第10話

グルーから仕事をもらえた私は、翌日さっそく盗賊討伐の時に護符などの書き物をしていた部屋へ向かった。


「これは、奥様。旦那様よりお話は伺っております」


「そうなのね、あなたに──あなたの名は何と言うの?」


「カシウスでございます」


「じゃあ、カシウス。前に私が書いたものは、初めてでも書ける比較的簡単なものだったのよね?」


「はい、きちんと書ける事が大事でしたので」


「おかげでグルーにきちんと渡せたわ、ありがとう。──今度は、もっと強力な護符と呪符を書きたいの」


「お礼には及びません。──強力なと申しますと、それだけ書くのも難しく複雑になりますが……」


「構わないわ。頑張って書くから、参考になる見本の書物があれば貸してもらえるかしら?」


「奥様が旦那様のお為に、そこまで……お見えになられた当初より、ずいぶん変わられましたね」


「それは、私も変わらなければ……誰の為にもならないもの」


アリューシャはよほど辺境伯家に馴染めていなかったみたいね。拒んでいたからこそ私がアリューシャにされたのだから、それもそのはずかもしれない。


私の言葉を聞いたカシウスは、心底嬉しそうに笑みを浮かべて頷いてくれた。


「奥様が旦那様を思って下さる事は、辺境伯家において何よりも喜ばしい事でございます。かしこまりました、書くのは困難になりますが見本をお渡し致します」


「ええ、お願いするわ」


書庫からカシウスが出してくれた見本の書物は古めかしくて、開いてみると確かに私が書いたものより遥かに複雑な書き方だった。


でも、これを書けたら──もっとグルーを助けられる。


私はもっとグルーの役に立ちたい。叶うならばグルーを支えられるようになりたいけれど……でも、グルーにとって私はまだ未熟な女の子でしかない。


だからこそ、もらえた仕事は手抜きなく念入りに仕上げたい。グルーを驚かせるくらい。


その一心で、私は私室にも持ち込んでペンを進めていた。


「──奥様、今宵も遅くまで書かれておいでで……根を詰めてはお体によろしくありません。どうかお休みになられて下さいませ」


「待って、もう少し……あと一時間くらい書いたら、きりのいいところまで書けるから」


「旦那様のお為にと頑張られる奥様は素敵ですが、頑張りすぎては旦那様が心配なさいますよ、私どもも奥様がお体を壊されないか気に病みますし……」


「エミリー、ごめんなさいね。皆に心配させたい訳ではないのよ。だけど、今の私はとても毎日が充実しているの」


「奥様……そのように言われては、私からはお止めする事が出来なくなります。ですが、睡眠のお時間は削らないで下さいませ」


「ええ、気をつけるわ」


頷きはしたものの、つい意欲が先走ってしまい、私は夜更かしを繰り返してしまった。


エミリーは私を心配して、ウァジリーを通じてグルーの耳にも届くように訴えたようだ。


「──旦那様。奥様は毎晩遅くまで護符と呪符をお書きになられておいでで……エミリーなどが止めても、書きたいと机に向かっておしまいになられるそうなのです」


「アリューシャに日々のやり甲斐が出来ればと思ったんだが……まさか、ここまで根を詰めるとはな。ウァジリー、大事な話があるからと、すぐにアリューシャを呼んでくれ」


「かしこまりました、旦那様」


そして、ついに私はグルーの執務室に呼び出される事になってしまった。


「グルー、私です。失礼します」


「来たか。──今、紅茶と茶菓子を出させるからな。座ってくれ」


「はい」


ウァジリーが洗練された手つきでサーブしてくれる。紅茶は香りが華やかで高級な茶葉のものが使われ、茶菓子は私の好きなココアの焼き菓子がメインだった。


「……あの、グルー。お話というのは……」


「飲んで、食べて、休んで一息つくんだ。それが用件だよ」


「ですが……」


「お前は今、また頑張りすぎているだろ。尽力出来る事は美点だが、限度を超えたら心や体に障るからな」


「……また、とは……?」


「身に覚えがあるだろう。王太子殿下の婚約者候補だった頃のお前が、どれだけ無理をして頑張りすぎたか」


「あ……ですが、今の私は違います。頑張る事が楽しく嬉しいのです」


「そこは分かってるよ。だがな、繰り返し言うが限度は超えたらいけない。仕事が充実している事は良い事だよ。でも、今のお前には十分な睡眠と栄養、そして息をつく時間が必要だ。どれが欠けても駄目なんだ」


