第三幕

10.Ster

 森を出たシュテルとメリアの目指す街は、人々から水の集積地と呼ばれている。北はガイオン首都シティ・オブ・ロールズから、南のクロネリア王都ルティアまで、大陸西部を貫く大河川の中腹にある水運都市『アントワープ』だ。

 古くはその河川沿いに出来上がった街道の中継地として栄華を誇った。そして現在では、大陸東部に整備された新街道の沿線都市に交通輸送の要衝を譲ったが、それでも衰退の色を見せず、新たに芸術や娯楽文化の中心地として名を馳せている。

 立地は比較的高低差の緩んだ山麓の下部。大河川と同じほどの贅沢な幅を持つ堀に囲まれたその外観は、遠目からはまるで小さな湖に浮かぶ島のようにも映るだろう。堅固かつ洗練された意匠の大橋を渡って門をくぐれば、中には水と共生する街の姿が広がっている。

 人々の歩く通路と小舟の行く水路が交差する景観。中心の大噴水から放射状に延びる大通り。

 その大通りを一本横へと逸れたところに、ある一軒の店があった。木の骨組みと赤い漆喰を合わせて建てられた、ハーフティンバー様式のこぢんまりとした酒場『ル・ポワレ』。

 その入口に向かって迷わず、目覚め始める早朝の街中を早足に歩くのがシュテルだ。メリアは白いローブの上から長外套のフードをすっぽりと被せられ、手を引かれるままに彼に続く。

 そうして、まだ開店前の静かな酒場の扉を開けると、すぐさま愛嬌のある声がかかった。

「あらシュテル、しばらくぶりね」

 声の主は、開けた店内にエプロン姿で立つ妙齢の女性。テーブルを布巾で拭きつつ、目敏くシュテルの後ろにいるメリアを認めると、その口で大きな弧を描いた。

「何ー? もしかして、朝までお楽しみだったのかしら?」

「フェリシタさん……僕はそういう遊びはしないよ」

 フェリシタと呼ばれた女性のやや下世話なその笑みを、シュテルは慣れた様子で流す。

「ふふ、やあね、わかってるわよ。でもそれにしたって、シュテルが女連れなんて珍しいじゃない。街の女の子たちが見たら泣いちゃうかもよ」

「はは、どうだろう」

「どうだろうって、よく言うわ。聞いたんだからね、前にうちの常連の子に言い寄られても、デートすらしてあげなかったって」

 フェリシタの口調は変わらず楽しげなままだったが、同時にシュテルを咎める意図も少なからず含まれていた。

「昔の婚約者が忘れられないから、だっけ? おかげでうちは、お客が一人減ったんだから」

「ははは」と曖昧に笑うシュテルに対し、すかさずフェリシタも「ふふふ」と返す。しかしその目は、あまり笑っていないような気もした。

 シュテルは店の奥のカウンターの方へと歩き、メリアの前で椅子を引く。彼女がおずおずとそれに座ると、シュテルも隣に腰掛けた。それを見てフェリシタはカウンターの中へと入る。

「ま、冗談はさておき、こんな朝早くに来るのが遊んだあとってわけじゃないなら、お仕事かしらね。なーんか、いかにも訳ありっぽいし?」

 フェリシタが、今度はいやに真面目な視線を一瞬だけメリアへ向けて。

「例えば……クロネリアの貴族のお嬢様をこっそりお国に送っていく途中とか、そんなとこ?」

「な、なんでわかったの!?」

 すると、メリアが表情をひどく強張らせて声を上げた。何せ、本来は今頃クロネリアで即位式典に出ているはずの身だ。ここで王女だとバレたらまずいという自覚はあるのだろう。

 しかしそんな気も知らないフェリシタは「あら、図星? 駄目よ、下手なカマかけに簡単に反応しちゃ」と悪戯に笑って続ける。

「んー、そうね。裕福な暮らしだってことは、見たらわかるわ。荒れていない綺麗な指や爪。外套の下に着ているびっくりするくらい良質なローブは、ちょっと汚れてるけど生地はまだ新しいから、普段から使っているものじゃなさそう。となれば聖職の人ではなくて、祭事の時にだけ法衣を着る貴族かなって。あと、そのローブの装飾がなんとなくクロネリアっぽい」

