4 ダージリンとアールグレイがある

 ドルーアはドアを開けて、奥の部屋に入った。朝乃はためらいつつも、彼のあとを追いかける。さきほどは腰が抜けたが、意外にしっかりと歩けた。

 歩いていると、体がふわふわする。月って、本当に重力が小さいんだ。そしてやっぱり、ここは月なんだ。朝乃はがっくりとうなだれる。

 奥の部屋はダイニングだった。部屋の中央に長方形のテーブルがあり、いすが十脚もある。十人、――いや、十五人くらいは座って食事ができそうな大きなテーブルだ。

 ここは孤児院だろうか? それとも十人くらいの大家族だろうか? しかしこの家には、朝乃とドルーアしかいない。

「ひとり暮らしですか?」

 朝乃は問いかける。

「君は、僕に関するゴシップ記事を書きたいのかな? でも特別に教えてあげるよ、僕はひとり暮らしだ」

「はぁ。すごく広い食堂ですね」

 ひとりで、この大きなテーブルで食事するのか?

「ありがとう。キッチンはこっちだよ」

 ドルーアは右に曲がり、ダイニングを抜けてキッチンに向かった。こちらも、とても広い。対面式のキッチンで、カウンターテーブルがついている。カウンターには、いすが三脚あった。食器棚には、高級そうなコップや皿などが並んでいる。正真正銘の金持ちの家だ。

 貧乏が身に染みついている朝乃は、気後れする。よく見るとドルーアの服は、――部屋着のようだが、いかにも高そうで、おしゃれだ。髪だって一見無造作に見えるが、ちゃんと整えられている。

 朝乃は急に、適当に横一直線に切った自分の前髪が恥ずかしくなった。前髪以外は胸のあたりで、これまた適当に切って、後ろにひとつでくくっているだけだ。

 服やエプロンも、お下がりでもらって着古したものだ。くたくたのTシャツに、すり切れたジーンズをはいている。お世辞にも、きれいとは言えない。孤児院では、自分の身なりに構う余裕はないのだ。ドルーアはキッチンに入ると、

「ダージリンとアールグレイがあるけれど、どっちがいいかい?」

 朝乃には分からないことを聞いた。

「ダージ? 何ですか?」

 彼はくすりと笑う。

「ベイビー、君のために、おいしくて飲みやすい紅茶をいれるよ」

 朝乃はむっとした。今、すごく子ども扱いされた。ベイビーは赤ちゃんだ。それくらいの英語なら、朝乃にも分かる。朝乃は孤児院では最年長の十七才で、今年の十一月には十八才になり成人するのに。

「君は、いすに座って待っていて」

「はい」

 なんだかしゃくだが、朝乃はカウンターのいすに腰かけた。いすは背が高く、足がぶらんぶらんとした。ドルーアは小さなやかんに水を入れて、コンロの上に置く。

 朝乃は手持ちぶさたになって、エプロンの大きな前ポケットから旧式のタブレット型コンピュータを出した。画面を見ると、案の定ネットワークに接続されていない。これでは通話もメールも、Webサイトへのアクセスも不可能だ。朝乃は、ため息をついた。

 裕也と話したい。孤児院に連絡したい。助けてほしい。裕也は何を考えて、朝乃を月に送ったのか。朝乃が消えて、孤児院はどうなっているのか。夕ご飯のカレーライスはちゃんとできて、子どもたちは食事できているのか。

「あ」

 朝乃は、ふと思い至った。

「なぜ日本語をしゃべっているのですか?」

 ドルーアが日本語を話すので、朝乃は最初、ここは日本と思ったのだ。

「祖父が日本人だ。それに浮舟には、日本人がたくさんいる」

「敵国なのに、なんでですか?」

 朝乃は驚いた。

「ここは敵国じゃない」

 ドルーアは、クッキーのたくさん入った皿を朝乃の前に置く。

「浮舟は中立都市だ」

「中立? 戦争していないのですか?」

 朝乃は、まゆをひそめた。地球と月にいる全人類が、戦争していると思っていたのに。

「そう。月面都市は四十ほどあって、浮舟を含め中立都市は十五ある。なので地球月間の貿易は、開戦前と同じ規模で行われている。さすがに、人の行き来は減ったらしいけれど」

