08.Ster

 クロネリア王国王都ルティアから日中をかけて北上したのち、少し西に逸れると、ガンオン王国との国境線に差し掛かる。そこら一帯には『バナムの森』という大森林が広がっており、日の高いうちは狩りなどが行われることもあるが、夜になれば人はほとんど立ち入らない。ゆえに密輸や亡命、人攫いの類が隠れ蓑にすることはしばしばある。この時間帯、月明かりは唯一の秩序の番人たりえるが、生い茂る樹々はそれすら容易に阻んでしまう。

 狼の遠吠え、蝙蝠の羽音。それらに混じって馬の蹄鉄と車輪の回る音がした。人よりもむしろ獣にこそ踏み固められたであろう悪路を、緩い速度で音を殺し、一台の馬車が走っている。

 シュテルはそれを、死角である樹枝の上から見下ろしていた。

 随分と古めかしい小型の箱馬車だ。窓はあるが内側から潰されていて、車内はまったくうかがえない。御者の男は暗い道先を照らすためか、カンテラを手に直接、馬の背に跨っている。

 そして馬車上部の荷台にも、影が一つ。闇の中でさえいっそう際立つ黒いドレスを纏った女が、長傘を差して淑やかに座っていた。

 異様な一行だ。まずもって、深夜に馬車など走らせている時点で、後ろ暗い連中であることは疑いない。

 さらにシュテルが一目見れば、女の素性はすぐにわかった。グレイスターによる刺客……その姿は、かつてアレイシアの城で遠目に見た時から五年の月日を経てもなお、まったくと言っていいほど変化がない。

 事前の情報に間違いはなかったようだ。とすれば、あの馬車の中にいるのは――。

 やがて一行が、シュテルの足場としている枝の直下に差し掛かった。

 シュテルは長外套のフードを目深に被り、腰の短剣二本を両手に携えて宙を舞う。

 さて。もしこれが簡単な仕事なら、初手で女を無力化して、馬車を止めれば解決だ。御者は単なる雇い人だろうからどうとでもなる。けれど、そんな楽観が通用すると思えるような生き方を、シュテルはこれまでしてこなかった――残念ながら。

 荷台目掛けて降下したシュテルが着地するよりも早く、女もその気配を察知する。瞬時に側方へ飛び、こちらの第一撃を回避した。

 そのまま樹々の陰に姿をくらましてしまったので、シュテルは次なる行動に出る。馬と車体を繋ぐハーネスを切断し、続いて前輪を片方脱落させる。すると馬車は残った慣性で横転した。

 視界の隅では驚いた馬が大きく前足を上げていななき、森の奥へと逃げていく。投げ出された御者が地に落ちると同時にカンテラの灯りも消え、周囲は闇一色に包まれた。

 直後、シュテルの首筋を刃物が襲った。

「ごきげんよう。死んでください」

 それはまるで鈴の鳴るような玲瓏な声だった。咄嗟に身を翻して女のナイフから逃れなければ、耳にすることもなかっただろうが。

 シュテルは後方へ飛び、距離を取って、女と馬車との中間に立つ。あとを追うようにナイフが三本放たれたが、全て右の短剣で弾き落とした。

 半身で構え、相手を正面から見据えることはせず、逆手に持った左の剣身に鏡のように映してその姿を確認する。女の目を直接見ないためだ。

 そしてフードを深く引き寄せて視線を切り、慎重に出方をうかがった。

 闇の中、一点光るように美しく、それでいて意識していなければすぐに見失ってしまいそうなほどの希薄な存在。いるのにいない。いないのにいる。

 そんな印象の女はシュテルの前ですくっと背筋を伸ばし、閉じた長傘の胴を掴むと、一気に真横に引き抜いた。

 露わになったのは、鋭い細身の刺突剣――この女の纏う、触れるもの全てを刺し貫くがごとき鋭利な美を、そのまま刃としたような得物だ。

 女は恭しくスカートの裾を摘み、片足を後方へ下げて膝を曲げ、カーテシーなどしてみせる。

 そうして屈めた膝を勢いに変換し、突っ込んできた。

 構えられる刺突剣を、シュテルは左の剣で受けようとする。

 瞬間、目の前に黒い大円が咲いた。

 傘だ。女の刺突剣の鞘となっていた長傘が、前方を遮るように広げられたのだ。

 さらにその奥から傘布を貫いて刺突剣の先端が襲ってくる。相手の動きが見えない中、一撃、二撃を弾いて防ぎ、三撃目はあわや右肩を貫かれそうだったが、一歩後退してかわしきった。

