第二幕

06.Sterbell

 女がいた。

 正確には、いた、ような気がした。

 黒一色の、しかし妙に艶やかなフォーマルドレスに全身を包んだ、きわめて異様な雰囲気の女。それがアレイシア王国の王城にある石造りの階段に、ちらりと見えた。

 城の上階、シュテルベルの歩いていた廊下から見下ろせるその階段は、城門と屋内への入口を繋いでおり、どのような時も常に複数の警備兵が立っている。

 けれどシュテルベルの見ている目の前で、女は警備兵の間をいともたやすく素通りした。

 まるでそこには何も存在していないかのように、ただ一人の兵も気づかず、そして次の瞬間、女が遠く離れたシュテルベルを見上げると、途端にその姿が消失した。

 幻でも見たのだろうかと、シュテルベルは首を傾げた。数日をかけてクロネリア王国から帰国した疲れがまだ残っているのだろうかとも思った。

 直後、階段の警備兵のうちの一人が突然、血を流して倒れた。他の警備兵は動揺し、しかし辺りを見回しても襲撃者がどこにもいないことから、彼らの動揺は必然、混乱に変わった。

 そうこうしている間に、別の場所からも悲鳴が聞こえる。

 然るのち、姿の見えない凶刃が味方の裏切りであるとの憶測が生まれるのは、避けられない事態であった。兵たちの疑心暗鬼は、すぐに城全体に伝播した。

 すると、それを待っていたかのように城下の街に攻め入ってきたのがガイオン王国の一軍だ。

 戦火は瞬く間に城まで至り、混乱に乗じて警備の手薄なところから順々に突破される。

 シュテルベルが急いで広間に向かうと、そこには見たこともない表情の父と母が、複数の兵とともに立っていた。武器を手に戦々恐々と指示を出し、やがて到着した兄二人と、そして姉までもが加わって、皆が自らの意思で前線へ出た。

 しかしながら、シュテルベルだけは乳母に連れられて城を抜けることとなった。もちろんこれは両親の決めたことだ。彼らの中では、まだシュテルベルは守るべき幼な子だったのだ。

 そして逃走中、乳母は飛んできた流れ矢からシュテルベルを庇って深傷を負った。

 陰惨な血と煙が呼び寄せたかのように、空には暗雲が垂れ込める。

 それでもただただ逃げ続けた。ようやく城下の街外れに至った頃にはもう夜で、ほどなくして乳母は力尽き……振り返って見上げた城は、雨の中でも衰えることのない炎に赤黒く侵されていた。

「なんということを……」

 それは自らの口からこぼれ出た言葉だと、シュテルベルは思った。

 けれどすぐに違うと気づき、声のした方向を見やる。

 そこには一人の男の横顔があった。大きな馬に乗り、立派な鎧を着込んだ壮年の男だった。

 馬から降りた彼はやがてシュテルベルの視線に気づいたのか、すぐに歩み寄ってきて膝を折り、片手を伸ばし――。



 そこで、はっとシュテルベルは目を覚ました。どうやら夢を見ていたようだ。

 幼き日、唐突に訪れた平穏の最後。拭えぬほど脳裏に焼きついた悪夢のような過去の記憶だ。

 見回すと、灯りも暖炉もついていない部屋は暗かった。時刻はおそらく真夜中で、窓から見える景色は、祖国アレイシアのそれとは随分と異なっている。

 それもそのはずで、ここはガイオン領南西部に位置する、とある館の一室だ。

 シュテルベルが身を預けているベッドの他、椅子にテーブル、カーテンなど、調度品の質はよいが、元が客室用なのかどこか生活感に欠けている。

 ゆっくりと一息つき、夜目をきかせてブーツを履く。しばらくしてベッドを降りようとしたところで、扉の方から声がかかった。

「起きていたか」

 振り向いた先には夢の最後で見た――しかしそこからさらにいくぶん歳を重ねた相貌の男が、廊下から差し込む光を背負って立っていた。

「はい、ヴォルテール卿」と、シュテルベルが敬意とともに答えを返す。

 彼はジャン=ジャック・アルーエ・ヴォルテール侯爵。この館の主たるガイオンの貴族だ。

「何かありましたか。館内が、少し騒がしいようですが」

「ああ。ついさきほど、王城に遣わしている部下から報告が届いてな。グレイスターに動きがあったそうだ」

 グレイスター――ルーファス・グレイスター。それはガイオンの伯爵でありながら、現在は宰相という要職にある男の名だ。報告というのは、男が身を置く首都『シティ・オブ・ロールズ』の王城からのもの。しかもこんな真夜中にとなれば、急を要する内容であることは想像に難くなかった。