 朝乃は、開いた口がふさがらない。そんなことは知らなかった。毎日いそがしいなりに、インターネット上で流れてくるニュースをチェックしていたのだが。

 ドルーアはカウンターに、紅茶を置いた。かわいらしいデザインのカップとソーサーだ。いいにおいがして、暖かそうなゆげがたっている。

「でも戦争に参加していないなんて、火星を取られてもいいのですか?」

 朝乃は言ってから、昔、両親にも似たようなことを聞いたなと思い出す。ドルーアは肩をすくめた。

「地球にも中立国はある。カナダとか台湾とか」

 朝乃は言葉をなくした。地球上の中立国なんて、聞いたことがない。ドルーアがうそをついているように思える。彼は朝乃をだまそうとしているのかもしれない。

 朝乃は不安になって、ドルーアの顔を見た。彼は自分用のマグカップを持ってキッチンから出て、朝乃の隣に座った。ちらりと朝乃を見てから、紅茶を一口飲む。

「話は戻るが、浮舟には日本人亡命者が多い」

「亡命……」

 朝乃は、信じられない思いでつぶやいた。日本政府は、国民たちに国外へ出ることを禁じている。けれど、どのような理由があるのか、日本から出ていこうとする人々がいる。だがみんな途中でつかまって、厳罰に処される。ひどいときには公開処刑にもなる。

「国外脱出を成功させた人々が、いっぱいいるということですか?」

 ありえない。日本から出るなんて不可能なはずなのに。日本は島国だから国外に出るのが困難と、ニュースキャスターがしゃべっていた。

「そう。日本人街(ジャパンタウン)ができている。そこでは日本語が通じるし、日本料理も食べられる」

 いったい何人いるのだ? 街ができるなんて、十人や二十人ではないだろう。百人とか、まさか千人とか一万人とか。

「ところで君は、月面英語が話せるかい?」

「いいえ。日本語しか話せません」

 学校に通っていれば、アメリカ英語くらいはしゃべれたのかもしれない。しかし孤児たちはたいていの場合、学費が払えずに学校へ行けない。

 ただ、体を売って学費を稼ぐ子どもたちもいる。学校を卒業した方が、従軍したときに高い給料がもらえるのだ。だが朝乃たちの孤児院では、売春は禁じられていた。

「そうか。じゃあ、裕也はそこまで考えて、君をここに送ったんだ。日本人街なら、月面英語がしゃべれなくても、さほど不便はない。さらに日本人向けの学校もある」

 ドルーアは優しく笑った。

「つまり裕也は、君を亡命させた」

 亡命、すなわち国外逃亡。朝乃は、ぞーっとした。とんでもない犯罪をおかしてしまった。なぜ裕也は、そんなことを朝乃にさせたのか? 軍の命令で、朝乃を国外に出したとは思えない。

「まさか裕也は、軍から逃げたのでしょうか?」

 恐怖で声が震える。軍からの脱走は、国外に出ること以上に重罪だ。朝乃の血の気は、どんどん引いていく。

「裕也は軍人かい?」

「はい」

 ドルーアの顔は険しくなった。

「十八才未満の子どもを軍に所属させることは、星間人道法に違反している」

 朝乃は、彼の言っていることが理解できない。彼は力を抜いて、また肩をすくめる。

「ひとりごとだ、気にしないでくれ。それから浮舟政府は、日本人亡命者を保護する。日本政府や日本軍が何を言ってきても、浮舟内にいる君を渡さない」

 朝乃はやっぱり、彼の言うことがよく分からなかった。

「君は安全と言いたいのさ」

 ドルーアは軽く笑う。

「でも」

 朝乃は言葉に詰まる。今までずっと従順に生きてきた。なのに自分と家族が、こんな犯罪を犯すなんて……。これからさきのことが想像つかなかった。

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