 シュテルは大きく横凪に傘を切り払う。しかしそこに女の姿はない。

 女は斬撃と同時に姿勢を低くしており、下から鋭い蹴りを放った。ブーツ裏の鋭利なヒールが、シュテルの前髪をちりっとかすめる。

 続いて女の足が空中で反転。今度は足先が脳天目掛けて落ちてくる。女のブーツは先端にも鋭利な加工が施されていて、まともに食らえば即死だろうと思われた。

 シュテルがこれを両手で受けると、女はそのまま腹筋で起き上がり、体重を預けて巻きつくように首筋へ。その手がヘッドドレスの装飾から引き抜いた金属の針でもって、頸動脈を襲う。

 この女、どうやら身体の柔らかさが尋常ではない。でたらめな体勢からでたらめな角度で、的確に急所を狙ってくるのだ。

 シュテルは驚きつつも身を転がして攻撃から逃れると、起き上がりざまに一歩踏み込み、逆袈裟で勢いよく斬り上げた。

 その剣先が、女の顔を覆っていたヘッドドレスのベールを斬り裂く。垣間見えた肌はまるで陶器のように滑らかで、暗い森の中でさえ光るように青く白い。

 女はシュテルとの距離を保つと、腰までゆうにある長い髪を右手で抱えるように引き寄せた。

「なんと恐ろしい太刀筋でしょうか。衣服は替えがきいても、髪はそうはいかないのですよ」

 シュテルは再びフードを目元まで引きつつ答える。

「放っておけば、どうせまた伸びると思うけど?」

「おや、いけませんね。殿方がそのようなお考えでは。この髪は、我が主様の言いつけで、切らずにおいてございます。そして、これを一度も傷つけられたことがないという事実が、わたくしの無敗の証です」

 女は、髪をゆっくり大事そうに指ですくと、ぱっと払って姿勢を正す。

「それにしても、一度もこちらを振り向いてくださらないなんて、つれないお方でございます」

 そう口にする女の前で、今もシュテルの視線は自らの剣身に注がれている。もちろん反射を介して女の姿を見ていることに変わりはないが、女はそれでは不満のようだ。

「このような裏家業には似つかわしくない、美しいご婦人ということはわかっているよ。ご尊顔を直接拝見できないのが悔やまれる」

「でしたら……よろしいのですよ、直接ご覧になられても。幸いにもベールは今、貴方様がその剣でお取りになられました」

「すると途端に視界から消えるんだろう?」

 尋ねると同時、鏡像の女が眉をぴくりと動かしたのが、シュテルにはわかった。

「知っているよ。お前は目を見ると突然消えるんだ。外見とは反対に、その力は殺しや潜入にはもってこいのものと言える」

「……もう既に、ご存知でしたか」

「有名だよ。その筋ではね」

 女がゆらりと一歩踏み出す。再びシュテルと刃を交えようというのだろう。

 しかしその時だ。馬車から離れた道の隅で、草葉の音が小さく鳴る。

「……失礼」

 女は素早く身体を翻してそちらへ飛んだ。

 物音の正体は、失っていた気を取り戻した御者だ。その御者はシュテルたちの争いを見て、半ば混乱に喘ぐように逃走を図ったが、駆け出そうとしたところに真上から女が降ってくる。

 そして一閃、首を刺突剣で貫かれて地面に沈んだ。ただ一つの悲鳴もなく、あっけなく。

 それは瞬き一つのうちに見逃してしまいそうなほど、刹那の間の出来事だった。

 けれどシュテルは、目を見開いてその光景を見ていた。

 声音にわずかな驚きと糾弾を込めて、問う。

「……なぜ殺した」

「なぜ、というのは……どういう意味でございましょう。この仕事は、他に知れてはならないものですので、全てが済めばどのみち殺す手筈でした。しかしお逃げになるようでしたので、今殺しただけのこと」

 女は小首を傾げつつ答える。逆に、なぜ殺さないのかわからないというような口調だ。

「もちろん、貴方様も」

 さらに抑揚のない声で告げると、間髪入れずに右手でスカートをたくし上げ、ガーターベルトからナイフを二本引き抜ぬいて投擲した。

 シュテルはこれを弾き落とし、最短で距離を詰める。間合いに入って剣を振り上げると、しかし、女は自身の胸元に手を突っ込み、パフスリーブから何かを取り出して宙に放った。