 その読みに、メリアは唖然とするばかりだった。

 放っておけば何から何まで看破されかねないので、横からシュテルがフォローを差し込む。

「フェリシタさんは、察しがよくて助かるよ」

「やだ、むしろ見当違いであってほしかったわ。シュテルの仕事は秘密が多いし、知りすぎるとあたしまで危なそう。うちに来るなら厄介事は片づけてからにしてくれなきゃ困るんだから」

「悪いとは思っているんだけどね。何しろ、頼れる人が少なくて」

 そうしたやりとりをしつつ平然と食器類の整理を始めるあたり、彼女もこうした事態には比較的慣れているようだ。

 よほど迂闊な言動はできないと踏んだのか、メリアは大人しく、椅子に座って黙っていた。

 ややあって、燭台の手入れをするフェリシタが、再びシュテルに向かって尋ねた。

「で、用件は何?」

「服が欲しいんだ。ほら、フェリシタさんにバレちゃったみたいに、この格好じゃ街中を歩くにも具合が悪くて」

「ああ、まあねえ。って言っても、あたしの古着くらいしかないけど、そんなのでいいなら」

「もちろん、是非頼むよ」

 カウンターの中を何度も行き来するフェリシタは、今度はメリアに視線を移す。

「あなたはそれでいいのかしら? お世辞にも、貴族の人にあてがうような服じゃないけど?」

 言わずもがな、メリアがそんなことにこだわるような性格とも思えない。彼女は頷き、口を開こうとしたところで、しかしそれよりも一瞬早く「ぐう」と腹のほうが鳴った。

 開店前の静かな店内いっぱいに響いたその返答に、フェリシタはたまらず、ぷっと吹き出す。

 これにはさすがのメリアも顔を赤らめるばかりだ。そしてとどめは、にこやかなままのシュテルがまったく動じずに添えた「あと、もしできるなら食事の用意も」の一言だった。



 フェリシタ曰く「お二人さん運がいいわ。いつもならこの時間だとまだ何もないけど、今日はもうすぐ開店の予定だったから」

 ということで、その後すぐにカウンターの奥からスープが出てくる。この店の看板メニューでもあるニンジンと羊肉のスープだ。

 フェリシタは二つの皿をシュテルの前にだけ並べて置いた。

 これは、毒味のためだ。貴族にとってそれはとても基本的な慣習だし、この場合はメリアのためにシュテルがその役を担うはずだと、フェリシタは考えたのだろう。

 シュテルももちろん、そのつもりだった。匙を持ち、軽く一匙掬おうと手を伸ばす。

 しかしだ。あろうことか、スープは横から目にも留まらぬ速さでかすめ取られた。

 そしてメリアは勢いのままにスープを口に流し込み、みるみるうちに胃の腑にまで落としてしまった。よほど腹が減っていたのだろうか、口周りが汚れるのも気にせず、空にした皿をごとんと卓に下ろすまで一息。

「っはあ! 結構美味しいじゃないこれ! おかわり!」

 その姿を見て、フェリシタは困惑に固まった。疑問の視線がシュテルに飛ぶ。

 対するシュテルは、肩を竦めて微笑むばかりだ。シュテルも数年ぶりに思い出していた。そういえば、メリアという少女は昔からこういう子だったなと。

 するとフェリシタも、やがて笑った。

「ふふ、随分勇ましいお嬢様ね。うちの料理を信用してくれたと思えば、悪い気はしないけど」

「はは、そうだね」

「ここまでいい食べっぷりだと、出す側も嬉しいものだわ。ちょうどいい火酒が入ってるんだけど、一緒に勧めてもいいかしら?」

「それは……頼むからやめよう。これから送っていく彼女がここに根を生やしたら困るんだ」

 メリアと酒の組み合わせは、なぜかとても破滅的な匂いがすると、シュテルは思った。背筋を走った悪寒から逃げるように、早々に話題を切り替える。

「ところで、今日は店を開けるのが早いんだね。いつもは昼前くらいなのに」

「そりゃそうよ。だって今は、クロネリアで新女王即位式の祭典がやってるでしょ。ここはガイオンだけど、国境に近いから同じくらい賑わうってわけ。商人、御者、船頭、職人、役人、貴族、護衛兵、みんなみんな大集合。となればうちだって、黙って見てるはずないじゃない」

