9 彼のことが好きだ

「君が望むなら、日本へ帰るのもいいと思う。実際に君には、亡命の意志はない」

 朝乃は、すがるようにドルーアを見た。

「ただ日本に帰った君は、二度と逃げ出さないようにどこかに監禁されるだろう」

 しかし彼の言っていることは辛辣(しんらつ)だった。

「だが交渉次第では、もとの生活に戻れるかもしれない。あるいは、ぜいたくな暮らしができる可能性もある」

「私がもとの生活に戻れるとして、裕也はどうなるのでしょうか?」

 朝乃はたずねた。

「君を人質にとっている人たちの言うことを、裕也は聞くだろう。だから彼は、日本軍に戻る」

 日本には帰れない、と朝乃は思った。裕也を縛る人質にはなりたくない。ドルーアは話し続ける。

「もちろん裕也の望みどおりに、浮舟に亡命するのもいいと思う」

「君が亡命すると決めたならば、俺もドルーアも手助けする」

 功が頼もしく言い足した。朝乃は、裕也の言葉を思い出す。裕也は、朝乃を守る男のところへ朝乃を送ると言った。それは多分、功のことだ。裕也は朝乃を功の家に送るつもりが、まちがえて近くにあるドルーアの家に送ったのだろう。

「君が選べる道は、ほかにもある。浮舟以外の中立の月面都市、――たとえばリゼと同じイーストサイドへ行く。または地球の中立国に亡命する。日本にもっとも近いのは、台湾だ」

 功がしゃべる。

「もしくは中立以外の都市や国家を選び、そこの兵士として裕也君に戦ってもらう。地球でも月でも、裕也君と君は歓迎されるだろう。それこそ月面都市の兵士として、地球と戦うという手もある」

 地球、――日本を裏切るという選択肢もあるらしい。朝乃は想像するだけで怖くなった。

「裕也の望みどおりにしてもいいし、彼の望みに反してもいい。君の運命は、君が握っているんだ」

 ドルーアは優しくほほ笑んだ。が、朝乃はうなずけなかった。今まで自分の道を、自分で選んだことがない。朝乃の人生は、朝乃以外の人たちによって決められてきた。

 両親が死に孤児院に入り、学費が払えなくなれば学校をやめた。孤児院に人手が足りなくなれば、家事や育児をした。国が男性の従軍年齢を十六才以上に引き下げたことにより、裕也が宇宙へ行き、唯一の肉親とも別れた。

(そして私も、十八才になれば軍で働く。十代で軍に入るのは、孤児や貧乏な家の子どもたちだけ。でも仕方がないよ)

 その朝乃の将来が、裕也の意志と超能力によって変わった。このまま、亡命者として浮舟で暮らすべきか? にわかには想像できなかった。そして日本を捨てる覚悟も、言葉の通じない異国で暮らす覚悟もできない。そもそも外国暮らしが、どんなものか知らない。

 朝乃が悩み黙っていると、功が立ち上がった。自分の飲んでいた湯飲みを持って、キッチンへ向かう。ドルーアは座ったままだ。朝乃は彼に頼りたくなり、視線を向けた。

 ドルーアは朝乃を見ていた。海のように深い、そして波も風も感じさせない瞳で。彼は朝乃よりも、朝乃の価値を分かっているようだった。

「君が自分で決められないのなら、僕にすべてを任せてもいい」

 彼は、ふんわりと笑う。

「君は僕に従うだけでいい。何の心配もなく、心穏やかに暮らせるだろう」

 朝乃は月に来てから、ドルーアの指示に従うだけだった。だからこれからも、彼に任せればいい。日本にいたときのように、えらい人や賢い人たちの命令に従えばいい。

 さっきだって功に、孤児院に連絡するかどうか自分で決めろと言われて、困ったではないか。朝乃には、自分で決める力はない。自分が無知で無学と分かっている。浮舟に来て、よりいっそう無知と分かった。

(けれど、なぜだろう。このドルーアさんの提案に、うなずいてはいけない気がする。ドルーアさんも、私がうなずかないことを望んでいるように見える)

 自分で考えて、自分で決めよう。朝乃は、そう決心した。私はこれから、どうしたいのか。日本に帰りたい? ここにいたい? それとも、別の国へ行く?

 ――裕也に会いたい。いろいろ考えたすえに浮かんだ、朝乃のもっとも強い願望はそれだった。だが弟は変わった。今、何をやっているのか、何を考えているのか分からない。

 孤児院の調理室に突然現れた裕也は、見かけも変わっていた。奇妙な軍服を着て、髪は伸びてぼさぼさだった。いや、そんなことより、前はあんな暗い目をしていなかった。他者に恐怖を与えるような、異様な雰囲気をまとっていなかった。けれど、

「本当に危ないときは助けに行くから、俺を信じて待っていて」

 裕也は朝乃に、そう告げた。朝乃と裕也は、ずっとふたりで支え合ってきた。家族として、愛し合ってきた。だから何があっても、朝乃は裕也を信じられる。

「私は裕也の望みどおりに、浮舟に亡命します」

 口に出した瞬間、朝乃と故郷をつないでいた糸が切れた。不安だし心細い。しかし朝乃の運命は、朝乃が握っているのだ。

「そして裕也を探して、必ず再会します。孤児院のことも心配なので、できるだけ安全な方法で連絡を取りたいです。それから、英語を話せるようになりたいです」

 浮舟で暮らしていくためには、英語が必要だ。ドルーアはがっかりしたような、安堵したような笑みを浮かべた。

「マイ・ディア。君を裕也から、奪うことは不可能だ」

 朝乃はあいまいに、ほほ笑んだ。彼のことが好きだ。恋人のいる男性なのに。ほとんど何も分からない月面世界に飛びこんで、これからどうなるのか分からない。

 けれど朝乃は、裕也を信じて進んでいく。昨日までの日常には戻らない。これが正しい道なのかも分からない。でも産まれて初めて、自分の意志で人生を決めた。きっとこれが、長い旅の始まりなのだ。

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宇宙空間で君とドライブを 宣芳まゆり @mayuri_sen

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