 それは小さな袋だった。刺突剣で一刺しすると、中から粉末状の物質が飛び散る。

 毒薬だ。呼吸はもちろん、肌に触れるだけでも有害だろう。

 シュテルは外套の袖で口元を覆い、やむをえず真後ろに距離を取る。

「あの御者は、思うに普段からまともな商売をしていたわけじゃないんだろうけど……にしても、お前に雇われて災難だったな」

「いえ、そうでしょうか。あのお方、報酬を全額先払いすると伝えた際には、とても喜んでおいででしたよ。額としても、死出のたむけには十分なものであったかと」

「随分な言い草だ。まあ、どうせ死人に口はないか」

 無論、御者本人に語らせれば見解はまったく違うだろうが、それを聞く機会はもうない。

「誰だってあんな死に方をすれば、悲しむ人の一人くらいはいるだろうに。お前は明日にでもなれば、どうせ忘れてしまうんだろうけど」

 女は数秒の直立を経て、浮遊するようにつーっと風上に回ると、接近して刺突を繰り出す。

「いえ、わたくしは……この手で殺したお方のことは、一人たりとも忘れません」

「どうだか」

「断じて、偽りはございませんよ」

 シュテルが反撃すると一度距離を取るものの、数秒の静止を挟んですぐにまた前進してくる。

 刺突剣を用いた戦法上、基本の攻撃はほとんど突きだ。点の攻撃は範囲が狭く、動きさえ読めれば容易に回避できる。

 ただ、裏を返せば動きが読めなければ対応に苦しむ。

 この女は緩急が独特で、もっと言えば異様だ。止まっていれば氷像のようにリズムがなく、動いていれば煙のように掴み所がない。呼吸に伴う上下運動や、左右への重心の移動が極端に少ないのだろう。まるで生命を持たない人形を相手にしているようでもあった。

 それでもシュテルは、持ち前の反射神経で戦況を拮抗に保つ。視線の交差を避けるために相手を直視せず戦っていることも考慮すれば、十分に離れ業と言えた。

 女が慣れない様子で口を動かすのも、きっと、それゆえなのだろう。

「忘れぬといえば……わたくしはこの手で殺し損ねたお方のこともよく、記憶してございます。貴方様の身のこなしは……そう、今は亡きアレイシアの最後の王に、とても似ていらっしゃる」

 するとシュテルは一瞬だけ身体を強張らせ、かわすべき攻撃を無理に受けて一歩退いた。表情も、少し硬くなっていた。

「ああ、やはり……では貴方様が、五年前のあの日、アレイシアの城で殺して差し上げられなかった、末のご子息」

 距離を取ったまま、仄かに笑む鏡像の女を注視する。

「ただお見受けするに、かの凄まじき戦神アレスの権能は、継いでいらっしゃらないようですね。もしその身にあれをお宿しであったなら、お父君のようにもっと……」

「もっと、なんだ」

「お強いかと。何せあの時は、こちらも幾人もの手勢でお相手をし、それはそれは多くの血を流しながらやっとのことで討ち取ったのでございます。最後はわたくしが後ろから、こう……」

 女は手のナイフを目線ほどの高さに保ち、背後から誰かの首を掻っ切るような仕草をした。

「お父君やお母君はもちろん、兄君たちや姉君までもが、あの場で決死で戦っていらっしゃったにもかかわらず、貴方様一人がそこから逃げて……今日まで生き残ったのですね」

 淡白だがいやに流暢なその語りが、多かれ少なかれシュテルを不快にさせたことは間違いない。戦いの最中にしてはやや不自然なほどの長い無音を経て、しかしシュテルは、ゆっくりと首を横に振る。「僕も」と、そして妙に穏やかな声音で言った。

「僕も……あの日死んだよ。家族や、国のみんなと一緒にね」

 きょとんと、あどけなく首を傾げる女。けれどやがて、得心したような様子を見せ。

「なるほど。そういうことにして、全てお捨てになられたと。確かに見違えるほど背も伸びて、美しかった白銀の髪も今や真っ黒。アレイシアの民には到底見えず、別人のようでございます」

「ああ、そうだよ。お前に殺されて、僕は別人になったんだ」

「それでもかつてのフィアンセだけは見限れませんか?」

「っ……」

 ただしその質問には、言葉が詰まった。あらかじめ予想はしていたとしてもだ。

「いつでしたか、クロネリアの王宮の庭で仲睦まじく踊っていらしたお二人は、とても可愛らしゅうございましたね。その記憶が、貴方様を今日ここへお呼びしたのでしょうか」

「……ただの仕事だよ。お前の主人は勝手が過ぎるんだ。止めたくもなる」

 そうしてようやく絞り出した声は、やはり一段低かった。仕事だろうが私情だろうが、どちらにせよこの場は譲れない。

 権能を宿していた父と比べられれば立つ瀬はないが、それでもシュテルは、幼くしてその父からあらゆる武芸を教えられて育った身だ。加えて今や、体躯にも恵まれ上背も力もある。

