼い頃、メリアは王女なんて不自由な立場は好きではなかった。ただその不自由は、自分の力で跳ね除けられるとも思っていた。

 しかし今も、メリアは変わらず王女だ。そして成長するにしたがい、その立場の重さや、身に余るしがらみを実感しつつある。知らなければいけないこと、できなければいけないことは人一倍多く、つきまとう義務や責任に対して自身の器が足りていると思ったことは一度もない。

「この村は王都から遠く、ゆえに国としても十分な整備を行い辛いのは、致し方ないことでございます。ですがその分、配慮もいただいています。姫様はご存じでしょうか……この村は、畑の実りがよいわりに、他の土地と比べても税が軽いほうなのですよ」

 尋ねられ、メリアはただ、ふるふると首を横に振った。

 ゾエはやはり前だけを向いているが、その答えをしっかり感じ取ったようだ。

「これは十年ほど前に、ローザ様ご自身が取り決めてくださったことでございます。幼い頃は、よく王宮を抜け出しては手足に傷をつけて帰ってこられていたお転婆な女の子でしたが、今はなんと……ええ、なんとご立派にお務めを果たしておられることでしょうか。私どもはとても感謝しております。もはやその感謝を直接ローザ様にお伝えすることはかないませんが、そのかわりに姫様にこそ、と私は考えているのです」

 手を引かれながら、俯き気味だったメリアは、はっと顔を上げた。お転婆だったなんて、そんな母の話を聞いたのは初めてだった。

「着きました」

 同時に、ゾエが振り返る。

 目の前には鉄製の門扉があり、その奥には、大きく立派な佇まいの館があった。村の家屋が木造であったのに対し、こちらは闇夜にわずかに光る、白く美しい石造りだ。

「これは……領主館ですか」

 シュテルの言葉にゾエが答える。

「はい。正確には、旧領主館でございます。お二方は、どうぞ今夜はこちらをお使いください」

「よいのですか、こんな場所を」

「ええ。私の祖父の時代までは、この地を治める領主様がいらっしゃったのですが、跡継ぎがおられず……以来、土地は国に召し上げられました。ですから今は、この土地のものは全てお国のもの。よいも何も、姫様とその従者が、自分の国の持つ館に寝泊まりすることの、どこに不思議がありましょうか」

 ゾエが錠を外して門を開き、玄関の方へと歩いていく。シュテルとメリアも、これに続いた。

「ありがとうございます。館も庭も、とても状態がいい」

「ここからもう少し上ったところには、アリア様とクローネ様に祈りを捧げるための教会もございます。神様のおいでになる周りは、清く整えておかねばなりませんので」

 それからゾエは館の中を軽く案内した。彼女の敬虔な発言に違わず、どの部屋もしっかりと清潔に管理されていた。最終的に二人が通されたのは二階で、一番大きい客室はメリアに、その隣の一回り小さな部屋はシュテルにとのことだった。

 窓にはくすみない透明なガラスがはめられている。内装や調度品は王都の流行からすればかなり古めだが、ともすればそれこそが、この館の歴史を正しく伝えているような気もした。何十年もの間、家主がいないにもかかわらずこれほど美しく保たれた家屋の、過ごしてきた時を。

 ゾエは一通りの説明を終えると、またすぐに

「では、お二方のお食事をご用意してまいります」

 と告げて下がった。その手際は、よもやマルガリタさえも凌ぐのでは、とメリアは思った。



 運ばれてきた食事はキャベツのスープにレーズンの入ったオートミール、ヤギのミルクとリンゴの砂糖漬けという、農村らしいものだった。

 それをシュテルはメリアの半分ほどの時間で食べ終えると、周囲の見回りに行くとのことだ。

 メリアにあてがわれた客室は、おそらくは王宮の自室と同じくらいの広さだった。しかしなぜだろう、本来は慣れきった広さのはずが、今は一人、少しだけ落ち着かなかった。

 だから、メリアも食事を終えると館を出た。近くでシュテルの姿を探したが見つからなかったので、そのまま館の側道から坂を上った。

 川に沿った緩やかな上りは、数分歩けばやがて開けた高台へと辿り着く。そこはちょうど館と村を見渡せるような位置取りで景色もよく、ついでに小さな教会が建っていた。

 館と同じく石造りで、しかしこちらは、所々が荒れていた。手作業での補修の跡はあるが不完全で、壁の隙間から白い月明かりが抜けている。

 メリアはその教会を横目に歩き、川に沿って裏手の方へと回り込んだ。するとそこには、色とりどりの花が群生していた。黄、白、オレンジ、そして紫、あるいはそれらの中間色。全てクロネリアの花だ。館から上ってくる途中にも散見されたが、どうやらここだけ、数が多い。