「……はい、すみません」


「別に謝る事はない。──お前には心身共に健康であって欲しい。これは俺の願いだ。その為に仕事も必要なのは分かってる。だから、するなとは言わないし、お前の書いてくれる護符と呪符は本当に嬉しくもあるから、そこは誤解しないでくれよ?」


「……分かりました、グルー。私は猛進しすぎていたようです」


「よし、じゃあ紅茶が冷めないうちに飲んでみるといい。辺境伯領で採集された蜂蜜が使われているんだ。なかなか美味いぞ」


「それで水色が……。ええ、頂きますね」


紅茶を含むと、ほのかな甘みが香りと共に広がり、喉を潤しながら通ってゆく。ほっとする味わいだった。


私はそれから、グルーと他愛なく温かい会話をしながら紅茶とお菓子を楽しみ、求められた休憩が済む頃には、心もほぐれていた。


「ありがとうございました、グルー。部屋に戻りますね。今夜はきちんと休みます」


「ああ、そうしてくれると嬉しいよ。──どうか良い夢を見てくれ」


私が「はい」と答えて退室すると、グルーは椅子の背もたれに身を預けて、深く息を吐いてからウァジリーに語り始めた。


「なあ、ウァジリー。俺はアリューシャを甘やかす家族ではなく、アリューシャに優しい夫でありたいんだよ。アリューシャが心を開ける相手でありたい」


「左様でございますか、それは奥様に必要な存在かと存じます」


「そうだろ?何かに真剣に向き合って生きていれば、辛い事も苦しい事も日々味わうだろう。結果次第では過程にある達成感さえ喜びに繋がらない。しかも、努力の裏には必ず葛藤や困難がある。アリューシャは王太子殿下の婚約者候補として、毎日が張り詰めた戦いの連続だったはずだ」


「そう仰られますと、辺境伯家に嫁いでいらしたばかりの頃が思い出されます。たいそう顔を強ばらせ、辺境伯家の者達に対して口を開く事すら自らに禁じておられたように思えました」


「それも仕方なかったんだろうな。長い間、味方と名乗る者にさえ心を開く事も許されない、窮屈で孤独な環境でアリューシャは生きてきて……それは多感な少女には過酷だったろう。だからこそ、辺境伯家に嫁いできたからには、伸び伸びと生きて育って欲しいし、ゆっくり深呼吸して安らかに眠って欲しいんだ」


そう、婚約者候補だったアリューシャには、何があろうと傍にいてくれるような味方は一人もいなかった。ただ、エスター様との戦いを興味本位で見られていた。


「旦那様……僭越ながら、今の奥様はお変わりになられました。負けじとする気概こそございましても、今の奥様に孤独は見受けられません」


「お前もそう思ってくれるか?」


「はい。暖気に触れ芽吹いた新緑のように見えてございます。そこには旦那様が心を尽くしたからこその新たな美しさが生まれていると思われてなりません」


「美しさ、か。……俺は、せめて──そうだな、俺の前では飾らずに生きて欲しいんだよ。まだ十代の娘らしく、笑ったり泣いたり……自由に感情を出して欲しい。その思いがアリューシャから美しさを引き出したのなら、内に秘めていたアリューシャ本来の生命力こそが萌芽したんだろう」


グルーの言う生命力は、本来のアリューシャには既に尽き果てて残っていなかった。あるのは代わった私の意思と生命力だ。そこはまだ正せない誤解で、申し訳ないけれど。


「何に致しましても、喜ばしい変化かと」


「俺も最近のアリューシャを見ていて、嬉しいと思う。嬉しくて、大切で──野辺の花に例えるのはアリューシャが怒りそうだが、広い大地に根付いて、風と太陽の日差しを存分に受けて、自由に咲き誇ってくれればと思うよ」


──グルーが、そんなふうに願ってくれている事。


それは知らされずに、だけどその気持ちから来る優しさは感じながら、私は辺境伯家で生きていた。


人はこういうのを幸せと呼ぶのだろうと、まだ漠然としてはいるものの、分かりつつあった。


しかし、私を排した王宮では、エスター様によって頭の痛い問題が起きていた。


アリューシャならば、ありえない──絶対に起こさなかったであろう問題が。

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