 対するこの女、身のこなしは脅威だが、腕は細く力はない。その技術は極端に暗殺向きで、不意打ちでなければ対処できる。このまま夜明けまで馬車を守りきることくらいは可能だろう。

 シュテルが冷静さを取り戻し、そう考えていた時だった。

 横転し上を向いていた馬車の扉が、突然、派手に開け放たれたのは。

「……っだあ! やっと開いたわね、もう!」

 現れたのは件のフィアンセ――メリアだ。

 その音に、シュテルと女はまったく同時に反応した。

 違ったのは配置だ。シュテルが驚いて振り返っている間、女は既に前方へと駆け出していた。

「これはこれは、丸二日は目を覚まさないと、薬師太鼓判のお薬だったのですが……いったいどういうお身体をしていらっしゃるのでしょう。しかも馬車の扉を蹴破っておなりとは」

 扉から這い上がろうとするメリアの眼前。女は優雅にふわりと降り立ち、見下ろすように。

「お姫様、少々ガサツがお過ぎのご様子で」

「は…………はぁああああああああ!?」

 突如出現した黒い影にメリアは一瞬こそ黙したものの、やがて叫んだ。

「あ、あなたねえ、誰だか知らないけどいきなり不敬なこと言ってんじゃ――」

「メリア、そいつの目を見てはいけない!」

 遅れてその場に至ったシュテルが、二人の間に身体を割り込ませる。しかし。

「え、目?」と素っ頓狂は声を上げたメリアはすぐにまた叫んだ。「あれ? 消えた!? 何今の、幽霊!?」

 遅かったようだ。

 ただ、かく言うシュテルも飛び込んだ拍子に女の目を直接見てしまっていた。その灰色の瞳が発した鈍い光に、視界一面が覆われる。

 するともう、そこに女はいなかった。

 いや、いるにはいる。確かにシュテルの前に今も存在していて、構えた剣は力で押し返されている。だが見えないのだ。虚空と鍔迫り合いなど、わかっていても妙な気分にさせられる。

「ふふ……ようやくわたくしと目を合わせてくださいましたね。さきほどまで、あれほど気をつけておいででしたのに……そのガサツなお姫様に、随分ご傾倒のようです」

「わかっていないね。メリアは少しガサツなくらいが可愛いんだよ」

 至近から聞こえる声に向かって、シュテルはそう言い捨てる。

 それからゆっくりと後退し、扉から上半身を覗かせるメリアを背中で押し戻していく。

「メリア、久しぶり。綺麗になったね。本当は再会を喜びたいところだけど、でも今は……」

 外に出てこられては困るのだ。

 対してメリアは「は? ちょっと何するの」と抗議し「ねえやめてあなた誰」手足をばたつかせて喚いたが最終的に「てかほんとに待っ、あっ!」と残して馬車の中へと落ちた。

「まあ、貴方様の風変わりなご趣味についてはいいでしょう。ともかく、これで貴方様の目はしばらくの間、わたくしの姿をとらえられない。もちろんわたくしとともに動くこの剣も……そしてこのナイフも……!」

 シュテルは合わせた刃から咄嗟に気配を感じ取り、相手の右手を弾くように蹴りを放った。この女……ナイフと言いつつ今手を伸ばしたのはパフスリーブだ。握っていたのはおそらく毒袋。ここで放られてはたまらない。

 女は蹴りの勢いを逃すように、後ろに飛んで馬車から降りた。

 その間にシュテルは扉を閉じつつ、考える。

 思えばシュテルは過去にも一度、アレイシアの城で女の目の光を見たことがある。あの時は知りえるはずもなかったが、女は何も消えたわけではなく、今と同様に姿を見失っていたに過ぎないのだ。例えるなら、目が強い光に眩むように、網膜が強い刺激に麻痺するように、女の姿を結ぶ光だけが認識できなくなってしまう。

 ゆえに剣身に映る鏡像も、もう視認できない。

 しかしだ。そもそも今日再びこの女と邂逅し、その姿は、ついさきほどまで見えていた。

 つまり女の光の影響は永遠ではないのだ。

 それどころか、状況を優位と見たのか今しがた女は口を滑らせた。「しばらくの間」と。

 思考を妨げるようにナイフが飛んでくる。何もない空間から飛来するそれは視認できる。どうやら女の手から離れたものは即座に見えるようになるらしい。

 では、このままいくらか時間を稼ぐか? いや……違う。それでは駄目だ。

 たとえナイフはかわせても、姿の見えない相手の視線をかわすことまではできようはずもない。おそらくは今この瞬間でさえ、シュテルは自覚なく女の目の光を断続的に受け続けている。とすればこの先どれだけ経っても、この場で女の姿を見ることは、やはりかなわないだろう。

