第18話
──グルーの腕の中で泣いた日から、私達夫婦の関係には一つの変化があった。
それは、寝る前の挨拶。
「おやすみ、アリューシャ」
「はい、おやすみなさい、グルー」
グルーが優しく、私を包み込むように抱きしめて、額に口づけを落とす。
そうすると、私はグルーの温もりの余韻を味わいながら眠りに就ける。
その眠りに悲しい夢はない。
優しい眠りへの満足と、優しいばかりのグルーへの微かな不満を抱き合わせて、私個人の寝室で一人眠る夜が重なる。
グルーに抱きしめてもらうのは、心が少しくすぐったいようで、だけど心地よくて落ち着く。
額の口づけは、柔らかくて心までやわらぐ。
でも、本音は少し違う。
──もっと触れて欲しい。もっと抱きしめていて欲しい。口づけは唇を重ねたい。
それは小さな不満だった。ほんの小さなそれは、やがて強情になってゆく。
ねだりたい。はしたない。求めたい。でも彼に求められなかったら、いたたまれない。
そんな葛藤は、私の言動をぎこちなくさせた。
「アリューシャ?最近少し変だぞ。何か言えない事でもあるのか?悩み事なら遠慮なく打ち明けてくれ、一人で抱えたままでは大きな負担にもなる」
「……グルー……」
私は単純なのだろうか?確かに、自然体では接する事が出来ない日が続いたけれど、ここまで言わせるくらい態度に出ていたのかと気落ちする。
──でも、せっかくグルーが言ってくれているんだし、私達は仮にも夫婦なのだから。
そう決心して、胸の内を話してみる事にした。
「グルー、私は……はしたないとは分かっていますが、それでもグルーにもっと……その、踏み込んで触れて欲しいんです」
優しさなのに物足りないとか、まるで欲求不満みたいで恥ずかしい。
だけど、これが今の私の望みだし、グルーへの気持ちは日を追うごとに大きくなっていて、自分の心にだけ収めておくのは難しい。
──でも、固唾を飲んで待ったグルーの反応は、私を意気消沈させるものだった。
「……勘弁してくれ……」
困り果てたように、うなだれて前髪を荒っぽくかき上げる。
そんなグルーを見て、ああ私はやっぱり妻として迎えられても女として見られない程魅力がないのだと、心の底から落胆してしまう。
けれど、グルーが続けた言葉はジェットコースターみたいに、目まぐるしく私の見る目を変える。
「俺だって男だ。惚れた女には、もっと触れたいよ。だけどお前に二十歳まで待てって言っておきながら、我慢出来ずに手を出したりしたら、俺は自分で自分を許せなくなるんだ」
「え……あの……グルー?」
熱っぽい言葉に、声に、男性の色気をまざまざと感じて、私は何も言えなくなってしまった。
「グルー……聞き間違いでなければ、惚れた女と……私の事ですか?」
「他に誰がいるんだ?三十路の男が身の程も弁えず、背伸びしてまで求婚したんだぞ」
「……あ、あの、私……私も……その……」
愛を告げるなら今だ。こんな好機は他にない。だって、グルーが自分をさらけ出してくれている。
「──私も、グルーの事が好きです。だから、触れて欲しいと願ってしまいました」
突然の告白大会に、お互いがぎくしゃくしている。それでもグルーは大人な分、我に返るのも早かった。
「──アリューシャ、そう煽るな。俺も、かつて自分を拒んでいた女が愛を告げてくれるまでになった事には浮かれてしまう」
甘さに溶けそうだけれど、私も気を張って言葉を返した。
「浮かれればいいでしょう。私の人生は、もはやグルーの存在なくして成り立ちません」
「いや、もう……本当に何をしでかすか自分が分からなくなるぞ?」
「何が起こるか分からないから、人生という物語は重苦しくもなりますし、華やかにも、面白くもなります」
「物語?」
「人は皆、生まれたら自分の人生という物語を完結させるまで、己として生きなければなりません。──私の人生に、グルーがいてくれて良かったです。グルーによって私の人生の物語は彩られ、絶望の道すじから抜けられたのですから」
思いの丈を打ち明けると、聞いていたグルーの表情は照れくさそうな困った顔から、私のこれまでを思いやる慈愛をたたえたものに変わった。
そして、そっと手を伸ばし、私の頬を撫で、後頭部に手は流れ、ふわりと抱き寄せられた。
「今はまだ、我慢する。だがそれも辛くはないよ。──お前の心が俺の心を受けとめて、気持ちを返してくれただけで……今は満たされてるんだ。俺も、お前に……心なら全部差し出すから」
「……はい、グルー……私も我慢出来そうです」
こんなに大きな気持ちを与えられて、これでは不満なんて感じ続けられない。
グルーの心に包まれて、私は今夜も安らかに眠れるのだろうと思えた。
