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 ―――1年前。

 カリーナ・ホルズワースは特に不思議な点もない、ごくごく普通の少女だった。両親はパン屋を営み、カリーナはその一人娘。友人たちと学校に通い、趣味の話題で盛り上がる。どこにでもいる少女であった。

 ただ一つ言うとすれば、両親と血がつながっていないことだけは聞いていた。が、そんなことはカリーナにとってどうでも良かった。

 だが、変わり始めたのはあの拳銃を受け取った時だろう。


「これはカリーナに、って手紙に書いてあったんだ」


 父から手渡された拳銃は、銀の装飾が施された美しい品だった。初めて持つ武器に、カリーナは恐る恐るそれを掌に乗せた。


「カリーナももう16歳なんだもの。何かあったらそれを使うのよ。……本当は使ってほしくないんだけれど……」


 母は心配そうな表情を浮かべた。子供に喜んで危険なものを与える親はいない。母の不安げな表情を見てカリーナはこんなもの絶対に使うもんか、とその時は思っていたのだ。

 だが、数日経った夜。その日はたまたま友人に忘れ物を届けに言っていたため、帰る頃にはすでに日が落ち切っていた。

 暗くなった道は街灯が点在するだけで、寧ろそれが不気味で暗闇に対する不安を煽る。


「……早く帰らなきゃ」


 小走りで街を駆け抜けていく。その時、聞いたこともない音を耳にした。奥までははっきり見えない路地から聞こえる。カリーナは何の音かと目を凝らして路地を探る。

 暗くて、昏くて、一寸先も見えない深すぎる闇の中。

 鈍く、硬く、鶏肉や軟骨を食べる音と似ている。ごりごり、ぼりぼり、ばきばき?どれにも形容し難い音がぴちゃん、ぴちゃん、と何かが滴る音を伴って不気味に反響する。

 光が、否、双眸がゆっくりとカリーナを見た。


 逃げろ。


 脳が警鐘を鳴らす。本能のままカリーナはその場を走って後にした。ゆっくりと影は路地から出る。人の形をした、人ではない何か。黒い泥のように、あちこちが爛れている。悪魔と言う表現が1番相応しいそれは、闇に浮かぶ金色の髪を次の標的にした。




「っ、はあっ、はあっ……」


 カリーナは肩で息をする。心臓は不自然に速く鼓動を打ち、いつもより苦しい。胃の中からせりあがってくるものを必死にこらえて、カリーナは再び走り出そうとする。

 だがその時、足音が迫るのを聞いた。カリーナが振り返る。その視線の先には、見たこともない生き物がいた。黒い靄を発し、その全貌ははっきりと分からない。だが、歩みの跡にどす黒い液体が溜まっている。

 鉄の匂いが鼻を衝く。カリーナはその匂いに思わず顔をしかめた。この生き物は敵だ。その時、カバンに入れていた拳銃が見えた。これで撃てば、生き延びられるかもしれない。

 そう考えてから行動に移すまでは早かった。

 安全装置(セーフティー)を外し、照準を定める。拳銃なぞ撃ったことが無い。よくドラマや映画で見ていたシーンを真似しているだけ。本当に当たるかどうかも分からない。

 だが、やるしかない。

 生き物が跳躍する。カリーナめがけてその爪を剥き出しにする。カリーナは生き物の眉間を狙い、一発発砲した。


「―――――――――!」


 耳障りな咆哮が轟く。眉間からは外れたが、胸の真ん中を射抜いていた。カリーナは咄嗟に横に除け、黒い生き物はゴロゴロと転がっていく。不気味な眼差しからは、怒りともとれる光を帯びていた。

 カリーナはもう一度構える。なんとなく感覚はつかめた。今度は絶対に仕留める。

 ふと、体の中で何かが脈打った。だが、カリーナはそれを気にしない。緊張で心音が大きく聞こえるだけだろうと思っていたのだ。

 だが、生き物を見据えるカリーナの瞳はいつにも増して、金色に輝いていた。

 その光は闇を裂くほど苛烈で、しかし神秘的だ。

 生き物がどこか慌てた様子で襲いかかる。

 カリーナはただまっすぐ、左胸を見据え。


 ガウンッ


 見事撃ち抜いたのだった。

 黒い生き物は力尽き、塵となって風の中に消えていく。

 カリーナはへなへなとその場に座り込んだ。

 

