三章 しつこい男

第十話 ただの泥棒

    三章 しつこい男


「寒いよぉ……」

 夢の中で十歳ほどの佐那は、真っ暗な蔵の中に倒れ込んでいた。

 外は雪が降ってきたのか、空気がとても冷たい。床から伝わってくる冷気は、その上に転がった佐那をそのまま氷漬けにしてしまいそうなほどだ。

「……うぅ……お腹空いた……」

 もう何日も飲まず食わずで指一本動かすことも叶わない。少し前までは寒くてガタガタ震えていたのだが、もうそれすらなくなってきた。

(あたし、死ぬのかな)

 意識も朦朧としてきた。強烈な睡魔が佐那を襲う。

 このまま眠れば二度と目覚めない――そんな予感がする。それに抗えるだけの体力はもう残っていない。

(痛い思いをしないのなら……いいのかな)

 落ちこぼれの陰陽師として、あやかしを逃がしたとして体罰を受けなくて済む。厳しい鍛錬から逃れられる。弱気は現実逃避となり、幼い佐那の心を簡単にへし折っていく。あと何日どころか、数刻も経たないうちに命の灯火は消えてしまうだろう。

「……え?」

 うつらうつら、と意識が落ちかけたところで、不意に自分の身体がポカポカと暖かくなっていることに気付いた。睡魔に抗って何とか目を開けると、そこには眩しいばかりの黄金の光。

「え? え?」

 すでに極楽に行ってしまったのだろうか。慌てて顔を上げると、そこには金色色をした獣の姿。ゆっくりと顔をこちらへ向けて来て、この獣が狐であることを知る。

「妖……狐?」

 陰陽師の卵としての直感が、ただの狐ではないと囁く。あやかしは人に害を成す存在だと教え込まれてきた。妖狐ともなる上級のあやかしとなれば、人間の魂を喰らってしまうらしい。佐那自身、これほどの妖力は感じたことがない。

(あたしを食べに来たのかな……)

 恐怖を感じる一方で、この美しい妖狐に食べられるなら仕方がないとも思った。最後にこうして、凍えた身体を暖めてくれたのだから。

 妖狐の脇腹に頬を埋め、再び眠りに落ちようとした佐那へ、妖狐の美しい顔が近づいた。せめて痛くないよう、食べるなら一瞬で終わらせて欲しい……そんなことをぼんやりと考えていると、彼女のすぐ横に、ぱさり、と何かが落とされた。

「これは……?」

 笹の葉に何かが包まれている。妖狐の促されるような視線に中を開けると、そこには握り飯が三つほど。

「これをあたしに?」

 妖狐が頷いたような気がする。佐那は恐る恐る握り飯を口にした。口の中で米粒がほどけ、程よい塩味が食欲を刺激する。ゆっくりと飲み込むと、身体の奥から力が沸いてくるような気がした。

 数日振りの食事は、弱り切っていた佐那の身体を蘇らせていく。一つ目のおにぎりはあっという間になくなり、二つ目、三つ目へと手が伸びた。

「おいしかった……でも、どうして……ふぁ」

 全てを食べ終わり、妖狐に問いかけようとするも、大きな欠伸が出てしまった。お腹が膨れてしまって、今度こそ抗いようのない睡魔がやってくる。力尽きたように妖狐の脇腹に倒れ込むと、ふさふさの尻尾が彼女を包み込むように覆った。

(ああ、なんて暖かいんだろう)

 助けてくれた理由とか、どうして陰陽師の屋敷にいるのだとか、色々と聞きたいことは山ほどある。

 けれど、幼い佐那にはその時はどうでもよくて――妖狐の暖かさが心から有難かった。


    ◆


 まだ、誰も起きていない早朝の店。佐那は井戸で水を桶に汲んでいた。

 ばしゃばしゃ、と顔を洗うと、冷たい水が火照った頭と頬を冷やしてくれる。手拭いで顔を拭いてから、もう一度井戸から水を汲んだ。それを持って、よいしょっと廊下を歩き、通りに面した店の表へと持って行く。

 広間の端に桶を置いてから、雑巾を水に浸して固く絞ると、膝をついてせっせと床を拭いていく。『玉楼』でも店へ出ない日は、こうして掃除をしていた。質屋と妓楼。店は異なっても清潔にしておくという部分では変わらないはずだ。

 尤も、佐那がこんなことをしているのは、別の意味もあった。

(あー、びっくりしたぁ……)

 目覚めた時のことを思い出して、頬に手を当てる。汲みたての水で洗ったのにまだとても暖かい……いや、熱いくらいな気がする。

 今朝は、起きるなり悲鳴を上げてしまった。何しろ目を開けると、眼前に幸庵の寝顔があったからだ。どうして同じ布団で一緒に眠っているのか。あわあわと腰を抜かしていると幸庵も目覚めて、「昨夜のことを覚えていないのかい?」と、問いかけられた。

 そこで怒涛後の如く蘇るは昨夜の記憶。

 すっと身体に入って来るお酒に、思わず盃を重ねてしまった。質屋という慣れない仕事をした後ということもあって、思ったよりも疲れてしまっていたようだ。その中でのお酒は、容赦なく佐那の思考を奪い、幸庵の理性を試すようなことを色々としてしまった。お酒のせいで記憶が……なんてことは全くなく、ばっちり覚えているものだから始末に負えない。

