第20話

エスター様が御子を産んでから少しの時が経って、なぜか辺境伯家宛てに王家が書簡を送ってきた。


その書簡を読んだグルーは、すぐに私を執務室に呼び出した。


行ってみると、椅子に腰掛けて気難しげな険しい顔をしている。


何か無理難題でも持ちかけられたのだろうか?


「……王家からの書簡には、何と書かれていたのですか?」


「どうやら、王太子妃殿下が大変な難産で女児をお産みになったそうだ」


レモネードを口にしていたと王都では聞いたから、酸味を欲するなら男児で辛味を欲するなら女児という俗説の通りなら、男児かと思っていたけれど……悪阻があった間だけ酸味を好んでいたのかしら。


「それは、母子共に無事でお産まれになったのでしたら、おめでたいと思いますが……」


「問題はそこなんだ。どうも妃殿下は難産で体を弱くしてしまったらしい。二度と子供は望めない身になって……王太子殿下は殿下で、せめて夜を共にしようとしても、妃殿下に残った妊娠線を恐れて直視出来ずにいる、と」


「妊娠線は、女性が身ごもった子を育んだ証ではないのですか?」


「そうなんだがな……王太子殿下は世の中の綺麗なところばかりを見て育ったようだ」


「わがままですわ、そんなの。ただの世間知らずではありませんか」


「その通りだ。──しかし、現実問題として、妃殿下に世継ぎは出来なくなったし、王太子殿下と共寝も出来ずにいる」


「それはお可哀想ですが……なぜ辺境伯家に書簡を?」


「そこなんだ。どうやら俺はお前の夫というより保護者と見なしているとある」


「……は?」


「つまり、保護者として、お前を王太子殿下の側妃に差し出せと書いてあるんだ」


「──身勝手にも程がございます」


「俺もそう思う。第一、俺はお前の親代わりじゃない。手順を踏んで夫になった身だ」


グルーははっきり断言してくれているけれど、もし強制的に王宮へ入れられたらと思うと、ぞっとする。


王宮ではエスター様を妃殿下として崇拝する者も少なくないはず。そんな所に後釜として行けば、何をされるか分かったものではない。


「私はグルーの妻です。王宮の問題は婚約者候補として敗北した過去がございますもの、既に無関係ですわ」


「ああ。──念の為訊いておくが、王太子殿下に未練はないな?」


「全くございません」


言い切りながら、私をゲームのハッピーエンドを思い出していた。


結婚式で祝福と幸せに包まれたエスター様。あの後のエスター様は、末永く幸せに生きたとばかり想像していてのに。


逆に、悪役令嬢として落ちぶれた私が、グルーから大切にされて安穏と暮らしているだなんて。


「そうか、──そうだな。俺達は初夜こそ先延ばしにしていても夫婦なんだ。……しかし、これはお前にとって妃殿下に報復する機会でもあるが……」


報復する──私を落ちぶれさせたエスター様に復讐するチャンスだと言いたいのだろう。


確かに、ここで王宮に入って、万が一の場合だけれど、少しでも王太子殿下から愛されれば、すなわちエスター様への仕返しになる。


もっとも、一夜の夜伽を命じてくるような王太子殿下だ。腹のうちは見えない。いえ、真っ黒かもしれない。それを承知の上で飛び込めば、エスター様に意趣返し出来る可能性はある。


だけど。私は私の生き方を選びたい。


「報復するという事は、復讐を望んで相手を憎まなければなりません。そして復讐の為に生きるのだとしたら、常に憤っていなければ果たせませんでしょう。私は憤りに命を捧げながら暮らす程の悲しみを、存じてはおりません」


「……そうか、アリューシャ。ならばお前は絶望していないんだな」


「グルー、あなたがいて絶望は出来かねます。私は、あなたがもたらした希望で、侯爵家のしがらみから自由を得ました」


言うだけ言うと、グルーはなぜか私から目を逸らして、深く息をついた。


「グルー……?」


何か言いすぎたりしたのだろうか?