「そういうものなんだ。この店っていつも常連の人ばかりだから、てっきり興味ないものかと」

「馬鹿おっしゃい。またとない稼ぎ時よ」

 すると、会話を横で聞いていたメリアが声を上げる。

「即位式の祭典って、今もやってるの!?」

 その質問に、フェリシタは当然と言わんばかりに答えた。

「もちろん、やってるわよ。ああ、そういえば、新女王様が権能の予知を賜るのに時間がいるとかで、即位演説が最終日に延期されたって噂は聞いたけど……ま、それでも中止になんてするはずないわよね。クロネリアとしても、国を挙げての一大行事なんだもの」

「そう……なんだ」

 ひとまず、メリアの不在によって式典が中止になったわけではないようだった。

 フェリシタは小さな溜息とともにシュテルを見やる。視線では「そんなことも知らないでこの子、大丈夫?」と問いながら。

 対するシュテルは曖昧に笑い、右手に持った匙をようやく目の前のスープに延ばす。

「まあ、新しい女王様っていっても、あなたたち二人と同じくらいの歳だものね。大きな公務で緊張して体調崩しちゃったとか、そんなんじゃないかしら。それでも半神の権能って建前を使えばギリギリ体裁は保てるんだし、セーフってものよ」

「どうだろう。もしかしたら本当に、権能の予知を賜るために時間が必要なのかもしれないよ」

「あらシュテル、随分と敬虔なこと言うじゃない。クロネリアじゃあどうかわからないけど、少なくともガイオンでは、権能なんてもうお伽噺も同然よ?」

「お伽噺って……ガイオンの国王ヘンリー様は、今では数少ない、権能を継承せし御方だよ」

「いや、そりゃ教会で教えてくれる歴史では、そうだけどさ」

 フェリシタは目をつむって小さく指を立て、まるで説教を行う司祭のようにつらつら述べた。

「陛下の祖先はその昔、半神ジオの権能を用いてこの国を築き上げたんでしょ。その目には大地を見極める力が宿っていて、指示通りに掘れば鉱脈! 育てりゃ豊作! ってな感じ。ガイオンは瞬く間に豊かになって、周辺諸国に並ぶどころか、すぐに大陸で一番の大国!」

 しかしフェリシタの立てた指は次第にくるくると宙をさまよう。

「でもねー。拓く土地も無限にあるわけじゃないし、このご時世、権能を振るう機会も減ったのかしら。最近じゃあ国王陛下なんて、全然表に出てこないの。あたしはもう顔も忘れた。今、国を動かしてるのって実際は宰相の、ほら、五年前にアレイシア侵攻を仕切ったっていう……」

「ルーファス・グレイスター宰相?」

「そうそう! その人が宰相になってから、この国はほんと変わっちゃったわよ。税は増えたし、公共事業なんかそっちのけで軍備ばっかり増強されるようになったしさ。この街はまだヴォルテール卿が上手くやってくれてるからいいけど、ロールズの方なんてもう、昔とは別物よ」

「うん……そうみたいだね。近頃はよく聞く話だ」

 シュテルは思わず溜息を漏らした。

 こうした酒場のような、噂話の集まる場所だけではない。通りを歩いていて聞こえてくる世間話にも、この手の話題は多くの頻度で含まれている。

 そして、国が荒めばシュテルのような立場の者が請け負う仕事はよりいっそう、血なまぐさくなっていくものだ。彼はそれを自らの肌で感じていた。

 動きの鈍った匙でスープを口に含む。その時、反射で「ん?」と怪訝な声が出た。

「あら、どうかした?」

 尋ねるフェリシタの前でシュテルは一、二度、咀嚼して言う。

「フェシリタさん、これ、レシピ変えた?」

 するとフェシリタは一瞬だけ驚いた表情を見せたが、すぐに観念したように手を上げた。「あー……わかっちゃった?」と。

「実はね、ニンジンの仕入れ先を変えたのよ。前は北の方の、旧アレイシア領で採れたものを、ロールズ経由で入れてたんだけど、輸送費が馬鹿にならなくなっちゃって。それで最近、もう少し近くの農村で採れるものを試しに使ってるのよ。結構頑張って前の味に近づけたつもりだったんだけど……はあ、シュテルはグルメだわ」

