第二十五話 仲間を助ける

 夜も更けて、満月が空に上がった時間帯。夕飯も終わり、夜更かしをするのでなければ、そろそろ寝静まる頃合いだろう。

「……うわぁ、なんだかそれらしくなってきたぁ」

 町角の影に身を潜めながら佐那は不敵に笑みを浮かべる。

 越後屋のような大店で、その財力を誇示するような人間であれば、店の奥にある屋敷も相応のものとなる。城郭のように土壁で囲われた土地は、まるで位の高い武家屋敷のようだ。土壁の向こう側からは、笛や太鼓の音に、人々の笑い声も聞こえてくる。

 屋敷の中では、左近と吉平が『玉楼』の女を連れて宴を開いているはずだ。

 今日のために、佐那と吉平は密かに連絡を取り合い、入念な打ち合わせをしていた。越後屋に連れて行った女の中にも、佐那と同じように義賊の心得がある者がいる。さらにはあやかしが出たときを考えて、鈴姫にも『玉楼』の女として混じってもらった。

 ところが、その周囲を覆い始めた暗い気配に、佐那はひたすら嫌な感じを覚えていた。あやかしの気配がするわけではない。言うなれば、陰陽師の直感のようなものだ。

「――私も結界を張ってきたよ」

 微かな足音とともに、幸庵が背後へ降り立つ。浅野屋の店から、あやかしを何匹か連れて来てくれた。万が一にでも、左近に憑りついた付喪神を逃がさないようにするためだ。

「ありがと」

 佐那は幸庵を見上げて頷く。月の位置を見上げて、己の影が地面に伸びないよう位置を調整する。

 本当は佐那も『玉楼』の女達に混じって中へ入りたかった。その方がわざわざ外から忍び込む手間が省ける。だが、佐那には胸の傷の件があった。

 幸庵の手が佐那の頭に伸び、彼女の身体を覆う結界を維持してくれる。「ありがとう」ともう一度礼をすると、幸庵の指が、つつっと背筋をなぞり、佐那は小さく悲鳴を上げてしまった。

「着物もいいが、忍び装束姿も凛々しくてよい眺めだねえ。むしろ、こちらのほうが似合っているかな?」

「あ、あのね……!」

 こんな時に何を言っているのだろうと佐那は憤慨する。

 白を基調として薄紫色の朝顔の花に彩られた忍び装束は、幸庵からの贈り物だ。色的には目立つことこの上ないのだが、幸庵が特別な術を掛けてくれて、普通の人間には認識しにくいようになっているらしい。

「今度からその格好で店にも立ってもらおうか。ますます人気が出るかもしれないねえ。眠るときは……どうしようか。私の理性は果たして耐えられるのだろうか……? 襲ってしまっても許してもらえるかい?」

「どっちも、まっぴらよ! 幸庵、趣味がおかしすぎ……むぐぅ!?」

「しー、静かに。あまり騒ぐとバレてしまうよ」

(誰がそうさせてるのよっ!)

 口を大きな手で塞がれた佐那は、心の中で思いっきり喚いた。

 この忍び装束、強い妖力で守られている気はするが、どう考えても幸庵の趣味にしか思えない。二の腕は剥き出しだし、裾は短くて大胆な長さで切られており、ひらひらした布からは白い腿がちらちらとのぞく。潜むよりもむしろ積極的に人へ魅せる装い。忍び装束というものを勘違いしているのではないだろうか。

「こ、この助平あやかしめっ!」

 佐那、渾身の嫌味を、幸庵は笑顔で受け流した。

「おや、知らなかったのかね? 私は常に佐那の姿を愛でていたのだよ。特に夜は、私のようなあやかしは眠る必要がないからね。君の寝顔を私は毎晩堪能していたよ。いつ起きるかと思っていたが、気持ちよさそうにわたしの指や手を握ってきてねえ。私を誘っているのかと、理性を保つのが大変であった」

「ええぇ……」

 佐那は思わずその場に崩れ落ちていた。眠るときは幸庵よりも後。起きるのは幸庵の先。それを万事徹底――たまに油断するときもあったが――して、己の貞操を守っていたつもりだった。それが全て無駄な努力だったと知らされると、さすがにショックである。