グルーは間を置いて、噛みしめるように口を開いた。


「……俺の妻は、可愛くて聡明だ。こんな妻を手放すだなんて出来るわけがないだろうに、王家の連中ときたら……」


「グ、グルー?可愛いって……何ですか、藪から棒に」


「いや、俺は常々思っている事を言葉にしただけだが……何かおかしかったか?」


「おかしいかどうか、ではありませんわ。私のような意地っ張りの女など、可愛げがあるわけございません」


「無自覚だから可愛いんだ。……しかし、そうなると王家は頭を抱える事になるな……まあ、アリューシャを苦しませた王家なぞ知った事ではないが」


「頭を抱える?側妃としてでも、王太子殿下のお世継ぎを産みたい令嬢なら掃いて捨てるほどいるでしょうに」


私が首を傾げると、グルーは苦々しそうに言った。


「何でも、妃殿下が……側妃を迎えるならばアリューシャ以外は認めないと言って聞かないそうだ」


それは言葉通りに受けとめてはいけないと本能で悟る。それもそのはずだ。


「結婚式で私にあんな恐ろしい顔をした妃殿下が、どのような心境で口にされたのか分かりませんわ」


「ああ、あの表情は悪意に満ちていたしな」


「グルーも見ていたのですか?」


グルーの目ざとさが少し意外に思えたけれど、私よりずっと大人で経験豊富な分、視野が広いのだろうか?


「自分の妻に憎しみを向ける人間に疎くなれる程、俺は鈍くないぞ。あれが決定打でお前が体調を崩したと思ったしな」


「そうでしたのね……」


そうなると、当時からグルーは私を重んじてくれていた事を、改めて実感してしまう。アリューシャが私に代わるよりも前から。


──なのに、アリューシャは全てを拒んでいたのね。


「まあ、心配するな。王家には断固として辞退する旨を伝えるからな」


「王家への謀反にはなりませんよね……?」


この話を断る事で、辺境伯家が危機に見舞われたら怖い。


だけど、グルーは至って冷静だった。


「言葉なんぞ、どうとでも操れるからな。アリューシャは既に純潔を失っているとでも返事をすればいい」


正直、なるほどと思った。遥か昔から、後宮やハレムに入る女性というのは、純潔なのが当然だったのだし。


「よろしくお願い致しますわ、私はここを離れたくはありません」


「そうか、離れたくないか。やっぱり俺の妻は可愛くて心臓に悪いな。──ここは任せろ」


「それはグルーが、あばたもえくぼで可愛がっているだけでしょう。ともかく、交渉はお任せ致します。私は大人の知恵に助けて頂く必要がありますもの。頼みますわ」


「アリューシャは俺が責任を持って守るよ。書簡を読む限り、どうも国王の意思というより、王太子妃殿下が言い張っているから要請しただけに過ぎないみたいだしな」


「そうなのですね……妃殿下が……。ならば、なおの事お断りですわね」


元いた世界は、私に大切な存在を喪わせた。


だけど、アリューシャから押しつけられた──いえ、託された人生からは、何者も喪わさせはしない。


私は大切なものを大切に守ってみせる。


「グルー、私の人生は理不尽から始まったものです。ですが、私はこの人生を幸福で満たしてみせます。その為にはグルーと共に生きる事が欠かせません」


そう、新しく得た大切な存在──グルーと、あとは辺境伯家の人達。私が私として今を生きるのに欠かせない存在と共に生きてみせる。


決意をこめて告げた私を、グルーはどこか眩しそうに、そして気のせいでなければ愛おしそうに見つめていた。


グルーが返事を送った後、それを受けたエスター様は、辺境伯家からの固辞にたいそうな憤りを覚えたそうだ。


無表情になり、それから沈鬱な面持ちに変わり、気遣わしげな様子の使用人達に向かって今にも消え入りそうな儚い笑みを浮かべた。


「……アリューシャ様は、よほど私が憎いのね……悲しいわ。でも、私には赤ちゃんがいるから大丈夫よ……この子といると、心が洗われるようだわ。少し、赤ちゃんと二人きりにしてくれる?心を鎮めるには静けさも必要なの」


