11.Melia
ル・ポワレをあとにしたメリアとシュテルは、再び街の大通りに戻った。その頃になると日はいくらか高くなっており、通りは既に多くの人で賑わっていた。
「今日は、街で夏市が開かれる日だね。だから特別、人が多いんだ」
夏市……つまりは祭りのようなもの、とそわそわしたメリアの脳内で変換される。元来、彼女は賑やか好きだ。しかも、今日はさらに一段とはしゃぎたくなる理由が、メリアにはあった。
まず一つ、服が違う。普段王族として振る舞うべき彼女は、常に見られることを意識した服装をあてがわれてきた。そうしたものは煌びやかではあっても、装飾が多くて動きにくくて、特にがちがちのコルセットは彼女の一番の天敵だ。しかし今日は、それが緩くてとても楽。
次に、人目を気にする必要がない。街娘の装いは、都市ではこれ以上にない迷彩服だ。メリアがここでいくら走っても踊っても、それは夏市で浮かれるただの少女に見えるだけ。
そして何より、隣にシュテルがいてくれる。だから遠い異国の地だって怖くないのだ。
ここでは、目にするもの全てがメリアにとって初めてだった。
立ち並ぶ露天商に止まぬ喧騒。
猥雑な裏通り。地べたで賽や盤の遊戯に興じる子ら。
美しい水路。街中を行き交う小舟。修繕途中の大聖堂。
右に左に、視点を泳がせながらずんずん前に進んでいく。後ろでシュテルが「はぐれないようにね」と言った気がしたが、メリアの耳に届いたかは怪しかった。
彼女はその時、とある人集りから漏れてくる声を聞いていたからだ。
「名前って何? 私たちが薔薇と呼ぶものは、他のどんな名前で呼んでも同じように甘く香るわ。だから、ねえ、その名を捨てて」
それはメリアにとって親しみのある言葉だった。自然、足先は声の方へと向かっていく。
そこで行われていたのは人形劇だ。教会前の小さな広場に一人の男が立ち、両手で二体の人形を動かしている。
「捨てましょう、あなたが言うなら。僕のことはただ、恋人と呼んでください。それが僕の新たな名前」
人形以外にセットは何もない。小さな台の前、演者がそれぞれの台詞に合わせて声色を変え、主人公とヒロインの人形の身振り手振りだけで物語が進行していく。
「どうやってここへ来たの? だって庭には、高い塀が」とヒロインが尋ねれば、続いて
「そんなもの、恋の軽い翼でひとっ飛びです」と主人公が答える。
まるでデュエットのような掛け合いはテンポがよく、見聞きしていて気持ちがいい。市巡りの休憩にもってこいということもあり、結構な数の人が観劇を楽しんでいた。
「僕の愛を、あの神聖なる月にかけて誓いましょう」
「月は駄目よ。不実な月は、夜ごと姿を変えるのだもの。あなたの愛も変わってしまうわ」
「では何にかけて誓いましょう?」
「「誓わないで。どうしてもと言うなら、立派なあなた自身に誓って。あなたは私の神様よ」」
しかしそこで、ヒロインの台詞が同時にふたところから聞こえた。誰かが演者とまったく同じタイミングで、同じ台詞を発したからだ。
誰か――いや、メリアが。
「え、急に何を!?」
ぎょっとしてシュテルが尋ねると、彼女はあっけらかんとして答える。
「だってね、私の知ってる劇だったから! 昔、よくマルガに読んでもらった物語だったの!」
なんとまあ純粋で奔放で、とてもとても、メリアらしい。
シュテルがすっかり唖然としていると、その後もヒロインの台詞だけが重なって響いた。
「「いつまでもここにいて」」
「ええ、ずっとここにいます。ここ以外の帰る場所など忘れてしまおう」
「「もうすぐ朝だわ、やっぱり行って。でも、遠くへ行くのは嫌。飼い鳥みたいに、ちょっとくらいなら手から離してあげるけれど、足枷をはめられた囚人のように絹糸で引っ張って連れ戻してしまう。愛しているから、飛んでいってほしくないの」」
「君の小鳥になりたい」
「「そうしてあげたい。でも可愛がりすぎて殺しちゃうわ」」
メリアの声は決して大きくはなかったが、近くにいる観客には十分に聞こえただろう。
そして彼らは皆、少なからず驚き、感心しているようだった。
演者顔負けの迷いないメリアの口上は、一朝一夕に成るようなものではない。台詞を暗唱するだけでも、同じ物語を何度も読み込む必要があるだろう。しかし量産に難しく、高価で取引される書物というものに触れる機会は、街娘にはあまりないというのが通念だ。この演者だって、劇をするには苦労して写本を手に入れるか、人伝てに教えてもらうしかなかったはず。
当然、演者は困り顔。ただ、困り顔も束の間、すぐに何か閃いたような表情を見せたのは、さすが芸を生業にしているだけはあるといったところだろうか。
折を見て演者は観客の中まで進み、メリアの前で片膝をついて恭しく手を差し伸べたのだ。
「皆様、既にお気づきの方もいらっしゃいますでしょうか。本日はここで、特別ゲストにご登場頂きましょう! さあ、お嬢さん、お手をどうぞ!」
突然のことに、今度はメリアが驚く番だった。わけもわからないままに手を重ねると、観客の前まで連れていかれる。
さらに演者は仰々しく続けた。
「こちらは私の、新しい助手でございます。演目はせっかくのラブロマンス、ヒロイン役は是非とも、歳の頃もぴったりな、可愛らしい娘さんの声でお送り致しましょう!」
即席にしては立派な紹介だが、演者にとってもなかなかにいい博打である。
しかしイベント特有の浮かれた空気もあってか、ほとんどの観客は「なるほどそういう趣向か」と頷いてくれた。
演者はヒロインの人形をメリアに渡し、彼女にだけ見えるようウィンクを飛ばす。
するとメリアも、嬉々としてそれを受け取った。幸い、人形は簡単に動かせるものだったし、彼女とて浮かれていたのは同じだったのだ。
劇は、メリアが飛び入りすることで確実に集客を増し、見栄えもした。今、彼女は市井の娘に扮しているが、こうしてひとたび人前に立てば、すぐに周囲を引き込んでしまうオーラを持つ。それは間違いなく、彼女の高貴な生まれや天性の資質によるものだ。
一連の流れを後ろで見ていたシュテルだけが、非常に渋い、複雑そうな顔をしている。もちろん彼としては、メリアには極力目立ってほしくないはずだ。
それでもすぐに諦めて、溜息を漏らしながら、有事の際に対応できる位置まで移動した。メリアに付き添って動くとなれば、これくらいのことは想定内なのだろう。
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