第17話
それは、王太子夫妻の住まう宮殿で起きた事だった。
エスター様がサーブされた食事を見るなり、怒りをあらわにした。
「──また脂身を取り除いた豚肉ですって?私は鹿肉が食べたいと言ったわよね?聞いていなかったの?その耳は何の為にあるのよ!怠けて厨房に伝えなかったわね!」
「恐れ入ります……俗説によりますと、鹿肉の匂いは妊婦に悪影響を及ぼすとされておりますので……」
「そんなの迷信でしょうが!それより私が欲しがっている事実を重んじなさい!」
「……申し訳ございません……お食事には王妃陛下と宮廷医師より厳しいお達しが……」
「まだ言うの?!──もう食べる気も失せたわ。何か甘いものが欲しくなったの、林檎のタルトとスコーンにクロテッドクリームを添えて出しなさい」
「ですが……ここしばらく、お召し上がりになるものが増えすぎておりますゆえ……」
「あなたは誰の使用人?弁えなさい。解雇して王宮から追い出す事はたやすいのよ?代わりは大勢いるもの。それをせずに傍に置いてあげているのは誰なのか、考えなさい」
「も、申し訳ございません……」
「はあ、もう……せっかく王太子妃になったのに、何も思い通りにならないのには業腹だわ。お腹には尊い御子もいるのに……せめて口にするものくらい楽しもうにも、お茶菓子ときたら砂糖も使わない素焼きのアーモンドだし、食べた気がしないわ」
どさっとソファーに腰をおろして、これ見よがしに溜め息をつくエスター様の顔色を伺いながら、言われっ放しだった専属のメイドが恐る恐る提言した。
「個人的にご友人を招待される事はお許し頂けたのですから、ご友人とお話しをすれば気も紛れますかと存じますが……」
「私がいかに尊重され愛されて幸せかを自慢するにも、話の種が尽きたのよ。もっと何か、恵まれている私について堂々と話せる話題を見つけなければ、友人と話すにも面白くないわ」
「──その点につきましては、アリューシャ様の事が最適かと」
「アリューシャ様?辺境伯に嫁がれて久しいわね。何しろ王都を追われた身だものね……。戦いに明け暮れる田舎での暮らしに疲れている頃かしら?ご実家は没落されたようだけれど、それにしても家の存在すら耳に届かないわね」
「はい、どうやら侯爵家の方々は家を捨てて、王都から逃げ出したようなのです」
「あら、まあ!何て事かしらね」
エスター様が興味深そうに声を上げて、底意地悪く微笑む。
そこには、婚約者候補だった頃に見せていた純真無垢な面影などない。
「ふふ、お可哀想なアリューシャ様に言葉をかけて差し上げたいわ。……けれど、レターセットは没収されたままだし……どうすれば私の言葉が伝えられるかしら」
エスター様は思案してみせて、最悪な形を思いついた。
そして、迷う事なく実行に移す事にする。
「お話を友人伝いに……そうね、貴族の噂なら家から家へ伝えられるわよね?──ちょっと、友人を招待するから使いの者を呼びなさい」
「は、はい、かしこまりました」
矛先が自分から逸れた事に安堵するメイドは、エスター様の言う通りに動く。
呼ばれた友人は、当然ながら社交界にも顔を出している貴族の令嬢なので、既に噂は知っていた。
エスター様は、それを少しつまらなく思うものの、ならば話が早いと思い直して、大仰に私への同情を口にした。
「辺境伯家に嫁がれて、どれだけ心細い思いをなされているか……それだけで心が痛みますのに、ご家族と手紙さえ交わせなくなっているアリューシャ様のお気持ちは察するに余りありますね」
「まあ、王太子妃殿下の思いやりの深さには感動致しますわ、かつての敵とも言える令嬢ですのに」
「もう令嬢ではなくてよ?辺境伯家の妻でしょう?」
「あら、確かにそうですわね」
「この事……アリューシャ様には屈辱ですもの、大袈裟に言い立ててはいけませんよ?」
「ええ、承知しておりますわ」
もちろん、これは言いふらせという意味だ。王都の貴族だけに留まらず、下々の者にまで届くように声高に。
それは実を結び、ウァジリーからグルーへ伝えられた。
「王都に滞在させている者からの伝達によりますと、王太子妃殿下が、ご友人達に……その、奥様の事で良からぬ噂を流しているようなのでございます」
「……また王太子妃殿下か……問題だらけの妃殿下だな」
「そうでございますね……しかし、奥様のご生家に関する事ですので、いずれは奥様のお耳にも届いてしまいます」
「──何だって?アリューシャの生家?」
「お耳汚しにも程がございますが、莫大な負債を抱えて王都から逃げ出したと、そのように吹聴されておいでです」
「──馬鹿げた噂話だ」
