第二十三話 佐那と幸庵

 ――どれほどの時間、一人でそうしていただろうか。

 ふと人の気配に顔を上げると、いつの間にか幸庵が目の前に立っていた。悲し気に目を伏せて痛恨の極み、といった表情。

「あれほど来てはいけないと伝えたのに。聞いてしまったのだね」

「……ひっ!」

 喉の奥から悲鳴が漏れた。反射的に後ずさる。

 今は触れられたくない。こんな無様な自分を見せたくない。

 だが、逃げようとした佐那は、あっさりと腕を掴まれていた。

「やだぁっ! 離してえっ!」

「いいや、離さないよ」

 この世の終わりといったような悲鳴を上げて暴れるも、問答無用で引き寄せられた。

「あたし……あたしっ……うああああっ……!」

 一旦決壊すると、堰を切ったように何かが転がり落ちて行った。我を失い無茶苦茶に暴れているうちに、ひゅぅひゅぅ、とおかしな呼吸が口から漏れた。過呼吸のようになり、苦しくて涙を流しながら喉を掻きむしった。

「落ち着くのだよ、佐那。ゆっくり息を吸って、吐いて……ほうら、いい子だ」

 幸庵に導かれるように何度も深呼吸をして、それが落ち着いたころ、佐那には虚しさしか残っていなかった。

「あたし……間違っていたのね……」

 ぽつり、と全ての感情が抜け落ちたような声で佐那は呟いた。

 悪徳商人に天罰を下していい気になっていた。己のしていることが正しいとは決して思っていない。お上からしてみればただの盗賊だ。けれど、お上が手を出せないことを佐那達はしている。それこそが誇りだったのに。

「大丸屋さんも強引で、それこそ眉をひそめるような商売をしていた時期もあったからね。それを佐那が勘違いしても仕方がなかった」

「でも、でもっ!」

 佐那は既に答えにたどり着いていた。どうして幸庵達が高利貸しと呼ばれていたかを。

「あたしは幸庵が悪いことをしてると思ってた! だけど、それも嘘だったのね。全てはあたし達をおびき寄せるための嘘。あたし、ここでもまた間違った!」

「……そこは気付かないままでよかったのだがね」

 幸庵は敢えて己に不利になるような噂を佐那達に流していたのだ。まさか自作自演とは夢にも思わず、こちらも乗せられてしまった。

「あたし達が間違いかけているって、幸庵には見えていたのね。どうしてあたしにそこまでしてくれるの? そのままお上に突き出せばいいのに!」

「それは最初に伝えただろう? 佐那には危ない仕事から、きっぱりと足を洗ってもらいたかったからだよ」

「……納得できない」

「ふふ。そうだね。少し昔話をしようか。私が人型になる直前。尻尾が分かれかけていたときのことだよ」

 拗ねたように唇を歪める佐那に、幸庵は苦笑した。佐那を横抱きにして胡坐をかいた上に乗せ、肩に添えた手は拍子を取るようにゆっくりと動く。

 一体何を話そうというのだろうか。佐那は大人しく続きを待った。

「もうすぐ完全な人型に化けられるようになる私は、他よりも妖力が強かったのもあって、人間の世で生活に迷うあやかしたちを助けていたのだ。具体的には、この浅野屋の前の店主、白夜の元へ連れて行くことでね」

 佐那は小さく頷く。その話は、古物商でそれとなく白夜から聞いていた。途中でうやむやになってしまったが、その続きをしてくれるようだ。

「いろいろと大変だったよ。妖力が強いといっても狐の姿だからね。堂々と町中に姿を現すわけにはいかない。妖術で目くらましをしたり、夜に行動したり、それこそ盗賊のように屋敷へ忍び込んだり……ふふふ、佐那もびっくりだったかもしれないよ」

 当時の日々を思い出したのか、幸庵の身体が愉快そうに揺れた。

「そこで、私は一人の少女を見つけた。面白い子でね。陰陽師の娘なのに、あやかしが好きだときたものだ。だからだろうね。いつも修行ではあやかしを逃がしてしまい、おかげで蔵に閉じ込められていた。凍えそうな日もお構いなしにね。ある日、本当に死んでしまいそうで、私はとうとう少女に手を差し伸べてしまった」

(え……これって、もしかして……?)