「ああう……あたし、もうお嫁にいけない……」

「私の嫁になるのだから、問題はどこにもないだろう?」

 そういう問題ではない。

「おっと、佐那をからかうのはここまでのようだね」

 幸庵の顔が引き締まったものになる。へたり込んでいた佐那が見上げると、壁の向こう側の屋敷の一角で、小さな提灯の灯りが見えた。越後屋の警備が薄くなる時間になったという、吉平からの合図だ。

「よし、始めるよ!」

 佐那は両手で自分の頬を叩いて気合を入れた。その背中に幸庵の大きな手がそっと添えられる。

「万が一のときは、必ず私を呼ぶのだよ。佐那を守るその結界は、それほど頑丈なものではないのだから。絶対に意地など張るのではないよ?」

 幸庵の忠告に佐那はしっかりと頷いた。白夜の元に行った時と同じ結界をかけてもらっている。このおかげで、佐那も自由に動けるのだ。

 佐那は鉤縄出すと合図をする。

「幸庵、お願い!」

 幸庵の妖力が佐那を包み込み、それに忍び装束が反応して彼女の姿を、その場の景色へ同化させる。佐那は鉤縄を頭の上でぐるぐると回し、越後屋を囲う土壁へと投げた。それは見事に上部に掛かり、ぐっと引っ張ると縄がピンと張った。

 佐那は足に力を籠めると、一気に壁の上部まで到達した。こっそり壁の向こう側――屋敷の裏庭を除くと、吉平の知らせ通り見張りがいない。

「佐那」

 背後から小さく声が掛かり振り返る。

「いってらっしゃい」

「うん。いってくる!」

 短い幸庵の激励が心強く感じる。佐那は壁の上部に足を掛けると、一気に庭へと身を躍らせた。

 庭の植木の影を利用して、少しずつ屋敷へと近づいていく。裏庭こそ見張りがいなかったが、屋敷へ近づいていくにつれて、体格のよい男の姿が視界に入る。装束のおかげで周囲の景色と同化しているとはいえ、足音を消せるわけではないし、物理的な衝突を避けられるわけでもない。警備の死角に身を隠し、佐那は腰から鉤縄を取り出す。

(あたしは義賊)

 義賊は義賊らしい場所から忍び込むべきだろう。

 身に纏った装束から幸庵の気配を感じる。それに励まされるようにして、佐那は鉤縄を登ると、屋根を這うようにして移動した。

 幸庵からは、彼が全てを片付けようと提案があるも、それを断固として断ったのは佐那だ。これは自分達が蒔いてしまった種。それを誰かに片付けさせるのはあり得ない。特に越後屋の情報を持ってきたのは自分だ。その汚名は自らの手でそそぐ。幸庵には悪いが、そのためにはここで倒れてもいいとすら考えていた。

「たしかこのあたり……あったあった」

 吉平からもらった屋敷の見取り図。それを元に移動すると、天上裏へ忍び込む場所を見つけた。屋根瓦を取り外し、腰にぶら下げていた小型のノコギリを当てる。その部分だけ腐っていたのか、簡単に切り取ることができた。

「さすが吉平。情報通り!」

 今日のために危険を冒して調べてくれていた。それに感謝しながら、切り取った狭い空間に、己の身体をねじ込むようにして天井裏へと降り立った。

 音を立てないように細心の注意を払い、左近達が宴を開いている大広間の天上へと移動する。僅かに羽目板を外すと、配下では酔っぱらって畳の上に、大の字になっている男の姿が何人も見えた。障子を開けた中庭の方では、見張りらしき男も伸びていた。

 一人、また一人と女達が酒をもって部屋の外へ出て行く。これは残りの見張りにも酒を飲ませようというのだろう。今日の酒は、幸庵の屋敷で付喪神に成ろうとしている、あの徳利から持ってきた酒だ。とてもよく効くに違いない。

(左近様……)

 部屋の上座で盃を傾けているのは、左近と初老で白髪の男――越後屋の旦那だった。

 左近の見た目は普段と変わらない。いや、少し見ない間に痩せてしまったように見える。これも憑りつかれてしまった付喪神の影響なのだろうか。

 二人の横では、可愛らしく裾の長い着物を着た女性と、その膝の上ですっかり寝落ちしている高安。『玉楼』の女性に似せているものの、彼女は鈴姫だ。吉平が事情を話して上手くやってくれたようだ。何しろ相手は怨念を溜めた付喪神。何かあった時、すぐに対処できるのが佐那だけでは心許ない。

