12.Ster
ほどなくして、劇のワンシーンが終わりを迎えた。本日はそこで閉演とするようだ。
最後に観客への感謝を伝える口上が述べられると、それに答えるようにして観客からいくつもの投げ銭が舞った。陽光を跳ねて宙に煌めくそのほとんどは銅貨であるが、中には太っ腹な銀貨も含まれている。こうした街を挙げての市には、大金持ちの豪商も数多くいるのだ。
人形劇に使われていた台は、演者が蓋を取り外すと、そうした投げ銭を受け入れる箱となった。演者は非常に満足顔で、上演中の困惑など、どこ吹く風といった様子。
やがて人がはけ始めると、前列の脇で見守っていたシュテルのところへ、メリアがととっ、と駆け寄ってくる。彼女もまた、硬貨があちこち飛び交う光景を前に興奮しているようだった。
「ねえシュテル! 見て! すごいすごい!」
「うん。きっと君のヒロイン役がとても上手だったからだよ」
そう微笑みつつ、シュテルは内心、何事もなかったことにこっそりと胸を撫で下ろす。
しばらくすると、人形を片づけ終えたらしき演者が二人のところへ歩いてきた。
「ありがとう、お嬢さん。こんなにウケたのは久しぶりだよ」
その手には、硬貨でできた小さな山。
「報酬は半々……と言いたいところだが、出演料は、これでよしとしてもらえないだろうか」
はは、と少しばつが悪そうに笑う男は、無精髭を生やしてはいるがよく見れば随分若かった。
「失礼。突然劇に割って入ったのはこちらですのに」
とメリアにかわってシュテルが応じると、男はすぐに彼の方へと視線を移す。
「いやいや、結果としては私が助けられたくらいだ。一人ではなく、誰かとやるのも楽しかったし、何より彼女の演技は素晴らしかった。女優の才能がありそうだ」
「大袈裟です。あまり褒めると彼女が調子に乗るのでやめてください」
「本当だよ。できることなら正式に雇いたいくらいだが、生憎のこと、私もまだ劇団の見習いに過ぎないものでそうもいかない。しかしこれも何かの縁、私が自身の劇団を立ち上げた際には、是非とも声をかけさせてもらいたい」
「そうですか。では是非、その時を待つとしましょう」
すると演者は嬉々として笑い、メリアの両手に硬貨の山を乗せて満足げに去っていった。
「すごい! 思わぬ収入ができちゃったわね!」
「そうだね。僕には真似のできない稼ぎ方だったよ」
シュテルは心底そう思った。これまでにも必要に応じて日銭を稼いだことはあったが、こんな方法を考えたことは一度もなかった。
「それは君のお小遣いにするかい?」
「ううん、いいわ。私をクロネリアに送るのに、タダってわけにはいかないでしょ」
もちろん彼女の言う通り移動に金は必要だが、そのための用意は既にある。さりとて、もはや宙を舞わない硬貨が彼女の興味を引くことはないのだろう。
シュテルは外套の下から財布がわりの小袋を取り出して口を広げる。その上で、メリアは両の手のひらをひっくり返した。
その時、メリアの視線がふと何かをとらえるのを、シュテルは見た。
演者の戻っていった方だ。劇が終わり、人のいなくなった広場で、地面に置かれた演者の箱に幼い男の子が近寄っていくところだった。
その手に握られていたのは小さな石だ。平円状の、少し綺麗に光る石。それを箱の中にぽとっと落とすと、上を向いて演者に笑いかけ、また戻っていく。
どうやら男の子も、先の人形劇を見ていたようだ。そして他の観客と同様に投げ銭によって称えようとしたが、手元に硬貨がなく、かわりの小石といったところ。実に微笑ましい光景だ。
しかし、話はそれで終わりではなかった。
男の子の戻った先は、広場の隅の、教会の影になっている薄暗い場所。そこには、俯いて座り込むやつれた女がいる。二人は母子のようだった。
「ねえシュテル、あれ……」
シュテルも同じものを見ていたから、メリアが何を言おうとしているのかはわかった。
「あれは……物乞いの人たちだね」
「物乞い?」
「うん。貧しくて食べるものが手に入らない人たちは、ああやって教会の前に集まって、食べ物を恵んでもらうんだ。もうすぐ教会の施しの時間なんだよ」
「え……食べるものが、ない人たちがいるの?」
その質問はわずかな戸惑いを含んでいたが、ほとんどは純粋な疑問によるもののようだった。
シュテルは答えた。「そうだよ」と、当たり前のことのように。
「最近、ガイオンの多くの街では、織物職人たちの仕事が急速に減っているらしいんだ。宰相が進める国策で、国が武具を大量に買い上げている。戦争の準備でもしているんじゃないか、なんて噂が流れるくらいにね。結果、商人たちがこぞってそればかりを取り扱うようになった。その反動で、今まで織物を中心に扱っていた商人たちから職人への発注が減り、彼らが食いっぱぐれているという流れだ。あの二人は十中八九、織物職人の家族だろう」
