#001 羊たちの夜
きっかけは一本の連絡だった。その晩は時間があったので、イヴォルナは羊たちの様子を見に牧場に来ていた。珍しい相手だったので、躊躇はしたものの、遮る騒音もない夜の牧場である。こめかみのあたりにある通話スイッチを押すと、振動を通してその声が聞こえてきた。
他愛のない話といえば、そうだった。しかし重要な話も確かにあった。声の主は、少し不安があったのかもしれない。ラムヴィンネス県の次期議官について、誰を推すのか彼の周囲の取りまとめが済んでいないのだという。「七割は決まっているんだけどね」とミズミは言う。「面倒なことになっている」。
いくらかの取りまとめができる立場として、繋がりのある人を通じて協力を求められているようである。また別の人は同郷のよしみで頼みにきている。七割はと言った言葉に彼の悩みが感じられた。割り切りたい心情と、残りも蔑ろにできない葛藤があるようだった。夜の連絡は、その気持ちの吐露だったのかもしれない。
ケーレヴェルさんとも話したんだけど、と声の主は言う。意外に思う気持ちを押し隠して相槌をうった。「ニレンを推すと皆で決めるのは、もう少し様子を見たほうが良いと」同調しながらも考える。イヴォルナは政治の世界に詳しいわけではない。しかし誰を推したかで彼らが大きな影響を被ることは容易に考えられた。ケーレヴェル氏の忠告には同意できる。しかし小さな驚きは、ケーレヴェルが政治の話をする場に座っていることにあった。彼はもう一線から退きたがっていると思われていたからだ。
そちらはどうですか?と聞かれたので、イヴォルナは内心慌てた。今日、街の小売店でニウエリクを見かけたことを思い出した。派手な広報を打って広く名が知られた彼は、小売店の入口で若い青年と握手をしていた。一昨日、ニレンを手伝うエンジニアが笑って言っていた。「若者向けに広報して、この街にどれだけ若者がいると思っているんだ」「でも、侮れないかも」イヴォルナが返すと、「ひとり2,000エイル配っているというからね」と、言って彼はまた笑うのだった。
先日は若者向け集会を行ったという話まで思い出して「こちらではニウエリクが目だって見える」と言うと、ミズミは意外そうだった。「彼はこちらでは人気がない」と言い、「年配者はルーリングが良いと言っている」とこぼす。「ケーレヴェルは、ニレンは前回ほど支持はとれないんじゃないかって」イヴォルナは驚いてみせて「今回はケーレヴェルさんが応援する分もあるから増えますよ」と言った。言いはしたが、呑気なニレンの顔も思い浮かぶのだった。
まっとうにやればニレンは選出される。しかし暗闇に跋扈する者たちの動きが透けて見える頃を見計らって、政治の駆け引きは次のステージへと移るのだ。だからこそ、ニレンにはむしろ圧倒的な支持を取り付けて通ってもらわないと困る。
近く僕らのところへも挨拶に来てくださいと気遣う言葉を残して、ミズミからの連絡は切れた。さっきから不満げに鳴いている羊たちの声が届いていないか気がかりだった。ひとつひとつが今後をうらなうサインに思えてくる。次第に波が荒れてきたかなとイヴォルナは思った。はたして彼女の乗る船は、荒波をうまく乗り切れるだろうか。風向きもいまだ見えないままに、雨期に差し掛かる空は、星の数もいくらか少なく見えた。
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