第9話

──所は変わって、王宮の王太子夫妻が住まう宮殿では、エスター様が奔放な振る舞いをされていた。


「王太子殿下ならびに王太子妃殿下、トリステア帝国の宰相が予定通り三日後には王国にお見えになります。お出迎えは国王陛下より任されておりますゆえ……」


「分かっている。エスターも大切な貿易相手国だ。丁重にもてなさなければならない事は理解してるだろう」


「はい、仰せの通りに。妃殿下には王国とトリステア帝国の関係性につきましても、……説明させて頂いております」


トリステア帝国には、主に麦と武器を輸出している。


王国は良質な鉄の産出国として知られていて、作られる武器も値打ちが高い。その高価な武器を惜しむ事なく輸入してくれる帝国は、格好の取り引き相手だった。


だけど、お嬢様として華やかに生きてきたエスター様には今ひとつ呑み込めないらしい。


エスター様の私室では、専任の教師が口を酸っぱくして話す事にも半ば諦めた様子で、妥協策を見いだそうとしていたようだ。


「妃殿下はまだ、トリステア帝国の言語を習得なさっておいでではございませんので、通訳を付けさせて頂きます」


「ええ、頼むわ。──あのような戦に明け暮れる野蛮な国の言語でも、今後は覚えなくてはならないのね」


「妃殿下に申し上げますが、国庫を思えば、そのように軽んじてはなりません」


「もう、お説教は十分に聞いたつもりよ?」


教師が言葉を失う。そこに、グロウラッシュ殿下が訪れた。


「エスター、王太子妃教育は捗っているか?」


「グロウラッシュ殿下!──はい、本日はトリステア帝国についてと、王国の建国神話についてお話を伺いましたわ」


「建国神話?歴史では初歩的なものだが……」


「それは、とても興味深くて何度も聞いてしまいますの」


本当は覚えられずにいて、繰り返し聞かされている。


しかし、その事実は明かせない。王太子妃としてのプライドが許さないし、何より教育が進まない事を殿下に知られたら失望させてしまう。


そして、最も許しがたいのは──アリューシャと事あるごとに比べられてしまう現実だ。


何しろ、アリューシャは幼い頃から家庭教師を付けられて学び、主要五カ国の言語も読み書き出来る。更には淑女としての礼儀作法にも通じていたのだから。


それがエスター様には気に食わない。心に潜む劣等感を認める事すら許せない。


──アリューシャ様は、勉学も進んでいたようだけれど。でも、選ばれたのは私なのよ。知識ばかりの頭が固い令嬢には可愛げもないもの。


しかも王太子殿下との御子を宿しているのだから、増長する一方だ。でも、だからこそ不満も覚える。


「お腹の御子を育むのに大変な中ですもの、あまりお勉強にばかり打ち込まされては御子に障るわ……」


この感覚が、物心つく前から未来の国王となるべく嘱望されて、然るべき教育を受けてきたグロウラッシュ殿下には理解が及ばない。


国を背負い、民を導く──より良い国に発展させる為には、積極的に学ぶ事が当然だと考えているから、エスター様のありようは怠惰にすら見えてしまうらしい。


そもそも、エスター様の振る舞いや醸し出す雰囲気は、天真爛漫で純真無垢。


ゲームでは、それこそが王太子殿下としての務めに疲れたグロウラッシュ殿下の心を、慰撫し癒すのだけれど……。


王太子妃殿下として王室の一員になれば、求められるものは重く加わるのは必然なの。


残念な事に、エスター様は自覚に欠けているみたいで、グロウラッシュ殿下の心に引っかき傷のような違和感と煩わしさを味わわせる。


「エスターの気持ちも無視出来ないものだが、それなら勉強に充てる時間を短くして、その分学びに意欲を持って集中するならどうだろう」


「まあ、グロウラッシュ殿下は私がお勉強を怠けているとお思いですの?ひどいわ」


「そういう意味じゃない、体への負担を軽くする代わりに、学ぶ時は今より更に頑張ろうと励ましているだけだ」


「そう仰いますけれど、私が悪阻も治まって食事が出来るようになった途端に、色々なお勉強を次々と詰め込まれるのですもの……頭が混乱してしまいますのよ……」


マニエル伯爵家は、娘を王太子殿下の婚約者候補として送り出しておきながら、一体どんな教育を施したのか。


こうなると、誰でも疑問を抱かずにはいられなくもなる。


「だけど、エスター。君は王太子妃だ。その先には王妃としての義務も待っているのだから、もう少し学びに対して貪欲になるべきだ」


「民を思う心ならありますわ、国益が大事な事も理解はしておりますもの。殿下まで私にお説教なさるの?愛情に満ちてお優しかった殿下は消えてしまいましたの?」


この言葉には、さしものグロウラッシュ殿下も落胆せざるを得なかった。


「……エスター、これでは民に慕われる国母となる以前に、子を立派に育て導く一人の母としての心構えが疑われかねない」


すると、エスター様はわっと泣き出した。


「ひどいわ!あまりにも心ない言い方をなされるのですね、現に今私は殿下の御子をお腹の中で育んでおりますのに……!」


「エスターの為を思っているからこそ、言いにくくとも言っているのに、それさえも君には伝わらないのか?君の将来を思っての発言さえ、君は心ない言葉としか受けとめられないのか?なら、どう言えば分かってくれるんだ」