「な、なんだったの……?今の生き物……」


 想像していなかった事態にぽかんと何もない空間を見つめるカリーナ。その時、肩を叩かれた。


「あの、すみません」


 振り返ると、桃色の髪に桃色の瞳、という人間では到底あり得ない風体をした少女が背後に立っていた。カリーナは人間じゃない、と咄嗟に拳銃を再び構える。

 少女は慌てた風にわたわたと両手を振る。


「わわっ、怪しいものじゃないんです!いや、怪しいのは怪しいんですけど!」


 カリーナは少女の様子に疑問を覚える。人間ではないことは確かだ。だが、先ほどの生き物とは何かが違う。

 刹那、カリーナの手から拳銃が弾かれた。突然の衝撃に思わず手を押さえる。横から狙撃されたのだ。

 ばっと横を向くと同時に、目の前に拳銃が突き付けられた。


「動くな」


 冷ややかな声音が耳朶を刺す。

 氷よりも冷たい声の主を見た。月の光があるというのに、闇に溶けるほど黒い髪。唯一、宝石のように紅い瞳だけが爛々と煌めいていた。

 歳は同じくらいの少年、青年とも呼べるほどの端正な面立ち。まるですべてを支配しているかのような風格。

 これが、カリーナのアラン達との邂逅である。





「お前、シュヴァルツをどうした」


「はい……?シュヴァルツ?なにそれ?」


 シュヴァルツ。ドイツ語で黒、という意味だが、それ以外の物は知らない。カリーナが怪訝そうに眉を顰めると、少年の瞳がさらに冷たく輝く。


「とぼけるな。魔物であれば知らないものはいない。掟を破ったものは皆唯の獣へと変化することを」


 カリーナはまもの?と言われた言葉の意味を理解すると、目を据わらせ、ずずい、と少年に詰め寄った。


「人のことを魔物呼ばわりなんて失礼ね!私はれっきとした人間ですー!そこのパン屋で小さいころから育ったのよ!」

 

 びしっ、と家のパン屋の方を指す。少年はしかし表情を変えない。まるで能面のようだった。そこに新しい声が一つ。


「アラン。その子、嘘は言っていないぞ」


「根拠はあるのか」


 暗闇から現れた、異国の出で立ちをした少年が肩をすくめる。


「別に?ただ今の言葉に迷いがなかった」


 着物、というものだったか。それを身にまとい、見たことのない形の剣を腰に佩いている。アランと呼ばれた少年よりも少しだけ背が低く、東洋系の顔をしている。


「だが、先ほど感じた魔力の発生源がこの少女だ。十中八九魔物だろう」


「ふーん。じゃあ人間に育てられたってことなんだろうけど」


 二人の会話に置いていけぼりにされているカリーナはなんのことか分からず困惑している。ふと、桃色髪の少女がカリーナの拳銃を手にそばにやってきた。


「これ、あなたのですよね?お返しします。突然のことで驚いていらっしゃるかもしれませんが……アラン様がすみません……」


 あ、ありがとう。とカリーナは少女に礼を言う。ついでに、疑問を問うてみた。


「ねえ、魔物って何?あなたたちも魔物なの?」


 少女は目をぱちくりとさせると、優しく微笑んだ。


「はい。この話は少し長くなるので、あちらのベンチにでも座ってお話ししましょうか」


 いいですよねー、アラン様―。と少女が呑気に承諾を求める。アランと少年は顔を見合わせ、一つ頷いた。


 三人掛けのベンチの真ん中にカリーナが座ると、少女が隣に座る。少年がアランに座るよう促したが、拒否して背もたれの方に回り込んだ。仕方なく少年がカリーナの隣に座る。


「自己紹介が遅れました。私はアラン様の側近でシャロン・ハウェルと申します」


 少女がたおやかに一礼する。次に東洋人の少年がひらひらと手を振る。


「俺は水月。こっちでは水月・バーネットって名乗ってる。シャロンと同じ、アランの側近だ」


 んで、と水月がアランの方へ視線を送る。反対側を向いているアランは、肩越しに視線を送る。


「アラン・レルフ」


 面倒くさそうに吐き捨てるアランに、シャロンと水月がじとっと睨む。


「もう、アラン様!それだけじゃなんで私たちが側近なのかわからないじゃないですか!」


「そうだぞ。もうちょっと自覚持て」


 はあ、とアランが一つ嘆息する。


「まず魔界の仕組みを知らないと意味がないと思うが。……獣人の次期支配者だ」


 カリーナは支配者……と言葉を繰り返す。


「あ、私はカリーナ・ホルズワース。三人には山ほど聞きたいことがあるんだけど……。まず、魔物って何?」


「魔物は人間界でメジャーなものだと、人魚とか、巨人とか、吸血鬼とか、ゾンビとか。妖精とかそういう、一般的には架空の生き物と呼ばれる生き物を指します。まあ、実在している時点で架空じゃないんで、魔力を自らの体内で生成出来る生き物を私達は魔物と呼んでいます」


