第九話 徳利の謎

(あ~、疲れたぁ……)

 質屋での初日が終わり、佐那は自室の布団の上でぐったりとしていた。慣れないことの連続で、体力的なところよりも気疲れをしてしまった。

 あれから浅野屋は大繁盛で、次から次へとひっきりなしに客がやってきた。金勘定に帳簿への記帳と、時々間違えながらも利康のおかげで、何とか乗り切ることが出来た。どうやら幸庵は、相手の様子によって利息や質流れまでの日を変えているようで、それを覚えるまでは苦労しそうだ。

(何が違うんだろう……)

 幸庵の言葉は、仕事をしている間もずっと心に引っかかっていた。

 目利き的なところの違いではないことは確かだ。あれから何度か幸庵に目利きを試されたが、その度に佐那の伝えた値段通りで品物を質に入れていった。

「わっかんないなぁ~……」

 布団の上に大の字に転がって佐那は呟く。感覚的なところで何かが掴めそうなのだが、そのあとちょっとがわからなくて、ずーっともやもやしている。

 引き戸の外。廊下を歩く音が近づいてきて、佐那は慌てて起き上がった。乱れていた浴衣の胸元を直したところで扉が開く。

「やあ。今日は頑張ったね。お疲れ様」

 群青色に金色の稲穂を模した浴衣姿の幸庵が入って来る。その後ろには、膳を持った文福の姿があった。

「お風呂はちゃんと入れたかい?」

「うん。いいお湯だった。ありがと」

 屋敷から出られない佐那は銭湯に行けない。その代わりということで、庭の隅に大きな桶を用意してくれたのだ。四方も板で囲ってくれて、お湯はあやかしが用意してくれて、更には柚子まで浮かべられて、と至れり尽くせり。

「髪を下ろした姿も可愛いねえ。着物姿とは違って柔らかな魅力がある。その浴衣もとてもよく似合っているよ。私の理性は果たして持ってくれるのだろうか」

 佐那は自分の姿を見下ろして小さく肩をすくめた。着物と同じ朝顔の花柄模様の浴衣。幸庵に乗せられている気しかしないが、この趣味は佐那も嫌いではない。

「『玉楼』には及ばないかもしれませんけど、台所のあやかしが丹精込めて作りましたからね。きっとお口に合うはずです!」

 てきぱきと、二人の前に膳を準備しているのは文福だ。白米に吸い物。鯛の焼き物に鯉のなます、野菜の煮物、酒の肴になりそうな小鉢の数々。最後に徳利と猪口を二つ置いた。

「それでは、ごゆっくりお過ごしください。何かあったら呼んでくださいね!」

 引き戸の前で礼をしてから、文福が部屋から出る。

「で、これは、どういうこと?」

 並べられた二人分の食事を眺めながら佐那は眉をひそめた。

「もちろん夕餉だよ? 夫婦は一緒にするものだと相場が決まっているじゃないか」

「いや、あたしは認めてない……し!?」

 そこまで言ってから、佐那はさっと青ざめた。

 このまま初夜までしようと企んでいるのではないだろうか。佐那に着せた浴衣といい、この部屋の雰囲気といい、逃げ場がなさすぎる。

「君が何を考えているのかは知らないが」

 幸庵は膳から徳利を取ると、手づから二つの盃に注いだ。

「私は本気で佐那を嫁にしようと思っているのだよ。それまで、君に嫌われるようなことはしないと信じて欲しいのだけどねえ」

 自分の肩を抱いて警戒心も露な佐那の前に猪口が差し出される。その瞳は、少しばかり傷ついているようにも見えた。

「…………ごめんなさい」

 佐那は素直に頭を下げた。幸庵の瞳や態度からも嘘は見えない。『玉楼』では男に騙されて、無理やり押し倒されそうになったこともある。だが、目の前の幸庵からは、その時の男ような、媚びるような色はどこにもない。

「佐那は素直なよい子だね。これは仲直りの一杯だ」

 こくり、と頷き佐那は猪口を受け取る。幸庵は自分の猪口を取ると、一気に煽った。佐那もちびり、と舐めるようにして飲む。

「……美味しい」

 まるで水のような口当たりに、感嘆のため息が漏れる。『玉楼』でも当然酒は出るが、これほどのものは最上級の部類だ。

 佐那は前に用意された料理へと箸をつける。どの料理も薄めの上品な味付け。素材が良くなければ出来ない調理法だ。味だけではなく見た目も楽しませる料理に、疲れてお腹が空いていたこともあり、佐那は夢中になってしまった。

「酔い潰してどうこうなどは考えていないから、佐那は安心して酔い潰れるとよいよ」

 空になった猪口に、何杯目かのお代わりが注がれたところで、はっ、と佐那は我に返った。

「待って、あたしがする!」

 この屋敷の主人は幸庵だ。今の佐那は彼に雇われの身。主人を差し置いて自分だけが黙々と飲み食いするなどあり得ない。佐那は箸を置くと、幸庵の手から徳利をひったくるようにして奪った。

