第12話
──その知らせは、秋の終わりにもたらされた。
私は執務室に呼ばれ、難しい顔をしたグルーから聞かされた。
「隣国の動きが怪しいと諜報員から伝達されてきた」
「では……グルーは迎え撃ちに行かなくてはならないのですか?」
「ああ。──しかしトリステア帝国からの援軍は、今の関係では期待出来ない」
「そんな……確かにトリステア帝国とは決裂こそ避けられましたが、そこまで関係が冷え切るだなんて……」
エスター様の愚かな言動のしわ寄せが、こんな形で降りかかるとは、腹立たしいし許しがたい気持ちにもなる。
「案ずるな。国内貴族からの援軍が三千程集まる予定だから、辺境伯領の軍勢と合わせれば何とかなるはずだ。──留守を頼んだぞ」
「どうか、神の御加護を……」
「何、お前の書いた護符と呪符がある。これは最強の戦女神だからな」
「──もっと書きます。もっと強力な護符と呪符を。間に合わせますから、お持ちになって下さい」
「ありがたいが、無理はするなよ?──領地民は皆城内に避難させるように誘導する。幸い、麦の収穫期は終わってるしな。お前は彼らを守り、励ましてやってくれ」
「はい、精一杯頑張ります。……ですから、元気な姿でご帰還下さいね」
「約束するよ。俺は心に決めた事は守る」
グルーが安心させようと低く優しく言ってくれる声音は、私を力づけてくれる。
私は以前頼まれた通りに、護符と呪符を書いた。難易度の高い緻密なそれは、まだ特有の文字を読み解ききれない私には難しくて、書き損じも多く出してしまった。
「奥様、今夜こそ早めにお休み下さいませ。明日からは領民が避難してきます」
エミリーが心配して言ってくれる。
「ならば、明日からは領民達の心を落ち着かせる為に忙しくなるでしょう?あと少しで終わるの。もう少し書かせて」
「奥様……でしたら、体に優しいお夜食とお茶をお持ち致します」
「ありがとう、助かるわ」
そうして私は夜明けを迎える頃、グルーに贈る護符と呪符を書き終えた。
大量の書き損じを眺め、書き終えたものを見つめると達成感がふつふつと湧いて心を満たす。
もう朝になる。仮眠をとる時間もないだろう。私は執務室へ行って、寝ずに働いているであろうグルーを訪ねた。
「──アリューシャ?なぜこんな時間から起きてるんだ?寝ていないのか?目の下に隈が出来てるぞ。無理はするなと……」
「無理はしていません。──これを、大切に書いただけです」
そしてグルーの手を取り、そこに完成品を持たせる。
「これは……こんな高度な」
「グルー、私を少しでも大事に思ってくれているなら、絶対に帰還して下さい」
どうしても愛嬌や親しみのある言い方が出来ないけれど、心はこめた。
「──ありがとう。夜更かしした事の説教は到底出来ないな」
私の冷えた手を、グルーの片手が包んでくれた。
それだけで安らいで、気持ちを前向きにしてもらえる。
「──旦那様、領民の避難が始まりました」
何というか、甘いような雰囲気が漂っていた気もするところに、折り良くウァジリーが執務室を訪れた。
グルーから小さく舌打ちが聞こえたのは空耳だろう。
私は護衛をつけてもらって、不安の混じる面持ちの領民達の元へ歩いて、声をかけた。
「皆さん、ご安心下さい。領地を荒らす事も領民を虐げる事も、辺境伯家では決してさせません」
もう少し上手く言えればいいのに、慣れない状況で語彙が足りない。
「このお方が……奥様?」
「あの三十路になっても縁談を断り続けてきてらした辺境伯様の……」
「奥様は辺境伯様の女神様だと聞いてはいたけど……うちの娘と大して歳も変わらなさそうなのに、堂々としておいでだわ」
囁き交わす声は控えられていて、途切れ途切れにしか聞こえない。でも、とりあえず悪印象では見られていないと分かった。
「皆さんの働きのおかげで籠城している間も、必要な物資や食糧の備蓄は十分にあります。指示が出ますので、落ち着いて行動して下さい」
こうして城内は、避難してきた領民が指示に従って動き始め、とりあえず混乱が起きる兆候もない。
そこに、次々と伝令がやってきた。
「旦那様、マークシュタイン伯爵家からの援軍が二千人参りました!」
「ありがたい、伯爵には俺からすぐに挨拶へ向かう」
「ホルストン子爵家からの援軍も三日以内には千人程到着するとの事です!」
「子爵家も義理堅いな、心から謝意を表する」