 ならば対する行動は一つ――シュテルは両の瞼を閉じた。

「おや……どういう、おつもりです?」

「言っただろう。お前の手の内はもうそれなりに知れているんだ。こうして術中にはまってしまった場合でも、善後策くらい講じてあるさ」

 まあ本音を言えば、善後にして窮余の策だが。

「なんと、ふふ、素晴らしい策略ですこと」

 女は目を細め、再び接近して剣撃を浴びせてくる。これまでは凌ぎきれていた攻撃だが、それが徐々に、しかし確実に、シュテルの身体に傷を負わせ始める。そのうえシュテルは、メリアのことを思えば馬車の上から動けない。これではいい的だ。

 しかし、それでも……どうしてか、決定的な一撃が入らない。

 そのことに、ややあって女も気づき始めた。たび重なる攻撃、接近と後退を織り交ぜての翻弄、撹乱。繰り返されるその過程で、本来はもう幾度も仕留めきれているはずだと、考えたかもしれない。何しろシュテルは目を閉じているのだから。

 だが劣勢必至のこの戦法は、シュテルに一つの僥倖をもたらしていた。

 女の攻撃はひどく正確だ。狙うべき時に狙うべき部位を的確に狙ってくる。それを読み辛くする独特の緩急が厄介だったが、あえて視覚に頼らなければその限りではないのだ。

 女の顔から、いつしか笑みは消えていた。その端正な無表情がわずかに焦れて。

 やがて……女のナイフの残数が尽きた。

 東の空が白み始める。

 その時シュテルの耳に届く足音が、明らかに変化した。女は半円を描くように右から回り込み、馬車の端に足をかける。そこから身体を捻ってさらに跳躍、近場の樹の幹に強く足裏を打ちつける。

 女はとっくに理解しているはずだ。奇襲ではない急所への攻撃は通らない。しかしそれ以外の部位への攻撃では、決定打に欠ける。これを覆すには、通常ではありえない角度から、また、仮に防がれたとしても多少強引に刃を相手に届かせる。そういう攻め手を打つ必要があると。

 つまりは――上だ。

 そしてシュテルは両目を開いた。天へと向かって。

 思惑通り、しばらく視界を閉ざしていたことで視界は正常に戻っていた。黒々とした樹々の葉と空を背景に、刺突剣を構えて垂直に降ってくる女の姿が鮮明に映る。

 もちろんそれは一瞬でしかない。シュテルはまたすぐに光を両目に受けてしまう。

 けれど一目見たならば、もう十分だ。

 シュテルは、刺突剣の切っ先が至る空間に二つの短剣を十字に構え、鍔まで受け流したのちに手放す。続いて女の左手首を掴んで捻り、背後へと飛び上がる。そのままのしかかるように関節を極め、無力化を狙う――はずだったが。

 接地の直前、女は刺突剣を捨てて自ら肩関節を外し、シュテルの拘束からその身を抜いた。

 少しして、女が着地したと思われる場所で土が弾み、たたっと数度、足音が離れていく。

 女の剣はシュテルの足元。さきほどの組手も、ギリギリで逃げられはしたが手応えはあった。左肩は相当に痛むはずだ。

「……夜明けの鐘が、聞こえてくる頃合いですね」

 にも関わらず、不気味なほどにその声は涼しい。

「鐘が鳴れば舞踏会は終わりと、相場が決まっているものだよ」

「ええ、非常に残念でございます。わたくしは、まだまだ貴方様と踊っていたかったのですが……とはいえこの腕では、貴方様のリードも務まりません」

 女の声はゆっくりと遠退いている。まるで森に差し込む朝日から逃れるように。

「今宵はこれにて」

 そうして最後に一言残すと、薄れゆく闇に溶けて、完全に気配を消した。

 シュテルは全身を弛緩させて膝をつく。

 くしくもその時、彼が足を置いている馬車の扉がごとごとと鳴り出した。気に留める間もなく、それは次第に浮き上がり……。

「もうっ! なんでまた開かないのよ、このっ!」

 勢いよく大口を開いた。べし、と上に乗っていたシュテルを、ひどく乱暴に押し退けて。

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