第5話

私が暮らしていた世界に置いてきてしまった、家族、友人、仕事、趣味、娯楽。様々なもの達に心残りはもちろんある。


叶うなら元の生活に戻りたい気持ちも残っている。


それでも、──アリューシャとしてでも生きている限り、お腹はすくし、眠りもする。


何より、グルーや使用人達が甲斐甲斐しく面倒を見てくれるおかけで、心はともかく体は元気を取り戻していった。


そうして、普通に動けるようになると、グルーはさっそく王都のデザイナーを呼び寄せた。


「奥様は細身でございますし、お肌もお美しいですから……それらを活かしたドレスに致しましょう」


デザイナーが採寸しながら話して、次々とデザインされたドレスは、どれも豪奢に宝石をあしらったりしてこそいなくても、アリューシャの残した記憶の認識で安物ではないと分かる。


一見するとシンプルなようでいて、レースや刺繍の施し方といった細かいところの意匠が凝っている。


侯爵家で着飾られていた頃の華やかな感じこそないものの、質素ではなく、むしろ高級感があり高貴に見えるドレスばかりだ。


「あの、これでは贅沢すぎませんか?普段使いのドレスですよね?」


しかも数が多すぎる。何でグルーが突然こんな甘やかし方を始めたのか、さっぱり分からない。


だけど、衣装合わせを手伝うエミリーは楽しそうに笑うばかりだ。


「それは、旦那様は奥様に新しいドレスをあつらえて差し上げたがっておりましたもの。ようやく機会を得て、嬉しくて仕方ないのでしょう」


確かにアリューシャの記憶では、グルーに新しいドレスをねだる事もなく、手持ちのドレスを着古していたけれど……。


「……私、そんなにみすぼらしく見えていたのかしら?」


「そうではございませんよ、奥様。旦那様は奥様に心細い思いをさせまいと願っておいでなだけです」


「グルーが?」


「──失礼する。アリューシャ、まだドレスが足りないようなら……」


そこに、グルーが来て更にドレスを増やそうとするものだから、私は焦って言い返した。


「十分すぎる程です、もう季節ごとに十着も作って頂いたのですよ?」


そう、合計すると四十着にもなる。あまりにも多い気がしてならない。


だけどグルーは平然としている。


「──お前が侯爵家から持ってきたドレスは六着。夏用と冬用が二着ずつ、春と秋はたったの一着だ。もう着るものにも困るような生活はさせない」


アリューシャ……痩せ我慢して意地を張ってたのね。グルーはそれを、どんな思いで見ていたんだろう。


「嫁入りに持ち込んだドレスは愛着もあるだろうから、良ければ修繕させよう」


「……いえ、全て処分致します」


私に運命を背負わせたアリューシャのものなんて、繕っても袖を通したいとは思えない。


「古いドレスは古い私です。いりません」


「それが俺の妻の望みならば否定する気はないが……王太子夫妻の結婚式から、ずいぶん変化したように見えるのが気がかりだよ。何がお前をそんなに変えたのか分からないが」


「……古い私が、今の私に繋がっています。それだけの事です。──たくさんのドレスをありがとうございます、グルー。これから着るもので苦しまなくて済みます」


アリューシャはもう元には戻らないだろう。心が抱いたものが怒りだけならば、いつか落ち着く。でも、心が負ったものが傷ならば、それは時の経過でも癒されない。だから彼女は捨てる事にしたのだ。


元いた世界で生きてきた私がアリューシャの人生を受け継ぐならば、この際アリューシャが残した負の感情によるものは全て処分してしまいたい。


「……お前が俺のやる事を素直に受け取ってくれるなんて、こんな日が来るとは……いや、喜ばしい事なんだが」


「ならば、そのままに受けとめて下さい。今の私は、グルーの心遣いに感謝しているんです」


「感謝?」


「ええ。私の危うい立場を考慮して下さって、私の心身や生活を案じて下さっているでしょう?それに目を背ける程、私は頑なではありません」


「アリューシャ、まるで中身が変わったかのような気もするよ。お前はお前に変わりないのに、奇妙な感覚だ」


「グルーは、それを嫌だと思われますか?」


私はグルーが見ていたアリューシャではないのに、さすがに言い過ぎたかもしれない。魂が入れ替わりました、だなんて言えないし……他人から見れば、アリューシャの変化は大きすぎる。


