第16話
──それは、晩秋の朝。
「段々と冷えてくるようになったわね……」
城内の庭も寂しくなった。散策していても、それを感じる。
何だか静寂に包まれたみたいだ。
そんな感傷を抱きながら歩いていると、何やら騒がしい声が聞こえてくる。
声の方に向かうと、衛兵が困り顔で集まっていた。
「どうしたの?何か問題でも?」
「奥様!──その、子供が城門付近に捨てられていて……」
「子供?離乳はしているの?」
「はい、それは大丈夫です。乳歯も生え揃っています。おそらく二歳くらいかと」
衛兵の一人が、その当人らしき子供を上着でくるんで、守るような手つきで抱いている。よく見ると、可哀想に痩せ細り、怯えているような面持ちの男の子だ。
なぜ辺境伯家に捨てられたかは分からない。でも、放ってもおけない。
「すぐに中に入れて、温かいパン粥を用意してあげて。外は寒かったでしょう」
「しかし……」
「グルーには私から話すわ、お願い」
「はい、かしこまりました」
その後、男の子は三歳で、名前はマークと呼ばれていたと話してくれて分かった。
実年齢より小さく見えたのは、栄養不良が原因らしい。
私はグルーの執務室に行って相談した。
「辺境伯領にも、孤児院はあるが……なぜ城の前に捨てられていたんだ?」
「孤児院……グルー、そこに預けるにも、今の痩せている状態では心配です。城内である程度面倒を見てあげられれば、栄養不良も改善されるでしょう?」
「それは難しい事でもないが……俺もその子を見に行ってみよう」
「ええ。何でも、パン粥を出した時に警戒しながら一口食べてみた後、夢中になって平らげたとか……とてもお腹をすかせていたのでしょう」
「警戒しながら、か。周りに頼れる大人がいなかったみたいだな」
「そうですわね、痛ましくて」
そして、連れ立ってマークが保護されている部屋に向かうと、ちょうど入浴させてもらったところだった。
「エミリー、男の子の調子はどう?」
「湯船に怯えていましたが、浸からせると落ち着いてきて……体を流してあげようとしたら、また怯え出しまして、皆であやしながら入浴を済ませました」
「そう……あなた、お風呂は初めてだったの?」
ぶかぶかのバスローブにくるまれたマークに話しかける。泳いでいた視線が、真っ直ぐに私を見つめた。
こうして体を洗ってみると、浅黒くごわついていた肌は、ひどく汚れていたかららしい。今はなめらかで綺麗な肌になっている。
「……パパ」
「──えっ?」
「パパのところに行けって言われた」
思わずグルーを見やると、面食らった顔をしていたけれど、グルーは気を取り直してマークの前にしゃがんだ。
「なあ、この城にお前の父親がいると聞いたのか?」
「……うん。毎日聞かされた」
城内に隠し子を持つ男性がいるのだろうか?多くの男性が勤めているから、事情を抱えた人もいるかもしれない。
「あなた、パパのお名前は知っているの?」
「グルー」
「……え?」
思わずグルーを見やると、私の眼差しにグルーがうろたえた。
「いや、俺に心当たりはないぞ。アリューシャ、信じてくれ」
「……ですが、グルーの年齢を思えば、異性との交際経験くらい……」
「待て!誤解するな。この子供は三歳だろう?母親が妊娠したと思われる時期は長期遠征に出ていたし、本当に思い当たる節がないんだよ」
「ここに来たら、グルーって人がパパだって言われた」
「グルー……」
「勘弁してくれ……俺は潔白だ」
嫁ぐ前のグルーの交友関係は分からないから、信じろと言われれば……でも、大人の男性だもの、女性経験はあるわよね?
私の考えは、全部顔に出ていたようだ。
「それは、俺も男だ。欲求も経験もないとは言えない。だが、この子供については本当に無実だ」
「グルーはパパだって、グルーは皆のパパなんだって言われたのにパパじゃないの?」
「……皆の、パパ……?」
今度は呆気にとられた。つまり、グルーは領主として皆を導き育むパパっていう意味なの?
