07.Melia
クロネリアの王宮内、王室礼拝堂の最奥には、聖母アリアと祖神クローネの大きな二つの像がある。白石の床、荘厳な天井画、万華鏡のごとき色ガラスの窓。
それらに包まれた静謐な空間に、メリアはいた。
真紅一色の髪は肩口で美しく切り揃えられ、目元は勝気な印象を残しつつ淑やか。頭から薄いベールを被り、良質な白絹のローブを纏い、跪いて固く口を結び、両手を合わせ祈っている。
それはすぐ隣にいる母のローザも同じであった。
かれこれ丸一日近くになろうか。二人がこの礼拝堂に入ったのは早朝だったが、日付を跨いで、今はもう深夜過ぎ。未明とも言っていい頃合いだ。
その間、ずっと言葉もなく、ただひたすらに祈りを捧げ続けている。
窓から差し込む光はなく、物音も人の声も聞こえない。
今日は、メリアの誕生日だ。彼女はつい今しがた、無事に齢十五を迎えた。日が昇ればクロネリア王国の最大行事である、新女王の即位式が執り行われる。
半神の子は、生まれて十五年が経過してから最初の日の出の瞬間に権能を受け継ぐとされている。これに際してクロネリア王家では、新たに半神となる女が母とともに礼拝堂へこもり、一昼夜の祈りを捧げるという決まりだ。
そうして授かるは、未来視の権能。継承の瞬間には、歴代の女王たち皆が、クロネリア王国の未来を予見したという。
ある女王は国の繁栄を促すための革新的な為政を。ある女王は国を襲う大地震から民を救い出す手立てを。また、かつて激動の時代を終わらせた三国同盟の締結についてももちろんのこと、この例に漏れなかった。
式中、こうした未来視が新女王の口から直接、即位演説として告げられる。
告げられる未来の禍福は重要ではない。なぜなら国民は、強く信じているからだ。たとえどのような未来だとしても、次代の女王はそれを見たうえで、国をよりよい道へ導いてくれると。
捧げられたその信頼こそ、権能とともに継承される王位の証に他ならない。
やがて礼拝堂の高窓が鮮やかに色づいた。地平の彼方から、朝の陽光が延び始める。
瞬間、メリアは感じた。自らを半神たらしめる、人智を超えた力の奔流。
呼応するように開かれた瞳が、強く、真紅に煌めいて。
視界が、変わった。
目の前が一面青い。ところどころに白い綿のようなものが浮かんでいる。おそらくメリアは空を見上げていた。
吹き抜ける風と、他に並び立つ物のない様子から、そこがかなりの高所だとわかる。見知った王宮や王都にある景色ではない。
やや遠くに聞こえる歓声。手を伸ばせば届きそうなほど近くの青空。
メリアは大きく声を張って宣言する。
「今日、この日をもって、クロネリア王国はその長き歴史に幕を下ろすこととなりました。ならば私、女王メリア・ランカストレ・ド・クロネリアも、すべからく死すべきでしょう」
直後に眩しい太陽の光を受け、頭上できらりと光る何か。
それが降るように迫ってきて――。
唐突に、終わった。
おそらくは一瞬の出来事だった。気づけばメリアは今までと同じように礼拝堂で跪いている。
いつからか止まっていた息を短く吐き、ようやく遅れて理解する。
さきほど見たものがきっと、権能による未来だ。
見た、というと少しばかり正確性に欠ける。そこには音もあり感触もあった。あたかも自分が本当にその場にいるかのような、未だこの世界に存在しない出来事を、直接脳髄で経験するかのような、そんな現象にさえ思えた。
そうして垣間見た未来の中で、自分はなんと、言っていただろう。
胸の内から困惑が湧き上がってきて、メリアはたまらず祈りの姿勢を崩してしまう。両腕をだらりと下に落とし、肘から手の甲まですーっと、玉の汗が一筋伝った。
隣のローザがこちらを振り向く。
「今、私の中のクローネ様が、あなたの中へと移っていったわ。この瞬間から、あなたは半神となった。それで、どう? 未来は見えた?」
メリアは視線を床に向けたまま「……ええ」と答えた。「少し、だけど」
「じゃあ、ひとまずは安心ね。どんな未来だったか、教えてくれるかしら?」
問われて数秒、黙していたが、やがてゆっくりと口を開く。
「お母様……その前に私から、聞いてもいい? お母様も権能を受け継いだ時、ここで初めて未来を見たのよね。その時は、何を見たの?」
質問をそのまま返されたローザは少しばかり戸惑ったようだが、ほどなくして語り始める。
「……私が見たのは、クロネリアの王宮の中庭にたくさんの貴族たちが集まっていて、その輪の中で、女の子と男の子が踊っている光景だったわね」
「それって……」
メリアにも心当たりのある話だ。
「ええ。それは五年前、三国同盟会議の園遊会で、あなたがアレイシアの王子と踊っているところだった」
「……じゃあ、お母様がここで見た未来は、ちゃんと当たっていた……ってことなのね」
「そうね。私の知る限り、権能の未来視が外れたことは一度もないわ」
聞いて、メリアは再び口を閉ざす。奥歯を噛み締め、眉根を寄せて俯いたまま、何度か声を発しようとしてはためらい……そうした逡巡ののち、ついに顔を上げてローザを見た。
「未来視で……私は、知らない場所にいた。それで、言っていたわ。クロネリア王国は終わる。女王の私は……死ぬべきだって」
言いながら、メリアは漫然と考える。突然未来視が途切れたのは偶然だろうか。あれが自分の死の瞬間だったからではないだろうか。ならば直前に見えた光は、ともすれば断頭の刃か、この胸を貫く鏃か。
ローザは、はっと息を呑んだ。あるいはメリアよりも、よほど衝撃的な表情を浮かべて。