 もちろん誉められてはいない。わかりやすい皮肉だが、シュテルは苦笑いで受け流す。

「違うよ。僕はほら、北の生まれだから、昔よく食べていたんだ。それでわかるだけだよ」

「そういうものかしら」

「そういうものだよ」

 とはいえ、気づいてしまった以上は嘘などついても仕方がない。

 もう随分と前のこと、ここで初めてこのスープのニンジンを口にした時には、懐かしい故郷を思い出す味に人知れず心癒されたものだった。

 輸送費が上がるのは仕方ない。そういう時勢だ。それで店が仕入れ先を変えるのも当然だろう。けれど、せめて贔屓の味が少しでも変わらないようにと、シュテルは無意識に頭を捻った。

「そうだな……北から仕入れられないなら、じゃあいっそ、南から仕入れるのはどう? ここは国境に近いし、クロネリアからなら十分、可能だと思うんだ」

 その提案は意外だったのか、フェリシタは少し首を傾けた。

「え? けど野菜って、育つ場所の気温でかなり変わってくるものじゃない? これ以上ないほど寒いところで育ったものを仕入れてたのに、クロネリアじゃ、ほとんど真逆の環境よ」

「うん、もちろんそうだよ。でもね、フェリシタさんがこれまで旧アレイシア領から仕入れてたのは北方ニンジンで、今仕入れているのは、ガイオンで一般的に育てられている中央ニンジンだ。この二つはそもそも違う原種から品種改良されたものだから、育つ環境が近くても似た味にはならない。対して、クロネリアで多く育てられている南方ニンジンは、歴史的に北方ニンジンと同じ原種から改良されてできたものなんだ」

「え、そうなんだ。原種の違いなんて初めて聞いたわ」

「そう? まあ、仮に南方ニンジンを使っても完璧に同じ味にはならないだろうけど、少なくとも今よりは、元の味に近づくと思うよ」

 へえ……というフェリシタの感心は、ついに声にもならなくなっていた。まさか客から料理に使う野菜の仕入れ先についてアドバイスをもらうとは、思っていなかったのだろう。

 しかしそれを「うえ」という呻き声とともに、険しい表情で横から見ている顔があった。

「シュテル……あなた変わってないわねえ、そういうとこ」

 メリアだ。気づけば三枚の皿を積み上げ、絶賛四杯目のスープを堪能中の傍ら、うんざりだと言わんばかりの口調で続ける。

「昔、一緒に食事した時、色々言ってたの思い出したわ。こっちのキュウリは正式名がナンタラカンタラでどこどこ産、あっちのナスはドータラコータラでどこそこ産。私はまるっきり意味わかんなかったけど、料理人はもう、ぎょっとしてたわよ。どっから情報が漏れたのかって」

「どこからも何も、食べたらわかるじゃないか。種類によって味がそれぞれ違うんだから」

「だーかーらー、いくらなんでもそんなに細かくわかるのがおかしいってこと! あなたは昔から野菜の味にこだわりすぎよ!」

「そうかな」

「そうなの!」とメリアはずいっと顔を突き出し、今度は呆れた素振りを見せた。

「だいたい、お店で使ってる野菜の味にぶちぶち難癖つけるお客さんより、私みたいに美味しい美味しいっていっぱい食べるお客さんのが、作る側としても嬉しいでしょ。ねえ? えっと……フェリシタさん?」

 その勢いのまま同意を求められたフェリシタは、驚きつつも「え……ええ、まあ、そうねえ」

「あのね、料理を食べてもらった時、誰も中に入ってる野菜の蘊蓄なんて求めてないの。美味しい! 大好き! 最高! って食べてほしいに決まってるの。でしょ、フェリシタさん!?」

「ま、まあ、そうよねえ」

「シュテルが昔より大きくなって背も伸びて、私、すごくびっくりしたけど、変わったのはどうやら外見だけね。野菜ばっかり食べて育ったもんだから、こんな優男になったのかしらね」