 そんな馬鹿な、という思いが心を横切る。それと同時に、捕まってから今日までの幸庵の言動が、頭の中でぐるぐると回る。

「その少女は寂しかったのだろうね。私によく懐いてしまった。陰陽師の屋敷に捕まったあやかしもたくさん教えてくれた。いつしか私も、彼女に会いに行くのが楽しみになってしまったのだよ」

「こ、幸庵……」

「だけどね」

 口を開きかけた佐那を遮るように幸庵は言った。苦々しい過去を振り返るかのように口元が歪む。

「ある日、私は失敗をして陰陽師の罠に嵌ってしまった。忍んでいても噂が広がり始めていたようでね。どうやら予め待ち構えていたらしい。何とか捕まることは避けられたものの、私は大怪我を負ってしまった。もう駄目かと観念していると、少女が私を助けてくれてね。あやかしを癒す力があるのは知っていたが、己の命を絞り出すかのように頑張って、私の傷を癒してくれた」

 ここまで来れば、佐那は話の続きがどうなるか見当がついていた。

「尤も、私の傷は本当に深かったからね。動けるようにはなったが、白夜の元でしばらく眠りにつく必要があった。起きたら真っ先にお礼をしなければと思いながら、ね」

「そしたら、あたしは『玉楼』の女で、義賊になっていた」

 幸庵の後を引き取り、佐那は自ら継いだ。毛並みと同じ黄金色の瞳が、慈しむような視線を彼女へ向ける。

 いつしか幸庵の頭の上には、雪のような純白で縁どられた耳が立っていた。腰から伸びる尻尾は九つに分かれ、ゆらゆらと揺れている。何よりこの溢れ出る妖力は、陰陽師として落ちこぼれの佐那ですら間違えようがない。

「どうして……」

 幸庵は昔助けた狐のあやかしで、今目の前にいる人型の妖狐と同一なのだ。信じられないといった面持ちで佐那は唇を震わせた。

「どうして、幸庵。最初に教えてくれなかったの」

「嬉しいね。やっと気が付いてもらえたのか」

 幸庵はその質問に答える代わりに、佐那を強く強く抱きしめた。

 あの狐のあやかしが佐那に教えてくれた術。閉じ込められた蔵から出るための錠前破り。この術は、間違いなく今日まで佐那の命を繋いでくれた。

「こ、幸庵、痛い……!」

「おお、すまないね。嬉しくてつい力が入ってしまった」

 骨が軋むほどの力に悲鳴を上げると、幸庵が力を緩めた。佐那は右手で肩をさすりながらもう一度問うた。

「もっと早くに教えてくれればよかったのに」

「浅野屋の高利貸しの噂が、佐那に効きすぎてしまったようだったからね。怖くて正体を明かせなかったのだよ。せめて、私が真っ当な商売をしていると認めてくれるまでは」

「う~……」

 それを理由にされると佐那も言い返せない。

 これまでの商売を見てきたからこそ素直に信じられたが、初対面で果たして冷静に判断できただろうか。己の陰陽師としての力が弱いのもまた事実。こうして幸庵が場を設けてくれたからこそ、佐那にもその力を判別できた。

「私のほうこそ佐那の仕事を……表と裏の仕事を知って肝が冷えたのだよ。万が一捕まれば、極刑は免れないからね」

 佐那は顔を背けて静かに目を伏せた。幸庵は――この妖狐は、あの時の恩を返そうと、ずっと探し続けてくれたのだろう。

 けれど、時が経過して、成長した自分はどうなのだろうか。

 一人になってから、様々なことをして生活をしてきた。生きるためには、殺しと誘拐以外のことは何でもやった気がする。特に『玉楼』に入る直前は、正真正銘のゴロツキ集団だった。幸庵から教えて貰った鍵開けの術を駆使して、盗みを働く毎日。彼はそんなつもりはなかっただろうに、いかに自分は卑しい行為をしていたのだろう。

