第四話 逃走

「……佐那様ぁ、むにゃむにゃ……」

 三段に重ねた布団の端で、夢の中へと落ちた文福が幸せそうな表情で呟いている。佐那はそのぷにぷにの頬をつついた。目覚める気配はない。

「うふふ、可愛い。ごめんね~」

 佐那の右手には呪符が一枚。陰陽師の術を掛けたのだ。自分の力が通じるか自信がなかったのだが、文福も油断していたのだろう。あっさりと佐那の術にかかった。

 文福がしばらく起きそうにないのを確認してから、佐那はそっと立ち上がった。ぐずぐずしている暇はない。文福から聞き出した話だと、今は夕飯の直前。みんなが銭湯へと出かけ、一日の汗を流している時間帯だ。ここを逃すと、一気に脱出が難しくなってしまう。

 幸いにも自分の忍び装束は、きちんと畳まれて枕元に置かれていた。佐那は寝間着から手早く着替える。

「これも忘れないように持って行かないと」

 佐那は己の身代わりに傷を受けている人形を手に取った。幸庵の強い妖力を感じる。傷が治り切っていないのは事実だろうから、この人形を置いていくわけにはいかない。

(たしかに命を救ってはもらったけど……だからって高利貸しの嫁になるわけにはいかないし。あたしは『朝顔』の佐那だし)

 少しだけ罪悪感を覚えながらも、佐那は人形を背負うようにして紐で括りつけた。

 僅かに引き戸を開き外の様子を確認する。今は誰もいない。佐那は決心すると、部屋から外へ出て、素早く縁の下へと駆け込む。直後、近くから声が聞こえ、何人かのあやかしが頭上を通り過ぎていって冷や汗をかいた。

(あ、危なかった……)

 あと一瞬遅かったら、見つかって大立ち回りをする羽目になっていただろう。

 地面に耳を付けて屋敷の気配を探りながら、佐那は縁の下の柱を縫うように移動した。あまり時間をかけると、佐那が部屋にいないのがバレてしまう。その前に屋敷の外へ出てしまいたかった。

(もう少し……)

 縁の下から蔵の物陰へと飛び移り、じりじりと通りに面する白壁へ近寄っていると、不意に背後の方が騒がしくなった。佐那、という単語も聞こえる。どうやら部屋にいないのが露見してしまったらしい。

 しかし、ここまでくればもう逃げられる、と佐那は確信していた。

 背中で人形を縛っていた紐の一部を解く。数間の長さになり先端には鉤爪がついている。それを頭上でぐるぐると回し、勢いをつけて白壁の上端を狙って投げた。ぐっ、と引っ張ると鉤爪が塀にかかった感触。

 ぐいっ、と縄を引っ張り、佐那は壁に足を掛けた。そのままバランスを取りつつ登り、あっという間に壁の上端へ。高さを見定めて塀の外へと身を躍らせる。たんっ、と身軽な音と共に佐那は脱出に成功していた。

「よし、さすがあたし、完璧! あとは逃げるだ……!?」

 走り出そうとしたところで、胸が強烈な痛みに襲われ、佐那はがっくりと膝を落としていた。

「なん……で……」

 突然の出来事で頭の中が混乱する。ぽたり、ぽたり、と赤い雫が忍び装束を伝って地面に染みを作った。やっとのことで背中の人形を下ろして確認すると、ぽっかりと空いた胸の穴がさらに広がっている気がした。

(もしかして……幸庵が抑えていた?)

 術の種はこの人形だと考えていた。人形を屋敷に置くことで、佐那の取れる選択肢を狭めているのだと思っていた。

 だが、更に幸庵が何かしらの術を掛けていたとしたら……。屋敷の外は、幸庵の力の範囲外なのかもしれない。だから逃げないように忠告されていた。そこから外れた今、人形に移されていた佐那の傷は、致命傷となって彼女に襲い掛かっていた。

「ごふっ……」

 おびただしい血の塊を吐き出し、佐那はたまらずその場に倒れ伏した。流れ出す血がるみるうちに広がっていく。

(ごめん、みんな……もうダメだぁ……)

 虚ろになった瞳がゆっくりと閉じられていく――


    ☆


「――お前はどうしてこんなに出来が悪いのだろうねえ」

 十歳に少し足りない少女の前には、何枚もの紙のお札が散らばっていた。少女が発動できなかった式神や術式の残骸。陰陽師の卵であればだれでも扱えるような簡単なものばかり。それをことごとく失敗した少女は父親から厳しく叱責されていた。

(ああ……いつもの夢だ)

 うなだれている少女を何処からか見下ろしながら、佐那はぼんやりとそんなことを考えていた。幼い頃の記憶だ。自分がまだ陰陽師を目指していた時期の。

「あまつさえ……!」

 父親は忌々し気に舌打ちをした。その理由も少女――佐那には分かっている。

 陰陽師は人間に害を成すあやかしを退治する存在。それなのに、佐那はあやかしを逃がしてしまったのだ。

「だって……だって!」

 嗚咽を漏らしながら佐那は袖で涙を拭いた。

 修行のために連れてこられた一匹のあやかし。手の平に乗るほどの大きさで、つぶらな瞳をした小鬼。ぶるぶると震えている姿は、とても人間に害を及ぼすとは思えなくて、むしろ可哀そうに思ってしまったのだ。滅する事なんてとても無理だ。

 元々、陰陽師としての才能を見せられないではいたけれど、これでは成功する要素は一片たりともなかった。

「無能な娘だとは思っていたが、あやかしの味方をするほど物分かりが悪いとは」

 襟首を掴まれるようにして立たされ、佐那は喉の奥で「ひぃ」と悲鳴を上げた。

「来なさい」

「やだっ、いやだぁ!」

 また一人、暗い蔵に押し込められてしまう。そう察して泣き叫ぶ。

「今回の件は陰陽師としてとても看過できん行為だな。きつく仕置きをせねば」

「いやぁぁっ!」

 暗い蔵に何日も閉じ込められ、飢えと渇きで死にそうになったところで出される。前回は意識が朦朧としてきたところで何とか許された。

「お願い、お父様! あたしもっとちゃんと頑張るから! だから許してっ!」

 大きな蔵の扉が佐那の目の前で、重々しい音を立てて閉まった。

 いくら泣いても喚いても結果は変わらない。何度叩いても出してもらえる気配はないし、扉もびくとも動かない。

「うぅ……」

 真っ暗な蔵の中で佐那のすすり泣きだけが聞こえるのだった。

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