 そうした懸念によりシュテルベルの表情が陰るのを見て、けれどヴォルテールは別の解釈をしたようだ。

「……ん? どうした、気分がよくないか」

「ああ、いえ。そのようなことは」

 反射的にシュテルベルは首を横に振る。ただ、月光の下の彼の顔は異様なほどに白かった。

「また……夢に見たか。すまないな」

「何を、卿が謝ることではありません」

 それでもヴォルテールが目を伏せたまま不安げなので、シュテルベルはさらに続けた。

「もう、五年も前のことでございます。それに以前、卿がお話ししてくださったではないですか。あれはガイオン王国現宰相ルーファス・グレイスターの、独断の出兵だったのでしょう?」

「ああ……もちろん、それは偽りない事実なのだが……国内の反対を押し切ってアレイシアに侵攻しようとする奴を止められなかった私にも落ち度はある。その時、奴はまだ宰相ではなく、同じ国王の側近として、私こそが止められる立場にあったというのに……」

 五年前の、季節は今と同じ初夏。アレイシアの王城がガイオンに攻め込まれたのは、クロネリアで催された三国同盟会議の十日後であった。のちに言うこの『アレイシア侵攻』を指揮したのは、当時からガイオン王国国王の側近として勢力を拡大しつつあったグレイスター伯爵だ。

 会議を終え、いち早くガイオンに帰国した彼はほとんど独断で国王の許可を取りつけ、最小限の兵を引き連れて密かにアレイシア王国へ向かったのだという。そして城の中へと巧みに兵を忍び込ませ、内外から速やかに制圧した。

 ガイオンによるこの動きは、アレイシアとクロネリアの間に血縁という同盟以上の関係が築かれることを忌避しての即断だとも、かねてより虎視眈々と狙っていた計略だとも囁かれた。

 ただ、いずれにしてもこうした有事の際には三国同盟が効力を発揮するはずであった。一国が武力に任せた行為に走れば、残りの二国が手を結んでこれを鎮める。そのための同盟だ。

 しかしアレイシア侵攻に関しては短期決戦があまりに過ぎ、表立った戦争という規模に発展するよりも早く、事態が終結してしまったのだ。

 本来ならばクロネリアからアレイシアへ援軍が駆けつけるところだが、大陸の南方と北方に位置する二国間の兵の移動には、どう急いでも数日を要する。それを待つことなく、アレイシアの中枢である王城と城下の街の要所だけを一夜にして制圧したグレイスターの手腕は、まさに人の域を超えた神業とも言われるほどであった。彼が年長のヴォルテールを差し置いて国王より宰相の役を賜ったのは、この功績によるものだ。

 そしてこれ以来、ガイオンは明らかに二つの派閥に割れ始めた。

 グレイスター派とヴォルテール派だ。王の優秀な側近として双璧を成していた二人の貴族は、今や国政を二分する勢力それぞれの、象徴的存在となっている。

 そのような偉大な存在が自分の前で目を伏せている姿を見て、シュテルベルは真摯に言った。

「あなたは、敵地で拾った幼い私を匿い、こうして今まで育ててくださっているではないですか。それだけで十分、感謝してもしきれぬほどです。慈悲深き卿のお言葉だからこそ、私は信じているのです。真なる敵は、宰相ルーファス・グレイスター。そしてかの宰相の専横を止めうる存在は、ヴォルテール侯爵閣下、あなたをおいて他にはおりません」

 ヴォルテールは悔恨の滲む眼差しでシュテルベルを見つめると、自嘲気味な笑みを見せた。

「昔から思うが、お前は歳のわりに物分かりがよすぎるな。せめてもの罪滅ぼしと、そんなことを思ってお前を助けた自分が情けないくらいだ。結局お前を王族として生かしてやることはできず、秘密裏に部下として育てるのが関の山だった」

「よいのです。国が倒れた時点で、もとより王族として生きようなどとは思っておりませんでした。アレイシア王国とともに、家族とともに、王族シュテルベル・ヨーク・フォン・アレイシアは死んだのです」