段々と賑やかになって、見る見るうちに人が集まる。そこに、意外なところからも援軍が送られてきた。
「旦那様、──国王陛下により援軍を賜りました!数は五千人です!」
これにはグルーも驚いていた。それもそのはずだ。
「何だって?ありがたいが、俺に予め知らせはなかったぞ?」
「書簡も届けられております、ご確認を」
「ああ。──なるほど、な」
書簡を開いて確認したグルーは、腑に落ちた様子でその書簡を手近なテーブルに伏せて置いた。不敬な事はしないけれど敬意を表するつもりもない、と言いたげに。
「どうやら援軍は、王太子妃殿下の非礼に対する詫びらしい。トリステア帝国から得られない援軍の代わりだ」
「妃殿下の非礼?」
「お前は知らないか、それも仕方ないな。妃殿下がトリステア帝国から来訪した宰相様を怒らせたんだ」
「何をしたら、国賓とも言えるお方を怒らせられるのでしょうか……」
部下の者が見当もつかないのは当然の事だろう。王室の外交は雲の上の出来事だから。
「まあ、簡単に言えば、妃殿下がトリステア帝国の国民感情を踏みにじったようなもんだ」
「国民感情、ですか。余程の事をしたのだとは分かりましたが……妃殿下は王太子殿下の婚約者候補だった奥様の事を負かせた程の方のはずですのに、おかしいです」
確かに、私はエスター様に敗北している。そこには王太子殿下にしか分からないエスター様の魅力があって、私は王太子妃に必要な資質の点を考慮しても、魅力には敵わなかった。
でも、その先に関しては、私だけでなくグルーも満足しているらしい。にっと口角を上げた。
「人は深く関わってみないと……懐に入れてみないと、見えない本性もあるって事だ。俺のアリューシャが良い例だろ?実は素晴らしい女だった」
「あ、惚気けは頂きません」
「……お前……」
悦に浸って言った言葉をばっさり斬り捨てた部下に、グルーが絶句する。
「辺境伯領では有名なんです。旦那様が奥様を好きすぎる事は。自覚ございますか?」
「否定はしないけどな、誰彼構わず惚気け話を聞かせて回ったりしてないぞ、俺は」
「ですが、聞かされた選ばれし者が惚気けに当てられて、周りにぼやきますので」
「……俺は、そんなに重症なのか?」
「身近な者達から見れば、手遅れかと」
「……アリューシャに慰められたいよ、いっそ」
こういう内容の話で、私に何をどう慰めろと言うのか。部下も涼しい顔で返してくる。
「この戦に勝てれば、後は存分にどうぞ。奥様も喜んで褒めて下さいます、多分ですが」
「何で俺の周りの部下は誰も遠慮がないんだ」
「人望でございます、お慕いしておりますからね。腹を割って話せるのは信頼の証です」
「なら、俺も腹を割ってアリューシャの話をしたいんだが……惚気けだと言って断るか?」
「──仕方ないですね、無事に戦勝致しましたら酒の席でお付き合いさせて頂きます」
「よし、俄然やる気が出てきたな」
「その意気でございます。本当に奥様は旦那様の戦女神になられたのだと思い知りました」
……このやり取りを私が聞いていたら、おそらく顔を茹でダコのように赤くして、グルーに「一体部下に何を話していたら、そんな事になるんですか」と詰め寄っていただろう。
知らぬが仏とは、まさにこの事だ。
だけど、戦の準備も粛々と整い、グルーが出陣する時がやってきた。
軍勢が出たら、城門は固く閉ざされる。
「グルー……必ず、勝って下さい。怪我はしないで下さい。五体満足で帰還して下さいね。私は毎朝毎晩お祈りしています」
「分かってる。身にはお前からの護符と呪符も着けてある。お前の祈りを無駄にはしないと約束する」
「はい。──信じています、グルー」
「良い子だ。──行くぞ!」
得たりや応と、割れんばかりの声が上がり、蹄の音が響いて、グルーの姿は見えなくなる。
「──城門を閉じます!」
重く分厚い城門が、何人もの人の力で閉じてゆく。
私は、戦いの規模の大きさに震えながら、必死で己を奮い立たせて、やるべき事に努めようと閉じた城門に背を向けた。
グルー達は馬を進めて戦地に向かい、いくつもの天幕を立てて、戦況を随時確認しながら慎重に敵の動きを見ていた。
グルーが相手の異常に気づくのは、そう難しい事ではなかった。
──違和感。互いの間に横たわる相違。
それは、やがて確信に変わる。
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