それが心配になって、少し控えめに問うと、グルーは目を細めて手を伸ばしてきた。


「嫌な訳がない。俺達は夫婦だろう、妻が俺の気持ちに感謝してくれる事は、こんなにも心をなごませてくれるんだな」


そう言って、そっと頭を撫でる。


思わず顔を真っ赤に染めて周りを見ると、居合わせている皆も嬉しそうな笑顔だった。


──アリューシャは頑なな態度をとっていただろうに、疎まれてはいなかったのね。


私は、彼女がそうした心を寄せられている事まで拒んでいなければ、新境地で幸せにもなれただろうにと思わずにはいられなかった。


グルーは贅沢な宝飾品の類を買い与える事こそしないものの、王都にいる間、日々に必要な身の回りの品々を惜しむ事なく私にと集めてくれた。


それは、また別の夢を見ているような──夢のように優しい世界だった。


お祝いの祭りの間、避けられないお茶会の他では出かける事もせずに、私はおとなしく客間でグルーと祭り騒ぎを他人事のように俯瞰していた。


けれど、王都での日々も終わりになろうという時、ゲームでのエンディングが脳裡に焼きついている私には意外すぎる噂が聞こえてきた。


王城から出て赴いた茶会の席。エスター様に敗北した負け犬の私には居心地が良いとはお世辞にも言えない場所のはずだった。


なのに、夫人達はエスター様を賞賛して持ち上げるどころか、真逆な話題を出したのだ。


「妃殿下は最近、人前に出ませんけれど。かなりの悪阻に悩まされてらして、麦粥さえも口に出来ずにレモネードをかろうじて飲まれていらっしゃるとか」


「まあ、それでは体がもちませんわ。心配ですわね。王太子殿下もさぞやお心を痛めておいででしょう」


「ええ。王太子殿下は、悪阻で苦しむ妃殿下を心配なさっておいでのようでしたけれど……付き添っていた時、妃殿下が悪阻で戻されたそうなのですのよ。女性が自分の前で戻すところを目の当たりにされた王太子殿下は驚いて怯んでおしまいになったとか……」


「あら、にわかには信じられませんわ。あれだけ熱愛なさって結ばれたご夫婦ですのに」


「ですが、王宮に繋がりのあるところから聞いた話ですのよ。何でも、王太子殿下は妃殿下に優秀な医師や薬剤師、料理人を集めて下さっているそうなのですが……ご自身は妃殿下のお部屋から遠ざかっておいでだそうですわ」


「まあ、崇高な真実の愛で結ばれたお二人ですのに、真実とは現実には向き合えないような儚いものなのでしょうか」


「あら、こんな事妃殿下のお耳に入ったりしましたら不興を買いましてよ?」


「そうですわね、ですが王太子夫妻のご事情が私達にまで聞こえているのですもの。故意に漏らしているとも思えますのよ」


「まあ、推測が正しければ恐ろしい企みですわね」


何なんだろう?この嫌味というか、悪意を感じさせる貴族達の会話には裏があるのだろうか。


──ここで本来のアリューシャなら嬉々として乗っただろうけれど、それは更なる報復と制裁を生む行為だ。


そんな噂は全て聞き流して、余計な口を挟まずにやり過ごすしかない。


何より平穏に生きる事を第一に。──なのに、ある日の事。王太子殿下の使いを名乗る者が密書を届けてきた。


そこには、王太子殿下が私に対して「王宮に滞在している間に、一夜の夜伽を命じる」と書かれていた。


これは……厚顔無恥にも程がある。何よりアリューシャである私は、もう人妻なのに。婚約者候補だった頃とは何もかも違うのだから、今さら言い寄られた上に欲求の捌け口にされるのは御免こうむる。


私は直筆で返事をしたためて、密書と一緒に送り返した。


「王太子殿下の御名をみだりに悪用し、殿下を貶めんとする不届き者がございます。この密書を装ったものが漏れれば、王太子殿下は醜聞に晒される恐れがございます。周りの者にお気をつけ下さいますように」


──これなら断りにもなるし、辺境伯家にも迷惑をかけずに済む。


密書と返事は、念の為グルーにも目を通してもらっておいた。浮気とか不貞なんて疑われたくはない。


グルーは王太子殿下の横暴を、かなり不快に感じたようだ。


「アリューシャ、祭り騒ぎが終わったら速やかに辺境伯領に戻るぞ。王宮には悪鬼が住まうらしいからな」


「そうですね、社交界も王宮も魑魅魍魎の巣窟です」


──こうして私達一行は、結婚式のお祝い事が全て終わるのを警戒しながら待って、それから「国境を守る責務の為」と言って早々に辺境伯領へ向かった。


それを、王太子殿下とエスター様がどう思ったか、どれほどの悪感情をもって見ていたかは知らぬまま。

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