第五話 そして、屋敷に連れ戻される

「――う……ぁ……」

 弱々しく右手が虚空に上がる。まるで見えない何かを追いかけるように。

 その震える手を、大きな手が優しく包み込んだ。華奢な少女の手はぴくっと震えるも、そのまま委ねるように力が抜けた。

「目が覚めたかね?」

 凍えた心を溶かすような優しい声音に、佐那は固く瞑っていた瞼を開いた。ぱちくり、と何度か瞬きを繰り返して、やっと夢から現実に戻って来た気分になる。

「……生きてる?」

 虚空を彷徨っていた視線がある一点で止まった。心配そうに見詰めてきている幸庵。

「どうして……」

 術が己と人形だけで完結していると思い込んでいた。幸庵の力も常に注ぎ込まれていると考えが至らなかったのは、浅はかと詰られても仕方がない。

 いや、それは些細なことなのかもしれなかった。逃げようとした事実は、見捨てられていてもおかしくなかったはずなのだから。

「説明が足りずに怖い思いをさせてしまったね」

 布団の上で幸庵に膝枕をされている。佐那はぼんやりと幸庵が説明するのを聞いた。

「この屋敷には外の人間、特に陰陽師から見咎められないよう、私の結界がかかっているからね。この人形は私の力が及ぶ範囲で効果を発揮する。だから、屋敷の外へ出た瞬間、術が崩壊してしまった。もっときちんと注意をしておくべきだった」

 佐那の予想通りの説明。だが、彼女が聞きたかったのはそんなことではない。

「あたし、逃げようとしたのに……」

「ふふ、あやかしの嫁にされると聞いて、慌てない娘のほうが少ないだろうねえ」

 幸庵の右手が伸びて来て、佐那の頬にかかっていた髪を払った。そのまま身体を持ち上げられ、幸庵の膝の上で横抱きにされる。もう逃げることは敵わない。これから何をされるのだろうか。

 あやかしが密かに人間を攫っていく噂は事欠かない。それは神隠しとされ、攫われた先でどのような目に遭っているかは誰も知らない。

 佐那は観念して目を閉じた。全身が緊張で強張る。

 ところが、そこから先は何もされることもなく、佐那の頭が優しく撫でられるばかり。

「勘違いしないで欲しいが、私はその場の雰囲気で佐那を嫁にすると宣言したわけではないのだよ。実はずっと君を探していたのだ」

「探していた? あたし、あやかしに知り合いなんていないはずなんだけど?」

 勇気をもって佐那は目を開いた。見下ろしてくる幸庵の表情に邪な気配はなく、本当に彼女の身体を心配しているかのようだ。

「佐那が覚えていないのは残念だが……。私はそのような顔をした君が欲しいわけではないのだよ。忍び込んで来たときのほうが生き生きとしていた。またあのような表情を見せてくれないかい?」

 諦めたというのを見抜かれた。佐那は不貞腐れて頬を膨らました。

「生殺与奪を握られてるのに、あたしにどうしろと……。これから何をされたってあたしは抵抗できないんだよ?」

「死んでもおかしくない傷を負っていたのだから、そこは許しておくれ。だがね、傷が癒えたら、この術は必ず解く。それだけは信じてほしい」

 見下ろしてくる幸庵の瞳は真摯で、とても嘘をついているようには見えない。佐那を一時的に誤魔化したいだけで、これだけの瞳が出来るだろうか。

「……だからって、あたしがなびくとは限らないんだけど? 傷が治って術も解かれたら、さっさとおさらばしちゃうかも」

 挑むような瞳を佐那は向ける。このあやかしは、なぜか自分に執着をしている。素直に解放してもらえるとは、とても思えなかった。

「それは確かに困ってしまうね」

 心底弱ったような幸庵の表情。上級のあやかしがそんな表情をするのがおかしくて、佐那はうっかり小さく吹き出してしまった。

「あはは、どうしてかは知らないけど、あたし如きのためにそこまで困るとか、幸庵って変なあやかし!」

「君はそれだけのことを私やあやかしにしてくれたのだがねえ。思い出さないかい?」

 佐那はふるふると首を横に振った。これほど立派な妖狐の目に留まるとか、そちらの方が驚きだ。

「ふむ……」

 苦虫を嚙み潰したように唇を歪めていた幸庵だったが、ゆっくりと確かめるように口を開いた。

「佐那が私を嫌う理由の一つは、私が悪徳高利貸しだからかな?」

「うーん……まあ、それは一つある」

 ここで下手な返答をしたら機嫌を損ねてしまうかもしれない。佐那は注意深く考えてから回答する。

 初対面なのにとか、あやかし相手にとか、それ以前の問題もあるのだが、嫁にすると宣言されて、最も拒否感があるのはその部分で間違いない。

「なるほど、やはり仕掛けが効き過ぎてしまったというわけだ」

「仕掛け?」

 佐那は首を捻るも、幸庵は一人で納得したように何度も頷いていた。

「明日から傷が治るまで、私の仕事を手伝ってもらおう。それで私の誤解が解ければ、佐那の心も変わるかもしれないというもの」

「どうして高利貸しの手伝いなんか……」

「傷が治っても君の気持ちが変わらなければ、嫁にするというのは諦める。もちろん、屋敷へ忍び込んだことも咎めない。無罪放免。仲間の元に戻してあげることを誓うよ」

「え……?」

 驚きで佐那は目を見張った。まさか幸庵の口からそのような申し出があるとは。

 何しろ相手は冷酷非情な高利貸し、と世間では噂されている。今の佐那にいくら甘い顔をしていようとも、彼女がなびかないとなれば、強硬手段に出るだろうと思っていたからだ。

「その言葉、信じていいのね?」

「もちろんだとも。この幸庵の名にかけよう」

 相変わらず佐那を見詰める幸庵の瞳はまっすぐで、その奥に偽りの気配はない。

 それに、と佐那は別のことを考える。幸庵の仕事を手伝う過程で、悪徳高利貸しの犠牲になる者を救う機会があるかもしれない。義賊を名乗る佐那にとっても、実のある約束になりそうだ。

「わかった。その条件、呑んであげる」

 佐那が頷くのを見て、幸庵の唇が綻んだ。わしゃわしゃと頭を撫でられる。

「やっと生き返ったような、よい顔になってきたね。それでこそ私の嫁。私の佐那だ」

「まだあなたのものになるとは決まってませんーっ!」

 いーっだ、とばかりに佐那は舌を出して見せたのだった。


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