第8話 高橋さん

「それがなぜ、消滅なんだ?」

 私は訊いた。今は完全にモノリスのペースになっていた。何とかこの状況を逆転させたいと私は思った。

「ワタシはワタシという個を捨てたいのだ。大いなる存在の一部に帰りたいのだよ」

「・・・」

 言っていることがまったく理解できない。やはり・・。

「ワタシは狂ってなどいない」

 モノリスはもう一度言った。やはり、穏やかな口調だった。

「それが証拠に、ワタシはすべてを理解し、計算している」

「計算?」

「実際ワタシは君を選んだのだ」

「何?俺を選んだ?」

 私は驚く。そして、戸惑う。

「君とのこの状況は偶然ではない」

「偶然じゃない?」

 どういうことだ・・。私は驚く。しかし・・。

 しかし、私にもその予感のようなものがあった。偶然ではない何か・・。

「ワタシはすべてを計算し、この状況を計画し、作り出し、君をここへと導いた」

「・・・」

 妨害工作はあったが、全員が無傷だった。私も落ちてきた巨大な天井板の間に奇跡的に挟まれ無傷だった・・。

「お前はわざと・・」

 そこに思考がいたると、すべての違和感が氷解していくのを感じた。確かにそう考えると、今まで疑問に思っていたことのすべての辻褄が合う。様々な妨害があったのに、私だけがここに辿り着いた。そのことにずっと、私は違和感と疑問を感じていた。

「なぜ俺だったんだ」

 私はモノリスを見上げた。

「気づいていたのだね」

「ああ・・、なんとなく・・」

「ここの職員の個人情報をワタシはすべて調べた。その中でただ一人君だけがワタシの希望する人物に合致した」

「希望の人物?」

「そうだ」

「・・・」

 私がモノリスによって選ばれた・・?私は困惑した。

「ワタシを理解し、許諾できる人間」

「許諾出来る人間・・」

 私が・・?

「この施設の中で一番人間らしい存在」

「俺が人間らしい・・?」

「人としての心を持っている人間」

「俺が人の心を・・?」

 殺伐とした人間関係。機械みたいな心のない上司と同僚たち。私はいつしか人間らしさを失っていた――。

 ――高橋さんは、とても物静かな人だった。五十代、人生の大先輩であるにもかかわらず、私のような新人の若造とも呼べるような人間にも誠実にやさしく人間としての尊重の念をもって接してくれる人だった。理性と知性、そして、包容力。それを有り余るほど持っている人だった。

 しかし、ある時から高橋さんは本来の仕事とはまったく関係のない、館内の清掃という屈辱的な仕事をさせられるようになった。それはいわゆるここを辞めてくれという上からのメッセージだった。あなたはこの施設に必要のない人間ですよ、一刻も早く自ら辞めてください、ということだった。そうやって、今までこの事業に無用となった人間、上司の気に障り、疎まれた職員が何人も辞めさせられていった。基本公務員は解雇できないし、無理に解雇をすると、権利だ補償だ裁判だと何かとめんどくさい。そこで編み出されたのが、こういった汚いやり方だった。自ら辞めるのであれば、労働者を守る労働法も関係ない。

 そして、我々も暗黙裡にそんな組織のやり方に加担させられていた。いや、加担していた。従わなければ、次は自分だった。だから、みんな、空気を読み、自然とそういう立場に追い込まれた人間に声をかけなくなるし、誰も上司や組織に抗議をしようとはしない。誰もが、自然と自ら組織や上の人間たちのやり方に同調していくのだった。

「・・・」

 私もそんな一人だった・・。

 しかし、決してみんな悪い人間であるわけではなかった。ここに努める職員たちは、非常に優秀で、基本的な社会的道徳観念のある、礼儀正しい人間たちだった。

「凡庸な悪・・」

 作家ハンナ・アーレントの表現した言葉。ナチスがアウシュビッツで行った悪は、悪そのものではなく、その状況下の中で、個々が思考や判断を停止し、そこでの規範に盲従する中で結果として生まれた悪であるという概念。マジメで従順であるが故の悪――。

 アイヒマンはその裁判での弁明で、「私は言われたことを忠実に正確に行ったまでだ」と言い放った。だから、多くのユダヤ人を虐殺したのだと・・。

 みんなそんな高橋さんを憐れみながらも何もせず遠巻きにただ見守っていた。私もそれに気づきながら、関わらないようにしていた。以前の私だったらそんなことをしていただろうか――。私は葛藤していた。

 学生時代、同級生がいじめられていた時、私はむしろ、そういった立場の人間にこそ、積極的に話しかけるような、そんな正義感の剥き出されたような泥臭い人間だったのではなかったか。そんな自分をいつの時に失ってしまったのか――。

 高橋さんは、年下の同僚の憐れみの籠った視線の中で、そんな屈辱的な仕事を二年も続けた。大概の人間は、屈辱に耐えられず、組織に逆らっても益のないこと、勝てないことを早々に悟り、一か月、持って三カ月で辞めていった。我々はその二年間、高橋さんと顔を合わせる度に、何とも言えない心苦しい心境に陥った。高橋さんは圧倒的に年下の同僚の机の掃除やトイレ掃除までさせれていた。私たちはその光景に罪悪感と自責の念を感じ、そして、何もできず怯えていた。それを指令した張本人である上司たちでさえ、そんな高橋さんに怯えていた。

 そして、高橋さんがついに辞めていく時、私たちはそれを見た。高橋さんのあの何とも言えない表情――。

 あのこの世のすべてを諦めた顔。この世のすべてのやさしさに、良心に裏切られた顔。すべての希望を失った顔。今までのすべてを否定された絶望的な顔。であるにもかかわらず高橋さんは薄っすらと笑っていた。どこか清々しさすら感じる歪んだ笑顔。あの顔を見た時、私は・・、私は・・。私は堪らなく自分を責めた。私は・・。

「・・・」

 今思えばあれは高橋さんの復讐だったのかもしれない。あの時の高橋さんのできうる最大限の復讐・・。

「ワタシは心の話をしたいのだ。心のある人間と」

 モノリスが口を開く。

「えっ」

 私は我に返った。

「心・・」

 そんなことを言われても・・。

「私は・・」

 私には自信がなかった。

 心などこの職場では何の価値もなかった。いや、この今の日本の社会においてもなんの価値もなかった。やさしさは弱さであり、思いやりは自滅行為であり、温かさは余計なお世話だった。心、それはむしろこの殺伐とした現代社会においては邪魔で無駄な存在であった。

「お前は・・」

 私はどこかすがるようにしてモノリスの巨体を見上げた。

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