 それは、『玉楼』に拾われてからも変わらない。盗む先は昔の佐那のような、どうしようもない連中のみになったとはいえ、やっていることは同じだ。世間からは義賊だともてはやされていても、表の世界は歩けない。

 ――そして、ここでも過ちを犯してしまった。

「あたしは……幸庵に助けられる資格なんてないの。あのときの純粋なあたしはもういない。怒られるようなことをたくさんしてきちゃった」

「だが、それは生きるためだったのだろう?」

「だからって、あたしの行為が正しくなんてなるわけがない。幸庵だってそのために錠前破りの術を教えたつもりではなかったでしょ? 清らかな魂でいるつもりなら、一人になったときに飢え死にでもしておくべきだったの。ああ、そうだ……」

 ふと、思いつき、佐那は顔を幸庵へと向けた。どこか達観したような表情で告げる。

「ねえ、幸庵。あたしを奉行所に連れて行ってよ。幸庵になら納得できる。ううん、幸庵が、いい」

「何を言っているのだい。今の佐那は義賊に誇りを持っていたのではないのかい? 『玉楼』の仲間たちはただのコソ泥ではあるまいに」

 口調こそ穏やかなものの、幸庵が怒っているのが感じられる。背後に陽炎のように揺れるのは彼の抑えきれない妖力だろうか。

「だって……」

 その強い視線から逃れるように、佐那は袖で自分の顔を隠した。消え入るような声で呟く。

「幸庵に、こんな汚れたあたしを見られたくない……」

「佐那……」

 絶句したような気配。次の瞬間、佐那は隠した顔ごと、幸庵の腕に包み込まれていた。先ほどの力強い抱擁とはまた違う。触れてはいけないものに触れてしまうような、そんな躊躇いを感じる。

 長い長い時間、ひたすら佐那は幸庵の腕の中にいた。幸庵の胸元で目の前は真っ暗。その中で、彼の身体が小さく震えているような気がした。首筋に、ぴしゃん、と冷たい水のようなものが落ちて、佐那は小さく首をすくめた。

「幸庵、どうした……の!?」

 恐る恐る顔を上げると、今度は佐那の方が絶句する羽目になった。

 信じられない光景を前に、すぐに次の言葉が見つからない。なぜなら、幸庵の両の瞳からは大粒の涙が零れていたからだ。

「いまの幸庵が泣くとこあった!?」

 完全なる不意打ちに泡を食った佐那は、そんなことを口走ってしまう。一体全体、どうして幸庵が涙を流す必要があるのだろうか。

「私は佐那が不憫だ」

「わふっ!?」

 今度は荒々しく抱き寄せられて佐那は悲鳴を上げた。幸庵の胸に鼻と口を押し付けられたようになって息苦しい。バタバタと手足を動かす佐那に気付かぬ様子で幸庵は嘆いた。

「家族からは冷たく扱われていただけでなく、己が生活するために意に染まぬこともやってしまった。義賊の中にあっても、佐那は常に自分を責めていたのだね。君は私の傷を癒してくれたというのに、私は佐那の心の傷を癒すことは出来ないのだろうか。どれほど甘やかしても、どれほど贅沢を凝らした食事を用意しても届かない。一体どうすれば佐那は……」

 そこで、感極まったように言葉が詰まり嗚咽する。

(えーっと、もしかして……)

 もぞもぞと幸庵の腕の中から、なんとか頭を脱出させながら、佐那はピンと閃くものがあった。

 自分自身も気付かない間に心を覆っていた闇。真っ当な道を歩んではいないという罪悪感。幸庵はずっとそれを癒そうとしてくれていた。佐那が立ち直るきっかけを与えようとしてくれていたのだ。

 けれど、それが溺愛になるだなんて――不器用にもほどがある。どこをどうしたら、そんな発想になるのだろうか。

「ふふ……」

「ど、どうしたのだい?」

「ふふふっ……あははっ……!」

 不意に笑い出した佐那を見て、きょとんと驚いたような表情になる幸庵。それがまた可笑しくて、とうとう大声を上げて笑ってしまった。先ほどの全てを諦めた決意の反動だろうか。しばらく止まりそうにない。