 シュテルベルも小さく笑う。ヴォルテールとはまた違う、どこか割り切ったような笑みで。

「そして今ここに生きているのは、ただのシュテルという、一人の男でございます」

 そう、彼は今や王族ではなく、シュテルとだけ名乗るガイオンの民だ。

 素性を伏せ、アレイシアの生まれであるがゆえの白銀の髪を黒く染め、極力表の社会には出ずに、ヴォルテールの隠密の私兵として、仕事を請け負い生きているのだ。

 シュテルベルが――いや、シュテルが今日までこうして命を繋ぎ止めているのは、あの燃え盛るアレイシアの城下で、ヴォルテールに出会うことができたからだと、結果的には言える。

 かの侵攻でのグレイスターの目的は、アレイシアの民や領土をガイオンの配下とすること以上に、半神アレスより受け継がれし一騎当千の権能を世界から消滅させることにあったという。

 奴はアレイシア王家の全滅を目論んでいた。もしヴォルテールの庇護がなければ、寄る辺ないシュテルがいっとき難を逃れたところで、いずれは見つかり、殺されていただろう。

 それでも、やはり権能は消滅した。城で父王ヴォルフガングが殺された時点で、権能は長兄のヴィルヘルムに宿り、半神となったはずだ。そしてすぐにヴィルヘルムも死ねば、さらに次の子孫へ宿ろうとする。ただ当時のヴィルヘルムはまだ若く、ゆえに子はいなかった。

 継承する者がいなければ、権能は当然、消えるのみだ。それは時代が下るにしたがって姿を消してきた他の半神たちの例に漏れない、ありふれた最後とも言えた。

「……死してなお生きるか。アレイシアの戦士は、肉体だけでなくその心の強さも人一倍だな」

 ヴォルテールはゆっくりと顔を上げ、さらに続けた。

「ではシュテルよ。そんなお前に、ようやく仇討ちの機会が訪れたぞ。グレイスターは、明日クロネリアで行われる新女王の即位式に刺客を差し向けたようだ。これはおそらく、アレイシア侵攻において先駆けとなった例の女だ」

 シュテルの淡い空色の両目が、薄暗い闇の中で、はっと見開かれた。

「それが、さきほど届いたという報告の内容ですか」

「ああ。この女、なかなか表社会には現れんが、存在を認知している貴族たちの間では『行方知れずの影』、『殺人令嬢』、あるいは『グレイスターの亡霊』などと呼ばれているらしい」

「随分と、物騒な呼び名ですね」

「無理もない。何しろこれまでのグレイスターの悪行は、ほとんどがこの女によるものだそうだからな。わかっているだけでここまで言われるのだから、調べのつかんものも含めれば相当だろう。しかもこの呼び名、ただ単に恐怖を煽るためだけのものでもないようだ」

「と、いいますと?」

「女は、目にすると突然、消えるらしい。それこそ亡霊や影のように。そしていくつもの骸を積み上げていく……とまあ、どこまで本当かわからん話だが、妙な手品が得意なようだ」

 ヴォルテールは、ことさら嘲るように笑って見せた。

「どうにも怖がりなたちらしくてな。すぐ隠れる。そのせいか、なかなか動きの掴めん奴だ。だが今回は、事前に動きを察知できた数少ない機会。しかもクロネリアが関与するとなれば、放っておくわけにはいかん。何かあれば緊張した国交はすぐに取り返しのつかんものとなる。ゆえにシュテル、お前に行ってもらいたい」

 クロネリア、という言葉があえて強調されたように聞こえたのは、気のせいではないだろう。

 今となっては三国同盟など、もはやないも同然だ。クロネリアは、ガイオンの国政を憂うヴォルテールにとって不用意に刺激できない相手であり、片やシュテルにとっても、思うところがあるのは明白。その日、即位するという新女王を、シュテルが知らないはずがない。

「承知、致しました」

「うむ。この館にある中で最も速い馬を用意しよう。お前に、聖母アリアと祖神ジオの……いや、違うな。過去は捨てたとはいえ、祈る神まで捨てることはない。お前に、聖母アリアと祖神アレスの、格別の導きあれ」

 今はもう記憶の彼方にしかない祖国の城を、一夜にして血と炎の中に落とした刺客。その手が、メリアに迫っている。

 立ち上がったシュテルの足は、緊張でやや強張っていた。

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