──そして、所は変わって王宮、エスター様が王太子殿下の私室を訪れた。
「──グロウラッシュ殿下、失礼しますわ」
おもむろに王太子殿下の私室のドアを開けたエスター様は、殿下が慌ててカップに入った何かを飲み干すのを見た。
「ああ、エスターじゃないか。急に入ってくるから驚いたよ」
「すみません、殿下。寂しくなって、つい。何かお飲みになられてましたの?お茶ではないようですけれど……」
「たいしたものでもないよ、少し寝つきが悪くてね、医師に薬を作らせているんだ。──やはりエスターと共に寝られないのは落ち着かないね」
「まあ、殿下……殿下も寂しく思って下さっていたのですね。なら、同じ寝室で……」
「いや、やはり身ごもっているエスターの体を思うと、ベッドを狭く感じさせてはいけないからね。今は無事に子を産めるように、それが一番だ」
「……つまりませんわ……」
「君は母になるんだ、聞き分けてくれ。食事はいつも一緒にとっているだろう?──あとしばらくの我慢だよ」
「……はい、殿下。私は失礼致しますわね、お忙しい殿下のお邪魔になってはいけませんわ」
「私の立場を分かってくれて嬉しく思う。また後で二人の時間を取ろう」
エスター様は、にこりと微笑んで退室し、かと思うと即座に使用人へ命じた。厳しい口調は、王太子殿下へ向けていた媚びも甘えもない。
「──殿下のお飲みになっていた薬を調べさせなさい。秘密裡によ」
「そのような事をして王太子殿下のお怒りに触れましたら……」
「その王太子殿下の妃からの命令よ──早く行きなさい」
「あ、は、はい……」
うろたえながら立ち去る使用人の背中を、エスター様は穴があくほど目つめていた。
その夜、エスター様は王太子殿下と共に過ごす事はなく、自室でつまらなさそうに読む気もない書物をめくっていた。
そこに、命じられていた使用人が戻ってくる。おどおどとしていて、自分が得た結果に震え上がっていた。
「──失礼致します、王太子殿下のお薬の事で分かりましたのは……その……」
「何よ?はっきり言いなさい」
「申し訳ございません、避妊薬でございました……」
「──何ですって?いつから服用しているの」
エスター様が怒りに目尻を吊り上げる。凄まれて、使用人は恐怖の中エスター様に答えるしかなかった。
「医師によりますと、もう四ヶ月程続けられておいでだと……」
「寝室を分けてからではないの……殿下は、自身の寝室に女を入れているのね?」
「……そちらに関しては分かりかねます……王太子殿下が、まさか妃殿下を差し置いて、そのような……」
「──もし、殿下が夜伽をさせた女がいるなら、一人残らず見つけて髪を切り落としなさい。使用人だろうが貴族の娘だろうが、容赦なく」
「ですが、独断でそのような私刑をなされて、王太子殿下がお知りになられましたら……」
「いいこと?これは見せしめよ。殿下が抱き寄せていいのは王太子妃である私だけなの。分を弁えず殿下にすり寄った女は相応の罰が必要なのよ。私に仕える身なら分かるわよね?これがどういう意味か」
「……はい……」
「分かったなら下がりなさい。いい?命じた通りにさせるのよ」
「かしこまりました……」
そして人払いをしたエスター様は、部屋の物に八つ当たりをして調度品を割って壊し、めちゃくちゃにしたらしい。
その音は激しく、室外に控えている者達は生きた心地がしなかったとか。
「……許さない……殿下の事を信じていたのに、裏切ってくれたわね?女の私達がすれば不貞行為で処罰されるものを、殿下は男性で王太子だから許されるとでも?」
もし夜伽を務めた女性が何人いたとしても、それで多くの女性が髪を切り落とされても、そのさまを見物したとしても──エスター様の心に燃え盛る怒りの炎は消せない程だ。
「こうなるとお腹の御子さえ憎らしいけれど、これは大事な駒よ……利用して仕返しする……最後に最高の栄光を手にするのは私と決まっているんだから」
エスター様の精神は闇に呑まれて──いや、闇を生み出して止まらない。
大きくなったお腹を疎ましげに見下ろしてから、邪悪に染まった笑みを浮かべて、そのお腹を撫でさすった。
もはや、彼女の暴走を止められる人はいない。
暴虐の限りを尽くしても、彼女は止まらない。
──憎しみを糧にして咲き誇る毒花として、エスター様は笑いながら人を壊す。
「アリューシャ……もちろん、あの女も壊さなきゃね……愛という甘味が猛毒になれば、どんな苦悶の顔になるか……ふふっ……」
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