第14話
──最近、よく夢を見る。
暗闇の中、白い影がある。
影はしきりに何かを私に向けて叫んだり問いかけたりする。
その影の姿も、言葉も、はじめのうちは不鮮明だった。
だけど、やがて影は人の姿になり、言葉も聞き取れるまでになる。
それは、私を身代わりにして消えたはずのアリューシャだった。
影のアリューシャは言うのだ。
「あんたが甘受しているものは全て、元はといえば私のものよ、私の人生を私に返しなさい」
──そんな事、出来ない。
かといって、グルーにも明かせない。
私は私だ。二つの人生の半ばまでの記憶を抱えながら生きる私。それでも、グルーの妻であるアリューシャが今の現実で本物だ。
だから、夢の事は誰にも話さずにいた。一人で抱え込んで、毎晩アリューシャから責められるがままに沈黙を保った。
──だけど、転機は訪れる。
それは、朝食の席での事だった。
「アリューシャ、最近よくうなされていると聞いたが……大丈夫か?何か不安な事があるなら、遠慮せずに話してくれ」
グルーの瞳が懸念に翳っている。私はそれを晴らしたくて、あえて強気に返した。
「過去の記憶が、夢になって出ているだけですわ。きっと、それだけ今の私が幸せだという事なのでしょう」
「だが、……無理はするなよ?寝汗もひどいとエミリーから報告を受けてるからな」
「はい。──ご馳走様でした」
「もういいのか?だいぶ残しているが」
「今朝は特段食欲が起きなくて。──すみません、部屋でお茶を頂きますね」
そこまでは受け答え出来た。けれど、椅子から立ち上がった瞬間、貧血みたいな感覚に襲われて──「アリューシャ!」と叫ぶグルーの声を最後に、意識が途絶えた。
そうして、またあの夢を見る。
アリューシャはいよいよゲームで見ていた姿のまま、はっきりと見て取れる。瞳に宿る色は憎しみと妬み、苛立ちだと分かる。
「何であんたは幸せそうに生きてるの?あの、血に飢えた烈火の狼の元で笑えているのよ?」
「……そんなの、あなたが噂に聞いていただけの思い込みの姿じゃないの」
ここで、私にようやくアリューシャに向かって言葉を発する事が出来た。
アリューシャはますます憎しみの炎を燃やし、彼女こそが烈火みたいだ。
「あんたが私のもので私として生きるなんて、理不尽じゃない」
「何とでも言えばいいわ。私はあなたから受けた人生を、受け入れて生きる事に決めているんだから」
「それで?私が嫁がされた辺境伯家で奥様扱いを受けて幸せ?──幸せですって?何よ、それは」
まくし立てるアリューシャは嘲笑と侮蔑を面に出していても、瞳は妬み嫉みに満ちている。
「幸せは運命を受けとめて、試練を乗り越えなくては得られないでしょう。私はグルーと生きる道を歩んできたから今があるの」
「……本来なら私が生きているはずの場所に、あんたは笑いながら生きているのね」
ぞっとする程の冥い眼に怯みそうになるけれど、もうアリューシャの好き勝手にはさせない。
私は、きっぱりと言い切った。
「──私が私だからこそ、今のグルーにとってのアリューシャは幸せなんだし、慈しまれているのよ。分からない?あなたは何もかも拒むばかりだったでしょう」
アリューシャが私を睨み、歯を食いしばる。
そして、負けじと唸るような物言いで反論してきた。
「あんたが拒まなかったから何だって言うの?辺境伯が見初めたのは本来の私なのよ、パーティーの場で気高く佇んでいたアリューシャこそが辺境伯の目に止まったアリューシャなの。──それは私よ」
「それは──」
グルーとアリューシャの馴れ初めなんてシナリオにはなかったから知らずにいた。譲る気はなくとも、とっさの反論が浮かばない。
「あんたは私が与えた記憶を元に生きるしかない、紛い物のアリューシャなの。私の記憶には知識も含まれてるわよね。私の培ってきたものを利用して生きる偽者のアリューシャ」
「そうしたのは誰よ?他でもない、あなたじゃないの。押しつけられて、元の世界に帰れなくて、それでも私は生きようと頑張ってきてるのよ、そうやって幸せを得たからって、今度は私の幸せを代わって生きたいとでも?」
「幸せ?──偽りの身で受ける愛情なんて、夢物語みたいに消えても不思議ではないのよ。辺境伯が真実を知れば、どう思うかしら?」
グルーが秘密を知れば──どれほど衝撃を受けるだろう?私は本来、アリューシャという孤高の令嬢ではない。
でも、断言出来る事はある。私はアリューシャを真っ向から見据えた。
「──それでも、私はあなたから押しつけられて逃げなかったアリューシャよ。逃げないで生きる事を選んだから、今のアリューシャが存在しているの。でも、あなたは逃げた」
これは揺るぎない事実だ。アリューシャから感じる憎悪の苛烈さは怖いけれど、一歩も譲らない覚悟で続けた。
