09.Melia

 メリアが馬車の扉を蹴破って顔を出すと、外は既に夜明けだった。朝日の中、目の前では誰かがうつ伏せで倒れていたが、それは他でもない、さきほど自分を馬車の中に落とした男だ。

 表情を硬くしたメリアは慌てて這い上がり、近くに落ちている短剣を掴んで男から離れる。膝をついたまま両手で柄を握り、慣れない所作で切っ先を前へ向けて構えた。

 男はすぐさま刃物の音に反応して振り返り、その場で両手を上げて言った。

「待って待って。僕は、怪しい者じゃない」

「こんな時間にこんなとこにいて何言ってるのよ! 怪しくないっていうなら名乗りなさい!」

 男は少しだけためらったものの、やがて答える。

「名は……シュテルベル・ヨーク・フォン・アレイシア。ここへは、君を助けにきた」

「なっ……!」

 メリアは息を呑んだ。それは彼女にとって予想もしえない答えだったからだ。

「う、嘘よ! だって、あの子がここにいるはずない! だいいち、あの子の髪は黒じゃないわ! そんなに背だって高くないし、声だって低くないし、もっと……もっと女の子みたいに、可愛らしい子だったんだから!」

「かわ……いや、一応それは気にしていたんだけど……まあうん、今はいいや。色々あって髪は染めているんだ。背は伸びたし、声も、男はみんな変わるものだし、とにかく……」

 男は目尻を下げて苦笑いをしながらも、流れるような足運びでメリアとの距離を詰めた。そうして自身に向けられた刃を、巧みに指で挟み押さえて。

「これは、君が持つような物じゃないよ」

 男にしてみれば軽く接近しただけなのだろうが、メリアには縮地のようにさえ見えた。その後、短剣を奪われまいと引っ張るもびくともしないことに驚き、咄嗟の判断で頭を振りかぶって頭突きを繰り出すが、これも難なく回避されて、そのままぽふっと抱き留められてしまった。

「わ! ち、ちょちょっと、離して!」

 メリアは男を突き飛ばして後ずさる。気づけばその手にもう短剣はない。

「そんなに避けられると傷つくな。そうだ、じゃあこれを見てほしい」

 たとえ何を見せられようと、かつての婚約者の名を騙る不届き者を信じることなどありえない。そう思うメリアだったが、男の胸元から取り出されたのは、燻んだ金のチェーンに提げられたロケットだった。。その中には、メリアのよく見慣れた真紅の花弁が収められている。

「これは、君と一緒に作った花冠に使われていたものだ。枯れてしまう前に一輪だけ、押し花にしてとっておいた。この花は、クロネリアでは名変わりの花。女王の御名を引き継いでいく花。そう教えてくれたのも君だ。だから君が無事ルティアに戻って女王に即位したら、これは君の花――メリアの花になる。だよね?」

 そうして語られたのは、メリアの他にはこの世でたった一人しか知るはずのない記憶だ。脳内で急速に、五年分の時が巻き戻っていく。あの日、メリアのあまりの不器用さを見かねて一緒に花冠を作ってくれた彼。忘れるべくもない、その、たった一人の彼の名は――。

「えっ! シュテルベル!?」

「うん、僕だ。ルティアにある王宮の川辺で、君と初めて出会ったシュテルべ――るぁ!」

 驚いて大声を上げたメリアは、ほとんど同時に目の前の男に――シュテルベルに飛びついた。

 今や彼の身長は、メリアより頭一つ分ほど高い。それゆえメリアの頭が見事に顎を直撃した。結果、メリアが上からシュテルベルを押し倒すような形となる。

「嘘……ねえ、ほんとにシュテルベル? ほんとのほんとにシュテルベル? 信じられない!」

 そう叫びつつ、至近で彼の顔を見つめるメリアは感じていた。

 美しい蒼穹を思わせる両の瞳。雪のような白い肌。一見は別人でもよく見れば確かに、彼に相違ない。ひとたび確信してしまえばその体温さえ、記憶と重なる気がしてならなかった。