 花たちにつられるようにして腰を下ろす。様々な色の花がある中、メリアが真っ先に手を伸ばしたのは、やはり赤のそれだった。

 自然と、記憶が蘇る。五年前、王宮の隅の花畑に一人隠れ、初めてシュテルに出会った時の。この手で初めて、花冠を作ろうとした時の。

 けれどメリアは、あの頃から少しだけ長じた。両手に集められた花々は、一本一本が一つの形を目指して、淀みなく編み上げられていく。茎同士を束ねたところに、順々に別の茎を巻きつけて……今日まで何度、繰り返したことだろう。

「あ、いたー」

 その時、近くで声がした。はっとメリアが顔を上げる。

 すると、ゾエの家にいた少女が、ぱたぱた坂を駆け上ってくるのが見えた。

「わっ! 何それ!」そしてメリアの手元を見るなり、飛びつくようにぐんと顔を近づけて訊く。「もしかして、お花の冠?」

「え、ええ、そうよ」

「すごーい! どうしてこんなことできるの?」

「えっと……昔、練習したから……かな」

 目の前で突然はしゃぎ始めた少女の勢いに驚きつつも、メリアは見やすいようにと、その手を少し前に出してやった。もうちょっとで出来上がるのよ、と。

 輝く少女の目に見つめられながら、メリアはまた花を一本、丁寧に摘む。季節は初夏、クロネリアでは美しい花の季節だが、ここは標高が高く冷涼なため、最盛は今しばらく先だ。生えているのは蕾か三分咲きがそこそこで、ゆえにメリアの作る花冠も、やや慎ましい印象である。

 それでも少しずつ完成に近づくごとに、少女は期待で頬を染めた。いつしか少女は、メリアと肩が触れ合うほど近くに、ぺたんと座り込んでいた。

「それで、あなたはどうしてここに?」

 メリアが尋ねると、少女は「あっ」と思い出したように言った。

「ばあばに言われて、お食事、片づけにきたの! そしたらお部屋に、誰もいなくて」

「そうだったのね。ありがとう、えっと……」

「あたし、ミア!」

「ミア。いい名前ね」

「うん! さっき、お姉ちゃんはこの国の王女様って言ってたけど、本当なの?」

 問われ、メリアは一瞬、ミアからわずかに目を逸らす。

「ええ……本当よ」

 けれどその返答にも、ミアは憧憬に満ちた瞳を向けてくるばかりだった。

「すごーい! 王女様で、外国からのお仕事の帰りで、それでそれで……じゃあ、アントワープから来たっていうのも、本当?」

「そう、ね。そういう名前の街から来たわ」

「いいなあ。あたしもね、大きくなったらアントワープに行きたいいんだ! お水でいっぱいの、とっても綺麗な街なんだって」

「おばあさんから、そう聞いたの?」

「ううん、ばあばは行ったことないって言ってたよ。行ったことあるのはね、お父さん! お父さんはね、昔、ぎょーしょー、ってのをやってて、よくアントワープに行ってたんだって!」

「そう、だったんだ」

「うん。でもね、今はもうやめちゃって、お家に帰ってきたの。足、怪我しちゃったんだって」

 メリアの隣で足をぱたぱたさせながら、ミア自身はなんでもないことのように話した。

 彼女が今よりもっと幼い頃、父は季節ごとに大陸を南北に行き交い、その土地土地の産物を仕入れて売る行商人だったそうだ。まるで渡り鳥のように夏には北へ赴き、冬になると一時的に村に帰ってくる。そしてミアには必ず、心躍るような土産話と品を与えてくれたのだという。

 しかしある時、足を怪我して帰ってきた。北の国の城下街で、戦争に巻き込まれたとのことだった。それはおそらく、アレイシア侵攻での出来事だろう。かつてメリアが恋人を失い、シュテルが家族を失ったあの戦火。その火の粉が、こんなところにも飛んで痕を残しているのだ。

 ミアは言った。メリアの手元で漫然と編み上げられていく花たちを見ながら。

「あのね、だからね、王女様。お父さんのこと、怒らないであげてほしいんだ」

 三国同盟ができて以来、大陸は泰平の時代を歩んできた。そして五年前にそれが崩れてなお、クロネリアにおいては比較的平穏を維持できている。これが王都に住まう王族や貴族たちの認識であり、メリア自身も同様にそう信じていた。

 しかし現実、苦しみを背負う人たちは当然いる。このクロネリアにも。今までそのことを知らないどころか、想像さえしなかった自分に、メリアは驚きと羞恥と、嫌悪を覚えた。

「もちろんよ。私のほうこそ、ミアのお父さんに、謝っておいて」

「王女様が謝るの? 何を?」

「きっと、よくないことを言ってしまったからよ。ミア、あなたにも……ごめんなさい」

 浮かべた笑みは、しかしあまりにも力なく、眉は下がり、口元が薄く緩むだけに過ぎなかった。そこにあったのは優しさではなく自嘲だったが、それでもミアは、謝罪に快く答えた。

「あたしは大丈夫だよ!」

 と、メリアとは対照的な明るい笑顔で。

 いつしかメリアの手元には、完成した小ぶりの花冠があった。メリアはたまらず、ミアの頭上にそれを載せて言うのだった。

「……ありがとう」

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