「人生なんて、逃げたい事や忘れたい事、避けて通りたい道にぶつかる事の連続よ。けれど、人は真っ当に向き合う事で、遠くに見える未来を現実にするの。あなたはどう?絶望させられた事には同情する。けどね、結局は人生を全うしようとしなかった」
今度はアリューシャが反論する言葉を失った。悔しそうな彼女に、私は心のどこかで卑怯な事をされたと、理不尽に感じていたのだろう。ここぞとばかりに言葉を重ねた。
「私がアリューシャなの。グルーの隣を歩く、グルーの妻は私なのよ。グルーに歩み寄り共に生きようと決めたのは、私というアリューシャに他ならないから」
「何よ……私がアリューシャなのに、今アリューシャとして生きてるだけで全てを我が物顔にして……」
アリューシャの語気は明らかに弱まっていた。そこにとどめを刺した。
「──あなたは消えたアリューシャ。逃げたアリューシャ。残影は消えて、残滓も残さずに。私がグルーと生涯を共にする、グルーの妻として生きてゆくから」
「私が……世界を拒んだから、今度は私に拒まれろと?残酷だわ。何であんたは、そうまでして辺境伯から離れまいとするのよ?」
わがままな言葉に、鼻で笑いたくもなる。でも、彼女には私の心の中にある本物の気持ちを話しておきたい。意を決して口にした。
「──だって、今の私はグルーが好きなの。愛かどうかはまだ分からない。だけど、私の人生は常にグルーと生きる事で満たされてゆくの」
そこからは、沈黙が横たわった。
アリューシャは呆然と立ち尽くし、うつむき、冥い瞳はやがて微かな明かりを灯した。
「……それが愛なんでしょうね。あんたの見つけた愛なんだわ。私が王太子殿下に求めて得られなかった、命を輝かせる太陽の光」
アリューシャは王太子殿下を求めていたから、足掻いて得られず疲れ果てた気持ちの在処を聞かされれば切なくもなる。──だけど。
「太陽の光……あなたは王太子殿下から得られなかったけれど……グルーは私にもたらしてくれてる。グルーが今、私の生きる希望になっているから。グルーの心からの優しさを受け入れられなかった、あなたには残酷でも」
「──もういいわ。せいぜい生きなさいよ、末路がどうなろうとも私はもう知らない。私は消えた──そして消された。もう影すらも保てない、あんたの記憶の中にしか存在出来ない過去なんだから」
アリューシャの姿がぼんやりしてきて、輪郭を保てなくなる。消えてゆく、そう感じて、私は最後にと言葉をかけた。
「──さよなら、アリューシャ。私に……この人生をくれて、ありがとう。グルーの温かさに包まれる事を知っている今は、もう悔いもない」
そして暗闇の世界はまばゆい程の真っ白な世界に変わり、目を開けていられない程だと感じた時、私は意識を取り戻して、現実の世界で目を開いた。
そこは、見慣れない天井が見えていた。
「──アリューシャ!目が覚めたか?──エミリー、飲み物を持ってこい」
「……グルー……私は」
私を心配そうに見守っているグルーの姿。前にも似たような姿を見た。でも、その頃より違うものがある。
それはグルーが私へ向ける感情の違いか、それとも受けとめる私の心の変化なのか。
「食堂で倒れたんだ。……席さえ離れてなければ俺が……ああ、頭を打っているかもしれない。医師によれば睡眠不足らしいが……とにかく急いでたんでな、俺の部屋に運んだ。しばらくはここで安静にしていてくれ」
「グルー……私は夢の中で……彼女に言ってやったんです」
「夢?最近うなされてる夢か?」
「はい、でももう見る事もないでしょう。言ったんです、全部。そして、さよならと」
「夢の内容は分からんが……お前は何かと戦っていたんだな。よく頑張った、水分を補給して休もう」
甲斐甲斐しく世話を焼いてくれるグルーは優しい。こうして何も訊かずに労ってくれる。
「……はい。頑張りました……グルーの隣を歩くのは私です……これからも、ずっと私が一緒に生きるんです」
「……そうか、ずっとか。それは素晴らしいな。希望を必ず見いだせる人生を歩めるだろう」
「はい……」
グルーが、そっと私の前髪をかきあげ、額に触れる。壊れものを扱うように。
それから、私のまぶたを覆った。
「お疲れ様、アリューシャ」
──私はアリューシャ。グルーと生きる。
あの過去のアリューシャは、もう出てはこないだろう。
これからは、未来に──一秒ごとに現実になる先の事に、何が待ち受けていても、襲ってきても、私は独りではないのだから勇気をもって立ち向かう。
たとえ安穏とした人生など、生きられなくとも。
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