「佐那こそ、今の私のどこが可笑しかったのかね」

「あはは……だって、だって!」

 憮然とする幸庵へ目の端を拭いながら謝る。

「ごめんなさい! でも、真面目な顔して何を言うのかと思えば、あたしを甘やかしてたのってそういうことだったの!? てっきり落とすためだと思ってた!」

「……他にどうすればよかったのだい」

 拗ねたように幸庵が唇を尖らせる。初めて見るような子供っぽい姿に、どこか遠くに感じていた幸庵の姿が、急に身近になった気がした。佐那の手が勝手に幸庵の頭へと手が伸び、気が付いた時にはいい子いい子とばかりに、艶やかな獣の耳を撫でていた。

「ありがと、幸庵。なんだかちょっと元気が出てきた」

「な、ならばいいのだが……?」

 釈然としない様子の幸庵だったが、いつもの調子に佐那が戻ったのを見て取ったのだろう。どこか、ほっとした様子で佐那に撫でられるがままになっている。

「もう、さっきみたいなことは言わないと、約束してくれるね」

「……うん」

「本当かい?」

 幸庵の両手が佐那の頬を左右から挟んだ。そのまま顔を近づけて来て、コツンと額同士を当てる。

「佐那には前科があるからね」

「え……?」

「この屋敷から逃げようとしただろう?」

 ああ、と佐那は頷いた。確かに自分には前科がある。どうしたら信じてもらえるだろう。考えながらゆっくりと口を開く。

「安心して、幸庵。たしかにもう二度と、あたしは陽のあたる場所では生きられないかもしれない。だけど、この自分を否定したら、仲間まで否定しちゃうことになる。ううん。裏の顔を知らない『玉楼』の他の人たちまで。それはできないし、やっちゃいけないこと。だって、みんな一生懸命生きてるんだから!」

「うーん。口だけでは何とでも言えるからねぇ」

「え~……」

 渾身の説明をしたつもりなのに、受け入れられなかった。首を傾げて幸庵の瞳を覗き込む。

「じゃあ、どうしたらいいの?」

「浅野屋は高利貸しで悪いあやかしだからね。悪い者らしく、君の大切なものを貰おうじゃないか」

「悪いって何を……はむ……っ!?」

 不意に唇を塞がれ、佐那はそれ以上を続けることが出来なかった。密着するほど目の前に幸庵の顔がある。口元には柔らかい感触。

 唇同士が触れている――これは口づけだ――と認識した時、佐那は頬から首元まで真っ赤に染まっていた。

「おやおや、『玉楼』の店の者だというのに、初心なことだねえ」

 やがて、幸庵が唇を離し、にやにやと佐那の顔を覗き込む。

「なっ、なっ、なっ……」

 口をパクパクと開閉するだけで、佐那の口から意味のある言葉は出てこない。何が何だか、頭の中が絶賛大混乱中だ。でも――

「嫌だったかい?」

 微笑みかけてくる幸庵へ、首をふるふると横に振る。

「それはよかった」

 満足そうに幸庵は頷き、佐那の顎に手を添えた。自然と顔が上がり、唇が幸庵の正面へと向く。

(もう一度される)

 こういう時は目を閉じるものだと『玉楼』の女達から聞いたことがある。さっきは突然のことで反応できなかったが、今度はそのしきたりに従うべきだろう。幸庵の腕の中で力を抜き、佐那はゆっくりと両目を閉じた。

「――幸庵さまーっ! 急ぎのお客さんで……あっ」

 二人の距離があと一寸……といったところで、激しい勢いで部屋の引き戸が開かれた。はっ、と我に返ると、引き戸の外には瞳が零れ落ちんばかりに、真ん丸に開いた文福の姿。

「し、失礼いたしましたーっ! 心ゆくまでお楽しみくださーい!」

「あ、違うの、文福っ! まってえええっ!」

 全く説得力のない体勢のまま、佐那の悲鳴が虚しく響いたのだった。


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