婚約破棄に待ったをかける

白川明

婚約破棄に待ったをかける

「考え直してください、キアン様!」


 聞き覚えのある声がして、わたしは顔を上げた。

 わたしの目に飛び込んできたのは茶色の髪の美少女と、金髪碧眼で長身の美男子だった。

 同じクラスのエレナ・フォーリー嬢と、わたしの婚約者である王太子キアン様だ。

 わたしは思わずカップを持ったまま、テーブルの下に潜り込んだ。向かいにいた友人のアンゼリカ嬢が「あらまあ」とのんびり呟いたのが聞こえた。

 わたしはアンゼリカ嬢と、学園の隅にある東屋でお茶をしていたところだった。

アンゼリカ嬢の淹れるお茶は我が家の執事が淹れるものより遥かに美味で、安らぎの時だったのに。


「エレナ、これは君のためなんだぞ」

 

 キアン様の声にわたしはびくりと肩を震わせた。

 わたしには絶対こんな風には声を掛けない。心底お前が心配だ、というような声音は。


「あの女の所業……仮に君が許せても私は絶対に許さない」


 キアン様が歯ぎしりする音まで聞こえた。殿下、歯は大事になさって。と、明後日の方向にわたしの思考は飛んでいった。


「キアン様、ですが……」

「あの女は、舞踏会のあの日、君に下剤を盛ったんだぞ!」


 学園中に響くような大音量でキアン様は叫んだ。

 嘘でしょ。その「女」という者の所業もだが、大きな声で言っていい内容ではないと思うのだが。

 わたしはそっとテーブルから顔を上げる。真っ赤になったエレナ嬢と、別の理由で顔を赤くしているキアン様が見えた。思ったより近い、まずい。わたしはすぐに頭を引っ込めた。アンゼリカ嬢は「おやまあ」と小さな声で言った。


「あの、キアン様。あのときは……その……間に合いましたので」

「そういう問題ではないだろう!」


 それはキアン様の言い分がもっともだと、わたしも思う。いくらエレナ嬢が平民出身だとはいえ、公の場でやらかしてしまったら、耐えられないだろう。わたしだったら即刻首を吊ってしまう。


「何よりも……何よりも私が許せないのは、あの女が私の婚約者であることだ!」


 それは許せないな。

 キアン様がエレナ嬢にお熱なのはこのやり取りを見るまでもなく学園中が知っているし。

 うん?

 婚約者?


「私は明日の卒業パーティであの女に婚約破棄を言い渡す!」


 え???

 わたし??????


「あらまあ」


 アンゼリカ嬢が、少しだけ楽しそうな声で言った。




 その後、キアン様とエレナ嬢は立ち去った。最後まで、わたしにも、アンゼリカ嬢にも気付くことはなかった。


「ルシア様」


 アンゼリカ嬢に呼ばれ、わたしはそろそろと立ち上がった。

 目の前には豊かなカールを描く黒髪の美女、アンゼリカ嬢がいた。彼女は優雅に微笑んだ。


「お茶が冷めてしまいましたわね」

「そう……ですね」


 アンゼリカ嬢はポットからティーコゼーを取り、新しいカップにお茶を注いだ。それから、わたしにカップを差し出した。わたしは何も考えず、それを受け取り、そのまま口に運んだ。豊かな香りと、温かさにわたしはほっと息を付いた。


「わたし……明日婚約破棄されるのですね……」


 しかも公衆の面前で。

 なんだかどこかで聞いたことのある話だ。

 エレナ嬢の肩を抱きながら、自信満々でわたしの悪行を捲し立てるキアン様。

 わたしはそうやって晒し者にされ……

 いや、その前に。


「わたしは……盛ってないんだけれども……」

「ですわね」


 きっぱりとアンゼリカ嬢が言い切った。

 さすが学園唯一のわたしの友人だ。


「だってわたくしがやりましたもの」

「はい??」


 何言っているの、この人。


「ルシア様、貴女まだ思い出さないの?」

「アンゼリカさん、何を……?」

「貴女は知っているはずでしょう、このを」


 ものがたり。


 わたしは明日、キアン様に婚約破棄を言い渡される。

 でも、それによって沢山のものを失うのはわたしではなく、キアン様とエレナ嬢だ。

 キアン様はわたしがエレナ様に数々の嫌がらせや、果ては暴漢に彼女を襲わせるといった非道を働いたと証言するが、それは全て彼らの狂言だった。それが、わたしの口から語られる。証拠も証言者もわたしは用意した。

 目に余る愚行ゆえに王太子は廃嫡の上、辺境に飛ばされた。エレナ様は修道院に入れられた。

 それが、小説「婚約破棄するなんていい度胸ですわね」のあらすじだった。

 わたしはこの小説を、前世ただのOLだった頃に電車の中でぼーっと読んだ。わたしは二十連勤の果て、疲労のあまりうっかり線路に落ちて、そのまま電車に轢かれ、この世とおさらばしたんだった。それで、本当にどういうわけか、小説の主人公、悪役令嬢もどきの侯爵令嬢ルシア・ボークラークに転生してしまった。

 と、いうことをやっと思い出した。

 けれども。


「待って、そうだけど、そうじゃない」


 わたしは何もしていない。

 確かに原作通り、キアンは婚約者がいるにも関わらず、エレナと恋に落ちた。わたしのことは徹底的に軽んじた。

 でも、わたしはエレナには何も害を与えていない。他の学園の令嬢と一緒になって、彼女を除け者にしたり、本人のいるまで陰口を叩いたりなどしていない。暴漢に襲わせるなんてとんでもない。

 一番大事なことだけど、わたしは下剤を盛っていないし、そもそも原作にそういうエピソードはない。

 あと断罪イベントが明日だけれど、今からだと絶対間に合わない。24時間で状況をひっくり返すRTAは絶対無理。


 もう一つ重要なことは、目の前にいるこの女は誰だ?