 からかってくる幸庵を部屋の外へ追い出し、佐那はさっさと着替えると、こうして朝の掃除をしているわけだ。下っ端なら掃除をして当然、と自分に言い聞かせながらも、身体を動かして忘れないとやってられないという面も否めない。

(は、恥ずかしすぎる……)

 穴があったら入りたい。それが墓穴だとしても喜んで飛び込もう。昨日の記憶を消せるなら、あやかしにだって魂を売ってしまいそうだ。

(だけど……)

 ひとしきり掃除も終わり、佐那は雑巾を桶につけて一息ついた。

 完全に無防備な状態で寝落ちをしてしまった。己の容姿が特別優れているとは思っていないが、襲ってくださいと言わんばかりの姿だったに違いない。これが『玉楼』だったら……と、そんなことを考えて、佐那は背筋が寒くなった。

 ところが、幸庵は佐那に手を出さなかった。目覚めは確かに幸庵の腕の中だったが、彼女の素肌には指一本触れていない。

(本気……なのかな)

 本当に自分のことを大切にしようとしてくれているのだろうか。屋敷へ盗みに入った娘なのに。

(もしかして、それほどの魅力がないってこと!?)

 それはそれで悲しすぎる。では、手を出してくれていたらよかったのかといえば、それもまた違う。そうなれば、首を吊っているか、返り討ち覚悟で幸庵を滅さんと戦いを挑んでいただろう。

(あああ……、あたしどうかしてる!)

 悶々と一人、頭を抱えていると、奥から冷たい声が聞こえてきた。

「あぁら? 新入りがこんなところで何をしているのかしら?」

 鍵のついた輪っかを、指先でくるくると回しながら、奥屋敷から鈴姫が歩いてくるところだった。

「こそこそと音がしますから泥棒かと思いましたら、本当に泥棒娘ではありませんか。そんなところに金目のものはありませんことよ、間抜けな泥棒娘さん? ぜーんぶわたしがしっかりと管理していますもの」

 隠そうともしない敵対心に佐那は顔をしかめた。自分の正体を考えればこの反応が当然だと思う一方で、佐那個人に恨みでもあるかのような様子に戸惑いも覚えてしまう。

 佐那は雑巾を桶の水に浸しながら主張した。

「今はこの店に雇われた身だから、このくらい当然よ」

「ふん。そうやって幸庵様に媚びを売って、取り入ろうって魂胆ですの? この鈴姫が絶対に許しませんわ」

「そ、そんなことないし!」

 がたん!

 あ、と気付いた時には、鈴姫が水の入った桶を蹴り倒していた。その水がもろに佐那へとかかる。

「嘘をおっしゃい。幸庵様がお前の部屋に泊ったのを知っているのだから。卑しい遊郭の女。一体、どんな手を使って幸庵様をたぶらかしたのか。義賊などと正義ぶってみせても、しょせんただの泥棒ですわ」

 ――ただの泥棒。

 鈴姫の一方的な物言いが、佐那の心にグサリときた。水を被った姿のまま立ち上がる。

「うっさい! あんたたちこそ高利貸しで私腹を肥やしてるくせに。あたしだってちゃんと調べてるんだから! あんたたちのせいで困っている人がたくさんいるんだから!」

「はあ? 何を言っているのかしら? 幸庵様は……」

「――おやおや。朝から二人とも仲の良いことだねえ」

 のんびりとした声に、はっ、としたように鈴姫が口を閉ざした。幸庵が表玄関の広間の入り口に腕を組んで立っていた。

「鈴姫や。これはどういうことかね?」

「……っ……」

 悔しそうに鈴姫は唇を歪めると、無言で踵を返す。幸庵がその背中に呼び掛けた。

「あ、これ。ここを片付けて……いやはや、困った子だねえ。佐那は怪我はないかい?」

「……いえ」

 佐那は立ち上がると、濡れた服の裾を桶の上で絞った。ぽたぽたと雫が落ちる。

「片付けるのを私もてつだ……」

「いいえ! これはあたしの仕事!」

 手を出そうとした幸庵へ、佐那はきっぱりと宣言した。袖で顔を拭ってから振り返る。

「所詮、泥棒なんてこんなもの。それが捕まってしまったんだから、このくらいの仕打ちはいくらでも覚悟してる。もっと酷い立場で使ってくれたって問題ないんだから!」

 幸庵や文福から優しく扱われて忘れてしまうところだった。本来なら鈴姫の反応こそが正しい。『玉楼』に拾われたばかりの頃もそうだったではないか。泥棒など、本来は忌み嫌われる存在でしかないのだ。

「ふむ……」

 上げかけていた手を、幸庵がゆっくりと下ろす。

「本当に佐那はそう思っているのかい? もしもそうなのだとしたら、君には罰を与えないといけないね」

 幸庵の言っている意味がわからなかったが、罰を与えるというのなら、喜んで受けてみせる。佐那は下から見上げるようにして睨み付けた。

 しばらく幸庵は考えている風情だったが、やがて諦めたかのように首を振った。立ち去りながら佐那に告げる。

「今日のところは気の済むようにするといいよ。だけど、次回からそんな自分を卑下するようなことは許さないからね」

 一人残された佐那は、袖で目元をゴシゴシと拭ったのだった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る