 さきほどまでは心の底から疑っていたのに現金なものだ。しかし逆に言えば、あのロケットの中のものは二人にとってそれほどに、疑いなく信じられる絆の証に違いなかった。

「私、アレイシアがなくなった時に、あなたも死んだって聞かされて……だから、それで……」

「いや、いいよ。僕もだいぶ男らしくなった自覚はあったからね。まあ本当は、そのうえで一目で気づいてくれるっていう、感動の再会が理想だったんだけど」

「無茶言わないでよ。そんなにまるっきり変わっておいて」

「メリアはほとんど変わってないのにね」

「うるさいわね。あなたに比べたらそりゃそうでしょうけど……あんまり馬鹿にすると不敬罪でしょっぴくわよ」

「ははは。ほら、そういうところもね」

 唇を尖らせるメリアを見て、シュテルベルは小さく笑うと、さらさらと風に流れるその真紅の髪に手で触れた。

「でも、そうだ。昔よりちょっと、伸ばすようにしたんだね」

 もちろん五年も経ったのだから、シュテルベルほどではなくても、メリアだって少しくらいは変わったのだ。ほんの少しだけ賢くなって、ほんの少しだけ気品を身につけて……そうして、ほんの少しだけ、普段の髪も長くなった。男児のような短髪から肩口まで伸びたその髪の分だけが、ほとんど変わっていないメリアの、少女としての成長だ。

「ひとまず、君が無事でよかった」

「そんなっ……私だってよかったわよ! あなたが生きていてくれて、すごくよかった!」

 驚きと安堵からか、メリアは顔を歪ませて、シュテルベルの胸に額を押しつける。

「うんまあ、そうだね。どうにか生きてる」

 しかしシュテルベルは、そこで声のトーンを一つ落とした。

「ただね、さっきは君に思い出してもらうためにああ名乗ったけれど、僕はもう、王族として生きてはいないんだ」

 シュテルベルは話した。侵攻を受けたアレイシアの城で、家族と別れ単身、戦火から逃れた経緯を。そうして出会ったヴォルテール侯爵に拾われ、今日まで秘密裏に仕えてきたことを。

 かつての身分を、その身以外の全てを捨てて、今はただ一人の男として生きていることを。

「改めて、今の僕の名前はシュテル。これからは君にも、そう呼んでほしい」

「シュテル……」

 彼が頷く。その名には、国も王家も、もうありはしない。過去をその身から切り離し、まったく別の存在になる。つまるところ、人が名を変えるとはそういうことだ。

 メリアには推し量れようはずもないその覚悟。けれど彼女は、様変わりしたかつての婚約者の真摯な蒼眼に見つめられて、知らず知らずのうちに頷いていた。「ええ、わかったわ」と。

「ありがとう。じゃあこれから、君をルティアへ送るよ。とはいえ、見ての通り馬車はこんなだし、馬は逃げてしまった。本来なら街道沿いまで歩いて足を捕まえるところだけど……今回の君の誘拐を企てたのはグレイスターだ。手広く網を敷かれている可能性は十分にある」

「グレイスターって……ガイオンの宰相をしているあの、ルーファス・グレイスター!?」

 メリアは顔を上げる。さすがの彼女でも、隣国の実質的最高権力者が主犯と言われれば、その危険性が想像できないはずはない。

「そうだよ。だからここからは、いったん国境を越えてガイオンの方へ行こうと思う。この森を抜けてすぐに街があるんだ。そこは僕の仕えるヴォルテール卿の領地で、いくらかのつてもある。安全に態勢を整えられると思うんだけど……えっと、不安、かな?」

 少しでもクロネリアから離れることに、不安がないと言えばもちろん嘘になるだろう。それでも、幼くして既にとても賢かった彼のこと。きっと今は、もっとずっと、聡明だ。

 そんな彼の言うことなら、大丈夫。信じられる。

「ううん。全然、不安じゃない。だってあなたは、私の騎士になるって言ってくれた人だもの」

「はは、そうだったね。ありがとう」

 心からの信頼が浮かんだメリアの表情に、シュテルは曖昧に笑って頷く。

「じゃあ、方針は決まったね。ところでメリア、さっそく一つ、お願いがあるんだけど」

 その遠慮がちなシュテルの言葉に、メリアは元気よく「ええ、何かしら?」と答えたが。

 すぐに赤面することになる。

「とりあえず、僕の上から退いてくれると嬉しいな」

「……え?」

 メリアはもう随分と前から、シュテルを仰向けに押し倒したままだったのだ。

 もちろん、彼女はすぐに飛び退いた。反射で一発、シュテルに平手を飛ばしてしまったが。

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