 原作にそんな人物はいない。


「あなた……誰なの?」

「アンゼリカ・ギンヅブルクですわ。あるいは転生者ですわ、貴女と同じ」

「嘘でしょ……」

「本当ですわ。現にわたくしは本来貴女がするべきことを代わりにして差し上げたの」

「いや、下剤飲ませるはなかったよね!? そういうイベントなかったよね!?」

「わたくし基準では暴漢はアウトでしたので」

「もっとアウトじゃない!?」

「生理現象ですからアウトではありませんわ」


 なんなのこの女。やばい。


「そんなことよりルシア様、明日はどうなさるの?」


 とても楽しそうにアンゼリカは言った。


「とりあえずあなたを突き出すわ」


 やけくそなわたしの言葉にもアンゼリカは涼しい顔だった。


「それは無意味ですわね。わたくしがやった証拠も証人もおりませんわ。全部消しましたもの」


 この人、人間も消したって言った!?


「貴女……何がしたいの……?」


 わたしの言葉にアンゼリカはこてんと首を傾げてみせた。可愛らしく見えるのがとてもムカつく。

 それから花がほころぶように微笑んでみせた。


「わたくしは貴女の幸せを願っていますわ」

「下剤盛る疑惑かけておいて!?」

「でも貴女、婚約破棄されたがっていたでしょう?」


 え、とわたしは声を上げた。

 

 的外れなことを言われたからではなく、その逆だ。


 わたしは、前世のことを思い出す前から、この婚約がなくなればいいと思っていた。

 わたしたちの婚約は言うまでもなく親が決めたものであり、侯爵家の娘である以上従わなければならない。良いも悪いもない。

 でもわたしは嫌だった。

 キアンがエレナに惚れる前から、彼のことが好きになれなかった。傍若無人で、他人のことを一切考えない。王太子という立場に胡坐をかいただけの人物。

 将来夫になる人とはいえ、愛する必要はない。

 頭ではわかっていても、嫌だった。

 多分、それは覚えていなくても、前世の価値観を引きずっていたからだと思う。

 前世ならば、結婚相手も、結婚するかしないかも選べた。前世の自分はそもそも選んでもいなかったが。


「そうだけど……このままだとわたしこの国で生きていけなくなるんだけど……」

「そうですわね」


 いや、元凶の人間にだけは言われたくない。


「でも、一つだけ方法がありますわ」


 貴女が望むなら。そう言う彼女の笑顔は少し邪悪な感じがした。


 ううん、完全に悪そのものだった。



 翌日学園の卒業パーティは中止された。

 当然わたしの断罪イベントも発生しなかった。発生しようもないのだけれども。

 

 なぜなら王太子キアンが何者かに拉致され、迷宮の奥深くに監禁されたからだ。

 その知らせを聞いて呆然とするわたしの横で、アンゼリカが「あらまあ」と笑っていた。

 わたしは悪魔の手を取ってしまったのだと青くなったが、もう後の祭りだった。



 当然救出部隊が組まれた。精鋭の騎士や魔術師で構成された。

 その中にエレナの姿もあった。エレナは貴重な回復魔術の使い手で自ら志願したらしい。


 それからしばらくして、彼らは迷宮の攻略に成功し、キアンを発見した。

 キアンは身動きできぬよう拘束されていたらしい。

 発見当時、エレナは、糞尿にまみれたキアンを、自分が汚れるのも厭わず抱き締めたらしい。

 


 そうして一年が経った。


 紙の花吹雪が王都を覆う。

 今日は王太子と王太子妃の結婚式だった。


 キアンの隣で幸せそうに微笑むのは無論わたしではなく、エレナだ。

 エレナは救出後も宮廷魔術師たちと共にキアンの治療にあたった。エレナの回復魔術と魔力量は宮廷魔術師たちも目を見張るほどだった。

 その魔術と献身によっていつしか聖女と呼ばれるようになった。


 わたしはそれらを遠くから眺めていた。

 キアンとエレナの結婚は、二人の間の子が王位継承権を持たないことを条件に許された。次の王はキアンの兄弟たちの子の中から選ばれる。


「キアン様、男ぶりが上がりましたわね」


 わたしの隣にいたアンゼリカがほうとため息をついた。

 キアンの男ぶりを極限まで下げた女が何か言っていた。


 だが、確かに生還したキアンは別人のように立派になった。多分これなら前よりはまともな国王になることだろう。

 廃嫡や暗殺の噂もあったが、王太子を続けられているようだった。


「ルシア様はこれからどうなさるの?」

「修道院にでも行こうかと思います」


 わたしは望み通り婚約破棄になったのだが、実家はかなりの違約金を王家から巻き上げたらしい。父上はご満悦の顔だった。ついでに妹とキアンの弟の婚約も取り付けてきたらしい。つまり次代の外戚に納まる気でいるようだ。

 そういうわけで侯爵家としては悪くない結果だったが、わたしの体裁は悪く、家に居場所はない。


 アンゼリカは満面の笑みになった。


「でしたら、わたくしのお姉さまになってくださいませんか」

「はい???」

「ほら、修道院に入るにも持参金が必要でしょう? その点、我がギンヅブルク家に養子に来て頂ければ実質タダですわ。悪い話ではないでしょう?」

「いや意味わからない」


 でも、わたしはアンゼリカのお姉さまとやらになってしまう気がする。

 王太子妃よりも、悪魔みたいな女の姉の方が、わたしらしい気がした。

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