懇々と説得しようとしたグロウラッシュ殿下の言葉は、逆にエスター様の隠していた劣等感を刺激し、ついに爆発させた。


王太子妃に選ばれたプライドも、所詮は優位に立っていたいだけの気持ちに基づくのだから、それが否定されれば癇癪にしか繋がらない。


「──どうせ心の中では私とアリューシャ様を比べておいでなのでしょう?分かりますわ、殿下の私に向けられた愛情は、かりそめのものでしたのね。本当の私などは愛しておられないのですわ……」


そう言って、グロウラッシュ殿下の薄情さを責める事で責任転嫁して、エスター様はさめざめと泣いたそうだけれど……。


これでは、百年の恋も冷めかねない。何しろ対話が成り立たないのだから。


「愛情と責務は同列で考えるものではないだろう?なぜアリューシャが出てくるんだ?私が結婚したのはエスターなのだが。それに、こんな会話こそ腹の子に悪い影響を与えるだろうに」


エスター様も、まさか言えないわよね。「お勉強が面倒くさいです。王太子妃殿下と呼ばれ、ちやほやされて生きるのが私の幸せです」だなんて。


「ならば、これ以上私を責め立てないで下さいませ。悲しみに暮れてしまえば、御子も流産してしまうかもしれませんもの……」


天真爛漫で純真無垢。その正体が──本性を暴けば能天気で自分本位なのだから、ゲームのシナリオもエンディングの後のリアルは全く考えられてはいなかったみたい。


そうしてグロウラッシュ殿下が頭を悩ませ、エスター様が気ままな性根を貫こうとして言葉を弄している時、私はといえば、何かグルーの役に立てる事を探していた。


「──お呼びでしょうか、奥様」


「ウァジリー、あなたに相談したいの。私でもグルーにしてあげられる事は、もっとあるかしら?」


「奥様が旦那様に、でございますか?」


「ええ。婚姻のきっかけが何であれ、私は……グルーの妻でしょう?お飾りではいけないと思うのよ。でも、世継ぎもまだ産めないし……」


ウァジリーは軽く目を見張った後、喜ばしそうに目を細めた。何やら面映ゆい。


「でしたら、旦那様に直接お訊きになられるのが一番かと思われます。奥様の事を、この辺境伯家で誰よりも理解されているのは、他でもない旦那様ですから」


「家の事とか、領地の運営について教えてはくれないの?」


「それは奥様が学ぶには、いささか早いかと。旦那様は今執務室におられます。どうか行ってさしあげて下さい」


「……分かったわ」


どうにも子供扱いされている気がするけれど、勤めて長い上に歳も初老のウァジリーから見たら、私なんて小娘よね。


勧められて、私は思いきってグルーを訪ねた。


「──誰だ?ウァジリーなら、片付けた書類が──」


「私です、グルー」


「アリューシャ?どうした、急に。また何か言われたか?」


慌てて立ち上がるグルーに、腹を括った私は力強い歩みで近寄った。


「いいえ。──私にも何か、出来る仕事を下さい。のうのうと生きていても、何の役にも立ちません」


「そんな事、気にしなくても良いんだがな……」


「私は気にします。少しでもグルーの役に立ちたいです」


これでは、単に我の強い言い方だわ。どうして私は可愛げのある物言いも出来ないのかしら。


内心で肩を落としていると、グルーが一つ息をついてから、私を真っ直ぐに見つめてきた。


「なら、──お前にだけ頼みたい事がある」


「……何でしょうか?」


「これからも、俺の為の護符と呪符を書いて欲しい。──これは、夫としての頼みだ」


「護符と呪符……」


「他の奴には書いてやるなよ?俺にだけだ。いいな?」


心なしか、グルーの眼差しが熱い。煽られて浮かされそうだ。


「──はい、グルーの為に書きます。夫の無事を願う妻として」


思わず、負けじと言い返してしまった。やっぱり私には可愛げなんて縁遠い。


そう思ったのに、グルーは顔をくしゃくしゃにして笑った。


「やはり、俺の妻にはアリューシャだけだな。こんな可愛げのある所は、誰からも隠したいくらいだ」


「グルーはおかしいですよ、私のどこが可愛いんですか。こんなに負けん気が強くて意地っ張りなのに」


「そこだよ。お前は運命に流されない、強くて健気で、優しさを秘めた可愛い女だ」


そこまで言われてしまって、私はこの上ないくらい顔が真っ赤になるのが自分でも分かった。


「……グルーは変わった人です」


せめてもの強がりも、どうせ見透かされているだろうけれど。


「でも、グルーが嫁いだ先にいた夫なのは、悪くなかったと思います」


「それは光栄だ。──じゃあ、よろしく頼むぞ」


「頑張ります」


グロウラッシュ殿下とエスター様、グルーと私──知らない内に対照的な夫婦になってゆく。


私は知る由もない。ここ辺境伯家までは、王都の令嬢や夫人が囁く噂は届かないから。


だから、何も知らされずに守られる。


私はまだ、家のお手伝いが出来る事に喜んで自己満足する、子供のようなものだった。


その生活こそが、いつしかエスター様の私への怨念を募らせる事になるとは、思いもよらないでいた。

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