「そんな……誰も助けてあげないの?」
「一応、それをするのが教会だね。集まった人たちにその日の食糧くらいは施すはずだ。彼らはそういう名目で、敬虔な貴族から多額の寄付を受けているから」
「そ、そうじゃなくて……誰か……だって、街にはこんなにたくさんの人がいて、さっきだってみんな、楽しそうにお金、投げてて……」
メリアは困惑を露わにした顔でそう訴えた。
彼女の気持ちは、シュテルにだって理解できる。行きずりに見た人形劇に金を放る人があんなにいるのに、すぐ横では、その日の食糧を買う金すら持たない人たちがいるのだ。
「それって……おかしくない?」
シュテルはなんと答えるべきか迷ったが、思ったままを言うことにした。
「……正しくないとは、僕も思うよ」
わかっている。これは不条理だ。
でも、こんなのは昨日今日に始まったことではない。メリアは、今日たまたま初めて目にしたかもしれないが、皆ずっと、もっと前から知っている。シュテルだってもう何度も見てきた。
「さあ、僕たちもそろそろ行こう」
しかし、シュテルがそう言って、小袋の口を閉じようとした時だ。
唐突にメリアの手が差し込まれ、目にも留まらぬ速さで一枚の硬貨を抜き取った。はたして狙ったか偶然か、彼女が握ったのは金貨だ。そしてそのまま、一直線に走り出した。
向かった先はもちろん、教会の隅の母子のところだ。
メリアは辿り着いた女の前で同じ目線にしゃがみ込んで言った。
「ねえ! これ、あげるわ!」
「え」当然、女は目を丸くした。「あの……」
視線はその胸の驚きを表すように揺れ、メリアと差し出された金貨を数度、行き来する。
「すみません……あなたは、教会のお方でしょうか?」
「違うけど」
「でしたら、受け取れません」
力なく首を振る女を見て、メリアはまたも困惑する。
「ど、どうして?」
「どうしてとおっしゃいましても……頂く理由がございませんので……」
「そんなの気にしなくていいわ。私がこれをもらってほしいの。あなたと、その子に」
メリアは素直な気持ちからそう言ったようだが、幼い子供を引き合いに出されると、女としてはきまりが悪いようだった。自分一人なら飢えているだけだが、子を連れる親としては、飢えさせているという思いもあるだろう。
「お願い」と言いながらメリアが女の手に金貨を握らせる。
すると女は、わずかな逡巡を見せたあと、やがて、何かを諦めたような小さな笑みを浮かべながら、それを受け取った。
遅れてシュテルがやってくると、女はすぐにメリアの連れだと理解して尋ねた。
「あの……これは本当に、私どもが受け取ってもよいものでしたか?」
「ええ、もちろん。あなたとその子に差し上げます」
シュテルは快く答える。だがそれだけで終わるわけにいかないことも、彼にはわかっていた。
「ただご婦人、差し上げたあとで大変恐縮ですが……そちらは、すぐに教会へ持っていくことをお勧めします。人から譲り受けたと正直に話し、半分を教会に寄付したいと申し出るのです。そして残りの半分はも預かってもらい、日ごとに必要な分だけ食糧として受け取れるようにしてほしいと頼んでください」
いいですね、とシュテルが女の瞳を見て真剣に告げると、女も深く首を振って頷いた。
「あなた方に、聖母アリア様と、祖神ジオ様のお導きがありますよう。さあ」
シュテルは女を立ち上がらせ、普段の彼らしからぬ様子で移動を急かす。そのまま、二人が教会の扉をくぐるのを見届けると、メリアの手を引いて足早にその場を立ち去った。
「ねえ、どうしてあんなこと言ったのよ! わざわざ寄付なんてさせなくても……」
広場から少し離れた路地の隅を、シュテルは未だ早足のまま歩いていく。メリアはその行動に、あまり納得していない様子だ。
「しかも半分もさせたら、あの人たちはまたすぐに食べ物を買うお金がなくなっちゃうんじゃ」
「大丈夫だよ。君にはあまりこういう感覚はないかもしれないけど、街で暮らす職人やその家族たちにとって、金貨は大金だ。例えば彼女らが母、父、子の三人の家族だったとして、慎ましくやりくりすれば、あれ一枚の半分で三ヶ月はやっていける。それだけの金額なんだ」
「そ、そうなんだ。なら、いいけど……」
「うん。だからこそなおのこと、あの二人は今日突然、そんな大金を持って家に帰ることはできないだろう。よくないことを疑われかねないしね」
家で待つ父がその金貨を見たら、おそらくはまず喜ぶより先に不安になる。どこかで盗みでも働いてきたのではないかと。それが常識的な大人の感覚だ。