この子供には、まだ親か保護者が必要だと思うけれど……かと言って、グルーの子供ではないみたいね。
よくよく見てみると、髪や瞳の色、顔立ち、どれを取ってもグルーとは似ていない。
誤解が解けたと悟ったグルーは、深々と息をついてから、子供の肩に手を置いた。
「俺はこの土地を守る仕事があるから、守られている人達にとっては、パパみたいなものだろう。だが、本当のパパは他にいるんだ」
「……分かんない。グルーはパパじゃないの?」
グルーが言い聞かせると、マークは今にも泣き出しそうな顔になった。
それを見てグルーが慌てる。
「お、おい、泣くな。あのな、この城にいる間だけなら、俺をパパって呼ばせてやるから」
「……それって、ここは俺のお家じゃなくて、出ていかなきゃいけないの?グルーはずっとパパなんじゃないんだ……」
いよいよマークは泣きじゃくり始めてしまった。幼くして捨てられて、寄る辺もないとなれば、それは心細いし悲しくもなる。
私はマークと目線の高さを合わせて、出来るだけ優しく声をかけた。
「ねえ、あなた。パンのお粥は美味しかった?お腹はもういっぱいになれた?」
何の脈絡もなく訊ねられて、マークは驚いた様子だ。泣き出した子供は、気が済むまで泣くものだから、すぐには泣きやまない。それでもいい。
「……あんな美味いの、初めて食べた……あったかかった……もう腹減ってない……だけど、もっと食える」
「そう。──エミリー、この子にポタージュを用意してあげてくれる?お腹に優しいものでないと、急にお腹いっぱい食べたら腹痛や嘔吐を起こすわ」
「は、はい。奥様」
「マーク、聞いてくれる?あなたはまだ子供だから、ちゃんと育ててくれる所で暮らさなきゃならないわ。お城では、ご飯や寝る場所ならあげられるけど、育ててはあげられないの」
「育ててくれる所?」
「ええ、色々教えてくれて、ちゃんとした大人にしてくれる所よ」
マークは理解も納得も追いつかない様子だけれど、それでも泣きやんでくれた。
「グルー、とにかく子供はしばらくお城で休ませましょう。思っていたパパがいなくて、気持ちも混乱しているでしょうし。まず栄養をしっかり摂らせて、孤児院に任せるのはその後でいいわ」
「お前が言うなら、それも構わないが……俺も飢えた子供は哀れだしな」
「聞いた?マーク。しばらくここで、ご飯をお腹いっぱい食べるのよ。元気になったら、新しいお家に連れて行ってあげるわ。そこにはマークとお友達になれる子達がいるのよ」
隠し子疑惑……正直、私の心中もずいぶん穏やかではなかったし、胸がざわついて苦しくなったけれど……疑いは晴れたもの。
グルーも私も、落ち着きを取り戻せたし、この子の様子を見守る事は、もしかしたら将来母親になれた時、役に立つかもしれないとも思える余裕が出来てきた。
「お家……ここは、ずっといられるお家じゃないの?新しいお家は、ずっといられるの?」
「──あのね、マーク。ずっと暮らせるお家はね、大人になって、自分で作るのよ。大丈夫、それまでは新しいお家がマークを育ててくれるから。今のあなたには、ちゃんと守ってくれる人がいるのよ」
「……うん……」
「良い子ね。ポタージュが出来たら、熱いからゆっくり食べてね。その後は少し眠りましょうね」
「うん……」
「ここにいる間は、グルーも私も、お城の大人達は皆あなたのパパとママよ。安心してね」
「たくさん人がいるよ、皆パパとママ?」
「ええ、マークに悪い事をする人はいないわ。だから安心して」
「うん」
少しだけど、表情に活気が見えてきて安心した。──だけど。
「……グルー」
「ん?何だ?」
「グルーにも、過去には抱き寄せた女性がいるのよね?今日それを思い知って、何とも言えない気持ちになったわ」
「過去に対して嫉妬してくれるのか?──言っておくが、今抱き寄せたいのは、お前だけだからな?」
「──そんなの、あの、当たり前です。他にもいたら、私は離縁しますからね」
「それは恐ろしい」
言うわりに全然恐ろしがっていないし、何なら少し嬉しそうね。
「──グルー。私達の子供はたくさん欲しいです。いつか親になったら、覚悟して下さいね」
やり返すつもりで言ったのに、却ってグルーを喜ばせてしまったようだ。私に顔を近づけて、囁いてくる。
「楽しみに待ってるよ。息子も娘も欲しいな、欲張りか?」
声と一緒に届く息が熱くて、顔がかっと火照って、逆に私が動揺するはめになった。
「……そんなの、欲しくて当然です。私は息子も娘も産みますからね」
虚勢を張ってはみたけれど、グルーは上機嫌で目を細めている。
「そうか。──俺達は良き親になろうな」
それは、マークみたいに身寄りのない子にしない事。愛情をそそいで育て上げる事。
「ええ、そうですね。今回の事で、私は胸に刻みました」
いつか──親になれたら、子に背を向けない親になろう。巣立つ時まで──巣立ってからも、子の幸福を願える親であろう。
それは胸に秘めた理想。今はまだ願うだけだけれど、いつか私達に訪れる未来だと思って祈ろう。
「お前は、十分に子を愛せる母親になれるよ」
そんなグルーの言葉は、私の心を守り強くしてくれる。
「グルー、私はこう思うんです。人の世に生まれた子にとっての最大の不幸は、親に捨てられる事よりも、親によって命を断たれる事だと。マークの本当の親が、たとえマークを愛し抜けなかったとしても、この辺境伯家に任せてくれて良かった」
「……そうだな。マークの人生は、これからマークが自分で生きてゆける」
マークは辺境伯家で十分な食事を摂らせて慈しみ、栄養状態と心を落ち着かせてから孤児院に預けた。
グルーと私にとって、マークは将来授かるであろう子のような微笑ましい存在でもあり、マークも私達夫婦を慕ってくれていたので、送り出す時には愛着が生まれていて寂しくも思った。
思わず涙目になりそうな私に、グルーは「永遠の別れじゃない。マークはいつか大人になったら、立派な姿を見せに来てくれる」と言って、私の肩を抱き寄せ落ち着かせた。
「はい。──その時には私達にも子供が生まれていますよね。きっと、マークとは良き友になれます」
「ああ、俺達の子を大切に思ってくれるだろう。そんな邂逅を楽しみにしていよう」
──だけど、私達がこうして絆を深めている間にも、辺境伯領の外では問題が起きていた。
そしてその問題に対して、無関係ではいられないのだ。
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