そう言って人払いをして、産まれた赤子の眠る揺りかごに歩み寄り、寝顔を見下ろしながら独白のように語りかけた。


「……ねえ、グロウラッシュ殿下を籠絡した時の痛快さと言ったら凄まじかったものよ?逢瀬を重ねて婚約者として選ばれて……あなたを身ごもった時に、私はアリューシャに対して勝利を確信したの……でもね」


エスター様は子守唄でも聞かせるかのように呪詛を口にする。


「あなたを宿していても、ままならない思いばかりしたわ……私はね、こう言い聞かせて耐えたの。世継ぎさえ産めば磐石だと。なのに……あなたは女児なのだもの……私はまた大変な思いをしなければならないのよ……今は殿下を遠ざける事が出来ているけれど、それも限界が来てしまうの」


赤子がエスター様の低い声にぐずり始める。それは泣き声に変わるものの、エスター様は抱き上げようともしないで見ている。


「あなたが世継ぎの御子ではないから、私は決めたのよ。もっと……私より苦しむアリューシャを傍に置いて……楽しもうと……殿下にはね、その為に偽りを言わせたのに……ねえ、なのに」


もはや赤子を見つめるエスター様の眼差しは母ではなく、鬼女のそれだった。


「辺境伯は目障りね……あんな女を守ろうなんて。見てなさい、私はアリューシャの生き地獄を眺めながら王妃の座に君臨するのよ?あの女は殿下に踏みにじらせるの、辺境伯からの愛が猛毒となり蝕む程……あの女ばかり幸せで穏やかだなんて、許さないのよ。そんな人生は生きさせないわ」


何て事だろう。エスター様は王太子殿下を含む王宮をも巻き込んで、私達夫婦に毒牙を向けていた。


今なら分かる。アリューシャが常に、エスター様に対して冷ややかだった理由も。学ぶべき事を学ぼうともせず、王太子殿下から寵愛を得る事のみを考え、その先の野望を見据えていたのだから。


「……何でそんなに泣くの?笑いなさい。ほら、あなたのお父様も……アリューシャを王宮に入れられれば楽しみが増えるのよ?他でもない、あなたの両親が楽しくなるの。素敵でしょう……?」


赤子は激しく泣き続けて、声が嗄れるのではないかと思う程なのに、エスター様はくるりと身をひるがえして、その場から離れてしまう。


「私は王子様と結ばれて幸せになる物語のお姫様なのよ。誰よりも幸せでなければならないの。……あんたの事は、ドアの向こうで泣き声を聞いている者共が案じてくれているでしょうよ。私は手に入れた手駒を捨てたりしない……だから、せいぜい役立たず達に慰められなさい」


無情にも言い捨ててドアノブに手をかけ、エスター様は弱々しく困り果てた顔つきに変化した。


「……誰か……赤ちゃんが泣きやんでくれないの……私がどうあやしても、赤ちゃんは泣いているのよ……私の子なのに……泣きやませてあげられないの……」


「──王太子妃殿下……!お体に障ります、あとは私共にお任せ下さいませ。あまりお気に病まれずに、どうかお心を安らかに保たれて下さい。妃殿下には王太子殿下もついておられます」


控えていた乳母やメイド達が駆け寄って心配そうに言うと、エスター様は泣き崩れてみせた。


「殿下……至らぬ私をお許し下さいませ、殿下……!」


その茶番の嘆きは、世界を欺いて我がものにしようとするエスター様の執念によって、居合わせる者全てを洗脳していた。


私は──私達は、まだ知らない。気づいてはいない。


向けられた妄執に。


エスター様は私の事を憎んでいるからこそ、わざと私を側妃に指名したという真実に。


終わりの見えない憎しみと、──それを容認しているかのような、見て見ぬふりをしているかのような王太子殿下のありようが、どれだけ異常なものかにも。

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祈りは斬鬼の果てに実を結ぶ 城間ようこ @gusukuma

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