「いや、愉快愉快」

 上機嫌に越後屋の旦那が、鈴姫の酌をもらう。

「さすが『玉楼』のおなごたちじゃのう。これで春を売らぬとはなんともったいない」

「ふふふ……売らぬ秘密があるからこそ、人々は惹かれ、さらにその秘密を知りたいと足繫く通うようになる。全てをつまびらかにしてしまえば、秘密は残らず、人々はあっという間に飽きてしまうでしょう」

 答える左近の様子に、佐那は「おや」と眉を上げた。声こそいつも通りだが、抑揚がない。まるで何かに操られているよう。

 しかし、それが越後屋の旦那には逆に神秘的に映ったのだろう。「わはは」と笑いながら手を叩く。

「さすが左近殿。『玉楼』を取り仕切る楼主だ。ですがな、今日ここに呼んだ理由は分かっておろうのう?」

 好色そうな顔に、佐那はぞぞぞっと背筋が寒くなった。年老いてなお盛んというか、子が高安ならば、この親ありといったところ。

 こんな奴に『玉楼』の女達を犠牲にするわけにはいかない。後先考えず飛び出してしまいそうになるも、佐那は必死に自分を止めた。今はまだ時期ではない。ここで飛び出したら、全てがおじゃんになってしまう。

「その通りです。ここは『玉楼』ではないですから」

 思いもかけない左近の言葉に、佐那は絶句する。左近は何よりも『玉楼』の女達を大切に考えていたはずなのに……。やはりこれも、あやかしに憑りつかれた影響なのだろうか。

「ですが、我々もこれは商売ですからなあ。越後屋さんには頼んでいたものを用意して頂けましたかな?」

 左近の言葉に、もちろんですとも、と越後屋の旦那が頷いた。パチン、と指を弾くと、女が一人、赤い漆塗りの三方を掲げて広間へ入って来た。それを左近の前に置き、白い布を取り払う。

 その上に置かれていた物に、はっと息を呑む。

 それは、べっ甲の笄(こうがい)だった。明らかに佐那の店に持ち込まれた櫛と、対になるような意匠。

 驚いたのはそれだけではない。べっ甲の笄にもまた、あやかしの気配が漂っていたからだ。黒く不気味で、それでいて、今にも暴発してしまいそうな。

(左近様に憑りついているあやかしだけじゃなかった……いや、もしかして、これを探していた?)

 屋敷が不気味な雰囲気に包まれていた理由を悟る。左近に憑りついていた付喪神と、この付喪神になりかけのべっ甲の笄が呼応していたのだ。元は対になるものだったからこそ、お互いをこうして求めていた。

「このようなものが欲しいとは、左近殿も珍しい。しかし、これだけではさすがに越後屋としても、申し訳がありませんからな。小判も用意させてもらいましたぞ」

 続けて運び込まれた三方には切り餅が幾つも乗せられている。

 それを眼下にしながら、佐那は別の部分でほっと安心していた。越後屋は佐那達の裏の仕事は疑っていないようだ。越後屋に黙っていて欲しいのならば、お金を払うのは左近の方だ。

 ならば、この場を切り抜ければ全ては解決する。

「ふふふ……」

 左近は切り餅には目もくれず、べっ甲の笄へと手を伸ばしていた。それを掲げて哄笑する。

「ふははっ! とうとう手に入れたぞ」

「さ、左近殿?」

 そこで、やっと左近の異変に気が付いたのだろう。越後屋の主人が戸惑った表情を浮かべて後ずさる。

「長く時間がかかってしまったが、やっとだ」

 これは不味い、と佐那が飛び出す瞬間を見計らっていると、左近の身体から黒い靄のようなものが出てきた。浅野屋の蔵で対峙した時と同じだ。それは、陰陽師の力がある佐那だけではなく、他の者にも見えるほどに膨れ上がっていたのだろう。酒を飲んでいた何人かが悲鳴を上げた。

「我が片割れよ探したぞ。やっとだ……やっと我らは一つになる」

 部屋の中に突風が吹き荒れ、料理を乗せた皿が宙を舞い、酒器が倒れて割れた。障子や襖はガタガタと震え、次々と敷居を外れ倒れていく。酔い潰れて眠っていた者も目を覚まし、そこかしこで悲鳴が続いた。

(いけない!)