「あ、なるほどね。それ面白いわ。シュテルは確かに、優男って感じする」

「でしょでしょ?」

「女の子みたいに色白だし。これで腕っ節は強いってんだから、ほんとわからないものだけど」

「そうそう、ほんとそう!」

 さきほどまで会話などほとんどなかったのに、彼女たちはみるみるうちに意気投合。女性二人に目の前で優男と評されるのは……これも褒め言葉ではなく、もちろん皮肉なのだろう。

 それでもシュテルは反論などしない。二人の弾む会話を横に、静かにスープをつつくのみだ。

 やがてメリアの空腹が満たされると、フェリシタは思い出したように

「あ、そういえば服だったわね。じゃああたし、ちょっとそっちの用意してくるから」

 と告げて、店の奥へと下がっていった。



 フェリシタが戻ってきたのは、ちょうどシュテルがスープを一杯食べ終えたあとだった。

 手にしていたのは、彼女が以前に着ていたという白いブラウスにベージュのエプロンスカート、さらにその下に着る簡易的なコルセットやペティコート。ついでに薄い革の靴。いずれも使い古されてはいたが、状態は非常にいいものだった。

「あの、確認だけど……本当に、貴族のお姫様に着せるような服じゃないのよ」

 初めのうち、フェリシタはそう言って渋い顔をしていたが、一つ一つメリアに着せていくにしたがって、しだいに手のひらを返した。

「……あれ? 案外、わからないものね。容姿は変わらず美人なのに、急に野暮ったく見えてきたわこの子」

「でしょう?」

 なぜか得意げに返すシュテルに、フェリシタは頷く。

「うん。これなら十分、街娘で通用するわよ。まさにあれね、貴族にも襤褸、ドレスは美を作らず、みたいな」

「彼女はもともと、あまり貴族っぽくないからね。着飾ったそとみを剥げばこんなものだよ」

 それを聞いてメリアは「え? 私、今、馬鹿にされた? 不敬罪にする?」と割り込んだが。

「はは、まさか。下々の民に寄り添える素晴らしい姫君だって意味だよ」

 とシュテルに難なく宥められていた。

「あ、そう?」と機嫌を直すメリアを見て「それでいいんだ」とフェリシタがこっそり笑う。

 そうしてメリアが立派な街娘に扮すると、シュテルとメリアは店の入口に立った。

 あてがわれた装いが新鮮で気に入ったのか、メリアは早くも通りの方に飛び出してエプロンスカートをくるくる宙に舞わせている。

「じゃあね、シュテル。よかったらまた寄って。あと、お仕事頑張って。死なないで」

「うん、ありがとう。このお礼はまた後日、必ず」

「別にいいわよ、気にしないで」

 食事の代金はいつもツケでまとめて払う。それとは別に、服に関してはおそらく返せはしないだろうし、かわりに今度、何か差し入れでも持ってこようとシュテルは思った。

「ねえ、それよりさ」

 その時、フェリシタが何やらくいくいっと手招きをしたので、シュテルは歩みを寄せる。

「シュテルがよくデートお断りの決まり文句で言ってた、昔の婚約者がーってやつ。あたしはてっきり嘘だと思ってたんだけど……あれ、あの子のことでしょ」

「まさか。どうしてそんな」

 シュテルは内心驚きつつも、平静を装って返答する。

 しかしフェリシタはまったく聞く耳を持たずに、うんうんと頷いていた。

「ただお国に送っていくにしては、甲斐甲斐しく世話焼いてるなーと思ったのよね」

「だから違うって言ってるのに」

「顔、耳まで真っ赤だけど?」

「えっ」

 シュテルは反射的に腕で顔を隠す。

「なーんてうっそー」

 直後、笑いながらそんな言葉が返ってくると、今度こそシュテルの顔は本当に赤くなった。

「シュテルって隠し事、上手だけどさ。でも、あの子と話してる時の、あんな幸せそうなシュテルの顔、今までに見たことなくて……だから、わかっちゃった、かな?」

 こうなるともうシュテルに逃げ場はなく、残されたのは苦笑して悪態をつくくらいのものだ。

「勘が鋭すぎる女性は、行き遅れるよ」

「あら失礼ね。女の勘を怖がる男のほうが、底が知れるというものよ」

 しかしフェリシタはなおも上手である。

 結局、シュテルは観念して笑みを作り、メリアのあとを追うことにした。

 愛しの彼女とよい旅を、と背中から小さな声が聞こえた。

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