「はい、その通りです。しかし、婚約者候補だった頃の奥様を相応しく着飾る為に、相当な贅沢をさせていた、とも……」
「それはアリューシャの意思によるものではない。現に、辺境伯家に嫁ぐ時でさえ、たった六着のドレスしか持ち込まなかった。宝飾品に至っては皆無だ」
「思い起こせば、侯爵家のご令嬢とは思えぬ程に質素な輿入れでございました」
「そうだろう?なのに、こんな形である事ない事を言いふらされては、アリューシャがどれだけ傷つき悲しむか」
「奥様には到底お聞かせ出来ぬ話でございますね」
「全くだ。やっとアリューシャも辺境伯家に馴染めたんだからな」
グルーは私を気遣ったけれど、その心ない噂は、私が悪役令嬢だった頃の取り巻きの令嬢から送られてきた手紙で知らされる事になった。
「お父様達……家族全員が王都から消えた……?負債を抱えておいでだった?そんな……」
手紙では、アリューシャ様は今、辺境伯家の妻としてご立派に務めを果たされておいでですので、とは書いてくれているものの、上辺だけの言葉だと文脈で分かる。
かつての取り巻きといえど、私の立場が変われば簡単に手のひらを返すだけのもの。私が王太子殿下の婚約者になれれば旨味があるからと、すり寄ってきていたに過ぎない。
そんな事よりも、家族は無事なの?たとえ貧しくとも暮らせているの?
──ダンテモレ侯爵家には、相応の領地があったわ。そもそも領地の運営は?領民から不満が噴出しないように上手く出来ていたの?
ただエスター様と争うばかりでいたアリューシャには、家の仕事について何も教えられていなかったわね……。
考え抜いた末に、私はグルーに話してみる事にした。
「グルー、私は久方ぶりに家族と会ってみたいです」
「──すまない、それは叶えてやれない」
こういう事を断言するなんて、グルーらしくない。
「なぜですか?──家族全員が王都から消えたからですか?」
「違う」
私の言葉に、グルーは鋭く否定してきた。
「消えたんじゃない。ただ、遠くに行っただけだ。遠く──二度と会えないような遠くに行ったから……」
否定の後に続いた言葉は、力なく──遣る瀬なさが痛い程伝わってくるものだった。
「……分かりました。もう二度と会えないのでしたら、亡き者と変わりませんね……」
「そんな悲しい事を言うな、彼らの幸せな生を共に祈ろう」
それは優しい偽りの祈りだと、感じ取る事が出来る。──出来てしまう。
「……はい……」
「泣くな、アリューシャ」
「……泣いていません。グルーこそ、ひどい顔です」
言いながら、自分の頬に生温かいものが伝い落ちて冷えてゆくのが分かる。それが嫌で、認めたくなくて、うつむいた。
「アリューシャ……泣くなら、ここで泣け」
グルーが、腕を伸ばして抱きしめてくれた。
初めてのグルーの腕の中は、泣けてくる程心地よくて、私はグルーの胸に顔をうずめて──静かに涙を流した。
お父様、お母様、兄妹達──もう呼びかけも出来ない。心の中でさえも、彼らに呼びかけられない。
そんな事をしたら、私は泣き崩れてしまうから。独り残った自分を許せずに呪うから。
……何も喪わせはしない、そう決めていたのに。
運命は私から奪う。グルーを得た私から、それ以外のものを。
さようならさえ伝えられなかった家族。
──やがて泣き疲れて意識が遠のく頃、私はアリューシャの記憶の中にある家族との日々に、決別を告げた。
今を生きて、望む未来を目指せるように。
「アリューシャ……俺は、お前を心から大事にするから……お前一人を愛し抜くと違うから……」
意識が落ちる寸前に聞いたグルーの言葉を道しるべに。彼が今の私を満たしてくれているから。だから、私はこれからも生きてゆけるのだと分かっているから。
……こうして私が涙した後、王都では辺境伯家についての新しい噂が流れた。
辺境伯家が王都に置いている者から発信された噂だ。
それを聞いたエスター様は、身を震わせた。
「……辺境伯はアリューシャ様ただお一人を愛すると誓いを立てる程、溺愛している?あの独身を貫いていた烈火の狼が?」
憤りに身を震わせるエスター様に声をかける勇気のある者はいなかった。
「しかも、失政によりトリステア帝国からの援軍が期待出来なかった戦いの勝利に貢献した、立派な妻ですって?あんな女なんて、どんな美辞麗句で飾り立てようとも、所詮は私に敵わなかった出来損ないの負け犬じゃないの!利用価値なんて欠片もないはずよ……」
──悪意の渦は、空回りしながら激しさを増してゆく。いつか私を呑み込もうと。
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