 このままでは怪我人が出てしまう。佐那は天上の羽目板を外すと、躊躇いもなく広間へと降り立った。

 突然現れた忍び装束の少女に越後屋の旦那が驚くも、佐那は蹴りを一発入れて豪快に広間の外へと吹き飛ばした。騙された恨みも籠めたが、この広間にいること自体に命の危険がある。瘴気のような悪意のある黒い靄が屋敷に瞬く間に広がり、次々と越後屋の人間を昏倒させていたのだ。

「みんな、下がれ!」

 何とか冷静さを保っていた吉平が叫んだ。鈴姫が張った結界の中へ『玉楼』の者を入れていく。佐那はその前に庇うようにして立った。

「ここはもう危ないから逃げて! みんなも知っての通り、あたしは陰陽師の力がある。ここは時間を稼ぐから。鈴姫、みんなをお願い!」

「わかりましたわ! 幸庵様も呼んできます。佐那さんも無理をしてはいけませんよ?」

 同じあやかしだけあって、危険性を理解していたのだろう。鈴姫は素直に『玉楼』の者達を外へと誘導する。

「いや、佐那も逃げるんだ!」

 吉平が腕を掴もうとしてきたのを、佐那はひらりと躱した。

「ここはあたしが何とかするよ! だから、吉平も逃げて!」

「吉平さん! 佐那さんの邪魔になってしまいますわ」

 音を立てて飛んできた徳利を、鈴姫が張った結界が防いだ。下がりながら、早く早くと鈴姫は急かした。

「だ、だけど!」

「怖がってる『玉楼』のみんなを落ち着けてあげて。もしも、越後屋の見張りが残っていたら、そっちがおかしな真似をするかもしれない。それを守れるのは吉平だけだよ!」

「くっ……」

 佐那の背後で悔しそうに歯ぎしりをする音が聞こえた。それでも、彼女の案が最善だと納得したのだろう。徐々に気配が離れていく。

「佐那……左近様を頼んだ!」

 だっ、と吉平の立ち去る足音が聞こえるのと、付喪神に憑りつかれた左近が襲ってきたのは同時だった。

「し、式神よ、お願いっ!」

 白い毛皮を持つ美しい鼠が十匹ほど。佐那を血祭りにあげんと右腕を上げた左近――に憑りついたあやかしへと殺到し、素早い動きで翻弄せんと動き回る。

(お願い、あたしの式神!)

 佐那は付喪神の話を聞いたときから、陰陽師としての力が必要になるだろうと思っていた。幸庵に頼んで道具を揃えてもらい、対付喪神用の式神を作って今回の作戦に臨んだのだった。

「むお、小癪な!」

 邪悪な気配を振りまく靄にまとわりつき、それをゲジゲジと齧っていく白鼠。あやかしの妖力を削るのと同様の行為だ。

 相手のあやかしは暴れまわり、一匹、また一匹と靄に飲み込んでいく。佐那はその度に追加の式神を発動した。

「ぬおおおお!」

 あやかしが力任せに妖力を放出する。部屋を竜巻のような突風が吹くと、白鼠は全て吹き飛ばされてしまった。

「くっ!」

 佐那は畳をゴロゴロと転がって難を逃れ、すぐに受け身を取って起き上がった。そこに、目の前には闇を纏った左近の右腕が迫る。

「式神……くぁっ!?」

 あっという間に押し倒され、喉を強烈な締め付けが襲う。窒息する前に首の骨が折れてしまいそうな力。ぎりぎり発動していた式神が左近の腕に齧りつき、その隙に佐那は脱出に成功した。直後、また突風が吹いて、佐那は屋敷の柱に背中から叩きつけられる。

(く、悔しい……っ!)

 後頭部をもろに打ち付け、意識が朦朧としながらも、佐那はよろよろと立ち上がる。

 全く自分の力では歯が立たない。徳利の時は役に立ったのに、どうして戦いには向いていないのだろうか。

(左近様を助けたいだけなのにっ!)