 カリーナは思わず目を丸くする。架空の生き物とは、また大層な言葉が飛び出た。


「三人は何の魔物なの?普通に人間っぽい姿をしてるけど……」


「俺たちは人狼という魔物だ。ま、日本生まれの俺はちょっと違うんだけどそれは置いといて」


「え。人狼って狼人間?」


 満月の夜にわおーんと鳴いて人間から狼に変化するという、あの。というカリーナの言葉に側近の二人は苦笑する。


「間違ってはいないんですけど、それは大分昔の話で……」


「人狼というのは、狼に憑かれ、魔力を宿した人間を指す」


 シャロンの言葉を遮り、アランが淡々と言葉を紡ぐ。


「原因は様々だ。呪詛、契約、怨恨、神託。何らかの理由によって狼と人間の姿に変化できる生き物を人狼と呼んでいる」


「じゃあ、人狼は人間なの?」


「大昔は人間だったが、今はもう、魔物だ。魔力をその身で生成できる時点で、それはもう人間ではない」


 未知の言葉や原理にカリーナは混乱する。こめかみに人差し指を当てて渋面を作る。


「えっと、とりあえず何者かはわかったんだけど……私、魔物だとしたら、何なの……?」


「人狼ですねー」


 即答するシャロン。水月が不思議そうにカリーナの顔をのぞき込む。


「魔力の質が人狼だった。でも不思議なのは、微弱なのに質が支配者のアランと同等っていう点だな」


 そういえば、とカリーナはもう一つの疑問を思い出す。


「支配者って言ってたけど、それ何?」


 水月とシャロンは目を丸くした。


「驚いたな。魔物だったら知らない人はいないんだけど。やっぱりこっちで育ったから知らないのか……」


「支配者っていうのは、魔物たちを治める王様みたいな役職です。人間界でいえば、大統領とか、首相とか?魔物はドラゴンと呼ばれる「竜族」、ゾンビとか吸血鬼の「生屍」、人魚やヒッポグリフ、妖精、その他諸々の「魔獣」、人間と獣、どちらの要素も含まれる魔物の「獣人」という分類があるんですけど、アラン様はその中でも獣人の次期支配者なんです。で、アラン様のお父様が、今の獣人の支配者なんですよー」


 カリーナはアランの方を振り返る。


「えっ。じゃあ、かなりの坊ちゃん……」


「別に特段お金持ちではない。必要な遠征資金などは全部界から出るが、それ以外は普通のちょっと偉い公務員みたいなもんだ」


 ちょっと偉い自覚はあるのか。カリーナは心の中でそうツッコむ。ふと、ふわあ、と欠伸が出た。急に睡魔が襲ってきたのはいつもなら既にベッドの中にいる時間だからだろう。


「付き合わせて悪かった。そろそろ帰った方が良いよ」


「はい。もし興味があれば魔界も案内してあげますね」


 フレンドリーに手を振る水月とシャロンに礼を言って手を振り返す。アランは興味なさそうにすたすたと一人で闇の中に消えていく。それを二人が慌てて追い、人狼たちの姿は見えなくなった。


「何あいつ。感じ悪っ」


 カリーナがぶすっ、と不機嫌そうに頬を膨らます。初対面の少女を魔物呼ばわりした挙句、興味なさげに挨拶もなしに行ってしまうとは。

 だが、ここでカリーナの悪い癖が出てしまう。魔物、魔界、人狼。未知なるものに好奇心が沸々と湧き上がってくる。


「なんか、面白そう」


 少女は刺激に飢えていたのだ。








 「そんなこともあったっけ……」


 カリーナは当時の自分を振り返り、頭痛を覚えて額を押さえた。どうしてあんな好奇心など生まれたのだろうか。その数十分前まではシュヴァルツに襲われて殺されそうになっていたというのに。

 すべてはカリーナの頭の中で繰り広げられた記憶の断片であるため、物思いにふけっている娘を不思議そうに母のケイティが眺めている。

 あの後、カリーナは両親の承諾を得て、毎晩三人と行動を共にするようになった。

 初日は三人とも何故いるのか、という顔をしていたが、それも最初の内だけ。

 持ち前の運動神経でシュヴァルツを見逃がしたことは一度もなかった。

 一方拳銃の方はアランに教えてもらい、大分ましになったのだった。

 今思えば、50メートル走で5秒代を切るかどうかという異常な運動神経の良さも魔物だからと言えば納得できる。

 アランに「一回そこの屋根まで跳んでみろ」と言われたときのこと。


「はい!?あそこの屋根って、3mはあるんだけど!?」


「いいからやってみろ。失敗したら骨が折れるくらいだ。打ちどころが悪ければ死ぬかもしれないが」


「死ぬじゃん!?」


 などというやり取りをしたのち試しに跳んでみたら、それはまあなんと綺麗な跳躍からの着地を見せたのだった。


「カリーナ、早く食べないと遅れちゃうわよ?」


「あ、やば」


 カリーナは慌てて朝食を食べ進める。胃の中へ押し込むと、支度をするために二階へ駆け上がる。十分ほどすると、制服に着替えたカリーナが慌ただしく降りてきた。


「行ってきまーす!」


「はーい。いってらっしゃーい」

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