「そんなの、たまたまもらったんだって言えばいいじゃない。事実、そうなんだし」
「そう、たまたまだね。あの二人は、たまたま君の目に留まったから、運よく金貨がもらえた」
「そうよ」
「でもね、君は気づいていたかい? あの二人以外にも、周りには同じような人たちがたくさんいたことに」
ずっと前だけを見て歩いていたシュテルは、そこでようやく振り返った。すると目の前には、今も自分が手を引いているメリアの顔が――よくない驚きに硬直し、絶句した顔がある。
「え……他にも、いたの?」
「いたんだよ。教会の裏手の、もう少し奥へ行った路地の陰にね。そして僕らの方を見ていた」
当然、その人たちにはメリアが渡したものも見えていただろう。
「気まぐれに一人二人を救うのは、まあ、難しくない。でも、君がすべきはそうじゃないはずだ。誰かを特別扱いするのはよくないよ」
なぜならメリアは、一国の王になるのだから。シュテルははっきりと目で、そう告げていた。
「で、でも――」
「それに」
真剣に見つめられ、いかにも苦し紛れで出たかのようなメリアの反論を、シュテルは落ち着いた声で遮る。同時にメリアの手を引き、すっと抱き寄せて、今まさに彼女に伸びようとしていた何者かの手を、力強く掴んで止めた。
大柄な男だった。右手を止められても、間髪入れずに今度は左手でシュテルに殴りかかってくるくらい、荒事に慣れていそうな。
上背から繰り出される攻撃が届く前に、シュテルは素早く、相手の足を払って転ばせる。
「こういう輩も見ていた。あの二人が帰路についたら、どこかひとけのないところで襲って金貨を奪うつもりだったのだろう。しかし教会に立ち寄ったことで目論見が外れ、今度は僕らを標的にした。そんなところかな」
言いながら、シュテルはさらにもう一人、男がこちらへ向かってくるのを視界の端でとらえる。これには接触する直前、逆にその懐に飛び込み、勢いを利用して背負い投げにした。
そうして二枚重なりになった男たちから素早く離れ、シュテルは再びメリアの手を取る。
「走るよ!」
他にも仲間がいるかもしれないが、相手にするのは面倒だ。メリアに合わせた最大限のスピードで人の間を縫って抜け、追手をまきながら目指す先は、都市の南門。そこは都市の出入りを管理する関所であり、ゆえに、輸送業や商人の馬車が多く停留している場所でもある。
シュテルはすぐに周囲を見渡し、数ある馬車の中から一つに狙いを定めて近寄っていく。その馬車の影には、今まさに荷積みが終わって発とうとしているふうの男が見えた。
「お忙しいところ失礼。突然のことで、大変申し訳ないのですが」
シュテルが声をかけると男は「はい?」と足を止める。
「よろしければ、私たち二人をクロネリアまで送り届けてはもらえないでしょうか」
急ぎつつも丁寧なその依頼に、しかし男は難しい顔を見せた。
「え……クロネリア、ですか。自分は行商を営んでおりまして、ここからはロールズの方へ向かう予定でしたが……知っての通り逆方向です。こう言ってはなんですが、もうしばらくすれば定刻の便もあるはずですので、そちらを使われたほうが……」
「そうなのですね。ですが、すみません。こちらとしては今、どうしてもあなたにお頼みしたい。運賃は言い値でお支払いします」
二つ返事で引き受けてもらえないことなど想定内だ。怯まずに切実な声でもう一押し。さらに懐から、硬貨をしまった小袋を取り出す仕草で、さりげなくあるものを相手の視界に入れる。
目論見通りにそれを目にしたであろう行商人は、無言で目を見開いて息を呑んだ。
「あ……い、言い値で、ですか。いえ、そこまでおっしゃるということは、相応の事情がおありのご様子。わかりました。運賃はいりません。人助けも、敬虔な信徒の大切な務めでしょう」
「ありがとうございます。では、すぐにでも出発していただきたい」
行商人の開いた馬車の扉に、シュテルはいち早くメリアを押し込む。
シュテルが見せたものとは、この街の通行証だ。通行証など行商人にとっても当然見慣れているはずだが、だからこそシュテルの持つそれは、異彩を放って彼の目に映ったに違いない。一般のものとは明らかに違う、この街を治めるヴォルテール侯爵から直接発行される特別製だ。
となれば、行商人としてもここで小金を稼ぐより、誠実に頼みを聞いて取り入っておくが吉。
こういう時、後ろ盾の存在というのは大きいものだ。それはシュテルが幼い頃に貴族社会で学んだことのうち、市井で生きるうえでも同様に役立つ、数少ない世の真理である。
二人を乗せた馬車は、クロネリアへ向かって走り出した。
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