「メリア……あなたはこのクロネリアの、最後の王になるのかもしれないわ」
「最後って、どういうこと……?」
「私たちの受け継いできた権能は、この国を築いた半神クローネ様の意思、そのものであると言えるわ。クローネ様の意思を身に宿し、クローネ様の見る未来を共有し、クローネ様の望む未来を実現する。そのための力なの」
ローザは続ける。精一杯の落ち着いた声で。
「そしてクローネ様はこの世を去る前、後世の女王たちが国を長く存続させ、民を導くことを望んだ。けれどその役目は永遠ではなく、いずれ来る王国の終わりとともに権能は消滅するのだと……そう言い残したそうよ」
メリアに向けた真剣な眼差しを伏せ、最後には静かにこぼした。「ついにその時が、来たのかもしれないわね」と。
目眩がするような話だと、メリアは思った。見開いた両目は漠然とローザを映してはいるが、はっきりと焦点を結ばない。
「ただ、これは王家でも代々、ごくわずかな者にだけ知らされてきた話よ。あなたも、おいそれと口外しないように。式の演説で告げる内容については……少し、考える必要がありそうね」
「……私……死んじゃう、ってこと?」
「それは……まだわからないわ。でも大丈夫。未来視が、実際に辿り着いてみたら想像とまったく違う状況だったということは、私の経験の中でもたくさんあるの。我らが祖神クローネ様を信じなさい。とにかく、あなたは今日からこの国の新たな女王なのだから、毅然として」
その時、礼拝堂の扉が開いた。王室付きの司祭が二人を迎えにきたようだ。
ローザは立ち上がって「行きましょう」と声をかけるが、メリアは視線を落としたまま呟く。
「あの、お母様……私、まだ……」
するとローザは司祭を見やり、少し考えてからメリアの肩に優しく触れた。
「……そうね。突然のことだもの、整理も必要でしょう。もうしばらく心を落ち着けて、祈っていくのもいいかもしれないわね」
そうしてローザは司祭とともに、先に礼拝堂から出ていった。
一人残されたメリアは、瞬きも忘れてただ、思う。
権能は、クローネの意思? 未来視は、クローネの望む未来? それを実現するための力?
ならば自分が王家の娘に生まれ、これからクロネリアの王となることも彼女の意思か?
この先、国の最後の女王として死ぬことも彼女の望みか?
そして忘れもしない五年前の今日……あの日、自分の騎士になると言ってくれた彼が、今、隣にいないことも……?
ああ、もし仮に……仮にそうだとするのなら、祖神クローネ――彼女を信じることなど、メリアには無理な話だ。この場で彼女の像を前に跪き、心から祈りを捧げることなど到底……。
やがてメリアは、音もなく立ち上がった。俯いたまま拳を握り、暁の光に照らされた祖神の像を見ることもなく、背を向けて足早に礼拝堂をあとにした。
二度目の未来視は、すぐに訪れた。
メリアは王宮の中央部へと延びる廊下を一人、歩いている。式典を目前に控えた王宮はやはり騒々しいが、祈りを捧げる彼女のためにと、礼拝堂の周辺は特別な人払いがなされていた。
その時、メリアの左の瞳が強く真紅に煌めいた。
見えるのは、普段からよく慣れ親しんだ場所。メリアが今まさに歩いている王宮の廊下だ。
平時よりも特に人の気配が遠ざけられた広い廊下のとある角を、やや駆け足の視界が曲がる。
するとその先には誰かがいた。人の気配など微塵も感じなかったはずだが確かに。
窓から差し込む朝日の中で、異様なほどに際立つ黒一色の、喪服のような装いの女がいた。
そこで意識は現在に戻った。
未来視はやはり一瞬だ。突如メリアの意識に割り込むようにして起こるこの現象は、その実、瞬きする間に満たない。
今、目に映る光景は、意識が未来視に切り替わる前とまったく同じで、そして今回に限っては、未来視の最初の光景とも同じだ。早足で進むメリアの数歩先は、左に向かって折れている。廊下は一本道だから、このまま歩き続ければその角を曲がることになるだろう。
これから自分が当然に取ろうとしている行動を未来視で見るというのも、おかしな気分だ。まるで自分が未来視に操られる人形のようではないか、とメリアは思う。そしてその人形の行き着く先は、おそらくは礼拝堂で見たあの未来。
しかし、かといって、ここには他に道がない。ついでに言えば、式典準備のため時間にも余裕がない。ならばいっそのこと窓から――いや。
短い思考ののち、メリアは緩めた歩調をすぐに戻した。権能の未来視は外れたことがないと母は言ったが、その信憑性を確かめておきたいという気持ちもあった。
やがてメリアが角を曲がると、はたして。
――本当にいた、黒い女が。
喪服のようでいてしかし華やかな、未来視と寸分違わぬ風貌で。
至近で見れば息をも呑む、神秘的かつ玲瓏な、その美しさに非の打ちどころのない妙齢の貴婦人。広がったドレスの裾からヒールを覗かせ、両手には肘上まで覆うロンググローブ。滝のように長くまっすぐな黒髪を彩るヘッドドレスからは、つややかなベールが延びている。
そしてそのベールの奥に、唯一色合いの違う、鈍い灰の瞳があった。
まるで鉛でできた鏡のようなそれが、次の瞬間、にわかに光を発したように見えて。
二、三瞬くと、女の姿がもう、メリアの視界から消えていた。
どこかへ立ち去った気配はなかったが、それでも。
直後、メリアは背後から口元に布を当てられ、無理矢理に何かを飲まされた。身体の感覚が徐々に徐々に遠退いていき、やがて視界は眩み、最後には意識を失った。
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