第二十六話 付喪神を鎮める

(油断したっ!)

 あやかしの操る靄の中に取り込まれた佐那は必死に抗っていた。

 周囲は完全なる闇。ふわふわと浮いているようで、足を踏み出しても地面を感じないし、手を伸ばしでもねっとりとした肌触りがあるだけで、他には何も手ごたえがない。

 左近の身体から追い出された付喪神。幸庵の力のおかげで、そのまま消滅したと思い込んでいた。

 しかし、その片割れである笄の妖力は健在だった。もしかすると、笄の中へ逃げ込んで一つになったのかもしれない。そして、他の者達の警戒が緩む瞬間を待っていたのだろう。陰陽師の力を持つ佐那に狙いを定めたのは、彼女の身体を乗っ取れば、この場で一番力の強い幸庵にも対抗できると考えたのだろう。

「くっ……落ち着きなさいってば!」

 憎い、忌々しい、嫌い、怖い、恐ろしい……様々な負の感情が渦巻く付喪神の空間。

 これだけで、人間からどのような仕打ちを受けて来たかわかるというものだ。

『あと一歩で命を得られたものを』

 冷やりとした付喪神の怨念の塊が頭上に現れたかと思うと、佐那の身体へ入らんと無数の腕を伸ばしてきた。

「いやっ! やめっ……あああっ!」

 式神を抜いて対抗しようとするも、あっさりと掴まれ背中へ捻じ曲げられた。それを機に、次々と佐那の身体へ腕が絡みついた。

『ああ……恨めしや、口惜しや』

 気が狂いそうなほどの怨念の塊。左近の時とは比べ物にならない。気を抜けば一瞬で意識を持って行かれそうだ。そうなれば佐那の精神は崩壊し、永遠に付喪神の操り人形になってしまうかもしれない。

(そんなの、いやっ……!)

 幸庵が外から何とかしようと奮闘しているようだが、怨念の奔流に飲み込まれている佐那は、それまで耐えられるだろうか。

(ううん……今度こそ、自分の力でっ!)

 遠のきかけた意識を何とか引き寄せる。

 思えば幸庵には、屋敷に忍び込んでから助けられてばかりだ。いつの間にか頼ってしまっている自分が怖かった。今回だって自分で何とかすると決意しておきながら、心のどこかでは、危機に陥れば救ってもらえると甘えていなかっただろうか。

 情けない姿ばかり見せるわけにはいかない。幸庵に救ってもらった幼少の時から、少しでも成長した姿を示したい。

「あなたの恨みはわかる……」

 粗雑に扱われてきた物の恨み。それで壊されたとなれば、その恨みはなおさらだろう。佐那だって力がないばかりに家では冷や飯を食わされ、生きて行くために世間では悪の道に足を踏み入れてしまった。

「だけど……だけど、これを見て!」

 必死に腕を振りほどき、佐那は懐からべっ甲の櫛を取り出した。

『ああ……我が……我の姿が』

 今までで最も濃い瘴気が佐那の右手にまとわりつく、腕ごと持って行かれそうになり、佐那は悲鳴を上げた。

『いや、この姿……この形は……!?』

「そうよ、わかる?」

 痛みに耐えながら佐那は問いかける。

 べっ甲の櫛の欠けた歯は、元通りの姿になっていた。綺麗に磨かれ、むしろ新品同様の姿だ。

 そのからくりは、佐那の身代わりになってくれている人形だ。幸庵に頼み込んで、櫛の欠けを人形に移してもらったのだ。その後で、佐那は陰陽師としての癒しの力を使いながら、心を籠めて丁寧に磨いた。自分の想いが届けとばかりに。

「人間がみんな悪い人じゃない。こうして大切にしたいと思う人だっているの。あたしは壊れたからって無下にはしたくないの!」

 佐那の右手に淡く癒しの光が灯った。それは徐々に空間へ満ちていき、佐那を包み込んでいた禍々しい力と拮抗する。

「これがあたしの力。あやかしを倒すことは出来なくても、あなたを癒すことは出来るはず。陰陽師としては不要な力かもしれないけど、あなたにとっては必要な力のはず! お願い、受け取って!」

 真っ白な光が、真っ暗な闇を払っていく。佐那を恐れるように闇が遠ざかったその向こう側で、黄金色の光が一筋見えた。それが幸庵のものだと確信し、佐那は最後の力を振り絞った。

「佐那っ!」

「幸庵っ!」

 伸ばされた手に向け、自分も必死に伸ばす。これ以上は無理だと思ったところで、がっしりと手首を掴まれ、勢いよく付喪神の空間から引き抜かれた。

「佐那、佐那! しっかりするのだ。死ぬのではないよ!」

「こ、幸庵……大丈夫だからっ!」

 がくがくと激しく肩を揺らされ、ぐわんぐわん、と頭の中身まで回ってしまう。あやかしの馬鹿力は人間には辛い。

「あの付喪神はっ!?」

 佐那の問いかけに、幸庵が無言で広間を指した。

 そこには、白い光に包まれた櫛へ吸い込まれていく黒い靄。まるで自ら飛び込むように、みるみるうちにその姿を消していく。最後には美しい飴色の輝きを放つべっ甲の櫛と笄が残された。その二つは、ふわりと浮かぶと、佐那が伸ばした両手へと飛んで来る。

「よかったぁ……あたしを信じてくれたんだ」

 邪悪なあやかしの気配はどこにもない。すっかり落ち着いた様子で、佐那の手の中に収まっている。

「佐那はすごいね。私ですら滅するのに時間がかかると思っていた付喪神を、この短時間で鎮めてしまうのだから」

「もう、あたし、夢中で……」

 緊張の糸が解けた佐那は、腰砕けのようになって幸庵の腕に抱えられた。

「本当によく頑張った。佐那は私たちあやかしの恩人だね」

「恩人だなんて、大袈裟な」

 陰陽師として力を使い果たしてしまい、小さな欠伸が出る。もう指一本動かすのすら億劫だ。

(義賊としての『後始末』をしなきゃいけないのに)

 瞼が閉じていくのを止められない。どう足掻いても起きていられない。幸庵の大きな手が、佐那の目元を覆った。

「『後始末』とやらは私に任せて、ゆっくりおやすみ」

(幸庵ってば、何をしないといけないかわかってるのかな)

 まあ、吉平もいるから大丈夫だろう。打ち合わせもしていたから、これまでの義賊で一番の『朝顔』を書いてくれるに違いない。

 明日の江戸の町は、きっと大騒ぎ。どんな瓦版が飛ぶか見ものだ。

(ふふ……明日が楽しみ……)

 胸に櫛と笄を押し抱いて、佐那は微睡みへと落ちていくのだった。


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