「おやおや。佐那は気にする必要はないのだよ。ここで私は、佐那をしっかり餌付けしないといけないのだからね」

 茶化したような物言いに、佐那はケラケラと声を上げて笑った。少しお酒が入ったからか、ふわふわと気持ちが愉快な気分になっている。

「あら、あたしは『玉楼』の女よ。お客を楽しませるのに、お酌くらいはして当然!」

 佐那は膝立ちで身体を進めると、幸庵の隣へと座る。

「さあ、さあ! 幸庵は幸せ者ね。『玉楼』のおもてなしが無料で受けられちゃうの! それとも、あたしのお酌が呑めないっていうの!?」

 ずずい、と迫ると、戸惑ったように幸庵が猪口を差し出してくる。佐那は幸庵の肩に身体を寄せながら、とくとく、と酒を注いだ。

「むむ……佐那は呑んだら性格が変わる娘かな?」

「あははは、なぁにを言っているの? あたしはいつもこの通りよ!」

 佐那はやや上気した頬でますます身体を近づけてご機嫌だ。幸庵の置いていた箸を持ち、野菜の小鉢を手に取った。

「はい、お口開けて~、あ~ん」

「あ、あ~ん……?」

 目を白黒させる幸庵が面白い。いつの間にか佐那は幸庵の膝の上に座ると、お代わりのお酌をしたり、自分でも肴を食べたりしていた。

「ほんと、このお酒美味しい……」

 自分の盃にも注いで、うっとりと透明な液体を眺める。

「まったく、佐那は私の理性を試そうとしているのかな? よもや自分から進んで酔い潰れにくるとは思わなかったよ。今日はこのくらいにしておきなさい」

「え~……」

 背中越しに伸びてきた幸庵の手が、持っていた徳利と猪口を奪い、佐那は不満だとばかりに唇を尖らせた。

「……あ、それって、もしかして」

 膳の上に置かれた徳利を見て、佐那は小さく声を上げた。

「おや、今ごろ気付いたのかい?」

 幸庵の膝から乗り出すと、ぐるりと視界が回って佐那はバランスを崩しかけた。それを幸庵が背後から抱くようにして支える。

「今朝の徳利だぁ!」

「うんうん、そうだね。でもね、佐那、それだけかい? 他に何も気が付かないかい?」

「えぇ~……? なんらろう~?」

 少々呂律の怪しくなってきた佐那だが、その頭で必死に考える。お客から出されたなぞなぞは、場を盛り上げる大きな材料だ。

「ははは、目に見えるものだけが真実ではないよ」

 徳利に穴でも開けるかのごとく見詰めている佐那を見て幸庵が笑った。

(目に見えるものだけが真実ではない……?)

 両手で徳利を抱えるようにして、佐那はもう一度徳利を観察した。徳利の口の中は真っ暗で、まるで深淵の中を覗き込むかのよう。いくらでもお酒が出てきそうな錯覚すら受ける。

(あ、もしかして)

 佐那はそのまま両の瞳を閉じた。視覚を切って、陰陽師としての感覚を研ぎ澄ます。やがて、ぼう、と淡い生命力のようなものを感じてきた。

「わかったー!」

 子供のようにはしゃいで叫ぶ。

「これ、付喪神になりかけなんだー!」

「御名答。よくわかったね、佐那。とっても偉いぞ」

 いい子いい子、とばかりに頭を撫でられ、佐那は気持ち良くなって目を細めた。幸庵に背中を預けながら、ふぁ~あ、と欠伸を一つ。

「だからかぁ。買取の価格がこんなに高かったのは」

 眠くなってきた頭で文福が教えてくれた事を思い出す。この屋敷には幸庵が引き取ったあやかしがいるのだ、と。

 質に入れられるような品物は高価だけでなく、年季が入った品物も多い。付喪神間近の品物を、相場以上のお金を払って積極的に買い取っているのだろう。

「幸庵って、あやかしのことを考えているのねえ……」

 うとうと、と舟を漕ぎながら佐那は呟く。

「ふふふ。私は妖狐だからね。頼って来る者は守ってやらないといけないのだよ。少しは見直してくれたかい……って?」

 ぐらり、と佐那の首から力が抜ける。幸庵は慌ててその身体を支えた。

「佐那……佐那? もしかして、眠ってしまったのかい?」

 あどけない寝顔は完全に無防備で、幸庵の腕の中で安心しきっているかのよう。

 やれやれ、とばかりに幸庵は眉尻を下げた。頬にかかっている髪を払ってやりながらぼやく。

「私を信用してくれているのはいいのだけどねぇ。この寝顔は、私以外には絶対に見せてはいけないよ? あっという間に食べられてしまいそうだ」


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