 佐那の願いも虚しく、左近に憑りついたあやかしの一撃で、彼女の身体は中庭へと放り出された。

 何とか顔を上げたところに、黒々とした足の裏が見える。禍々しい付喪神の力は、そのまま佐那の頭を踏み潰してしまうかもしれない。さすがに身代わり人形も耐えられないだろうな――そんなことをぼんやりと思った。

「――やれやれ。だから、早くに呼びなさいと言っただろう?」

 足に踏み付けられようとした寸前、急に目の前の景色が回転した。背中に添えられた力強い手に佐那の声が弾む。

「幸庵っ!」

 傷ついた佐那の結界を補強しながら、幸庵は左近の身体を操る暴走した付喪神へ右手を掲げた。

「出て行くがよいよ。お前はもう付喪神にはなれない」

 幸庵の身体が黄金色に光ったと思うと、放出した妖力が左近の身体を同じ色に包み込む。まばゆい光は中庭を昼間のように強く照らした。

「ぐああああぁぁぁぁっ……!」

 左近が苦し気に頭を抱えて中庭を転がり回る。やがて、仰向けに倒れた口から、黒い靄が次々に吐き出されていく。

「さ、左近様っ!」

 佐那は慌てて立ち上がると、倒れた左近の元へと走った。吐き出される黒い靄は霧散し、顔色こそ青白いものの、あやかしの気配はどこに感じない。恐る恐る胸へ耳を当てると、微かに上下に動き、心臓の力強い鼓動も聞こえた。

「あぁ……よかった……」

「私としては全くよくないのだがね」

 背後から咎めるような視線を感じ、佐那は「うっ」と小さく呻いた。

 どうしても自分の力で何とかしたかった。それが逆に己の無力を知らされる羽目になってしまった。左近が解放されたのは嬉しいはずなのに、なぜか落ち込んでしまう。

「……ごめんなさい」

「まあ、佐那の気持ちもわかるから、ギリギリまで手は出さなかったのだが」

 怒られるかと思いきや、幸庵は寛大だった。いっそ厳しく叱ってくれたほうが気が楽なのに。ますます落ち込んでいると、背後から走って来る音。

「佐那っ! 左近様も、無事か!」

 大きな声は吉平のもの。『玉楼』の女達はこの屋敷からの脱出に成功したのだろう。心配して戻って来てくれたのだ。

「うん。あたしは大丈夫。左近様に憑りついていたあやかしも、幸庵が祓ってくれた」

「よかった……」

 倒れた左近が息をしているのを確認して、吉平は大きく安堵の息を吐く。自分よりも大きな左近を、うんしょ、と背負いながら吉平は既に次を考えていた。

「さあ、後片付けをして、早く帰らないとな。外までドンパチが聞こえたから、グズグズしてるとお上が来てしまう」

 佐那は屋敷の方へ視線を向けた。暴走した付喪神の瘴気に当てられて、男達はみんな目を回して倒れており、しばらく目を覚まさないだろう。これなら、佐那が実行しようとしている『後始末』も念入りにできるだろう。

「うん。任せて! あたしたちを騙してくれたお礼はしないとね!」

 気を取り直して、佐那は広間の方へ足を向けた。

 襖や障子は、付喪神のあやかしが暴れてくれたおかげで、無残な姿になっている。畳の上に金色色の屏風が転がっており、こちらは難を逃れたようだ。少々もったいないが、だからこそ、自分達の存在を知らしめるにはちょうどいい。

 佐那は懐から矢立を取り出した。

「派手に『朝顔参上!』って書いてあげないとね。ほんと、大変だったんだから。恨みつらみを籠めて、今まで一番のを……って?」

 すぅ~、と風が動いた気配に、佐那は縁側に足を掛けた姿勢で視線を巡らせた。キョロキョロと、最後に空を見上げるも、そこには雲一つない真っ黒な夜の空。

(いや、違うっ!)

 どこか違和感を覚え……佐那はすぐに気が付いた。煌めく星々はどこに消えたのだろうか。忍び込むには向いていない満月も見えない。

「佐那! そこを離れなさい! 笄がまだ力を持っている!」

 異変に気付いた幸庵が鋭い声を発するも、それは僅かに遅かった。

「うそっ……いやあぁぁっ!」

 いつの間にか佐那の周囲を取り囲んだ黒い靄は、その内側へと彼女を飲み込んでいったのだった。

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