第4話
* * *
妻が、変わった。ある刹那を境に。
辺境伯家に嫁いでからずっと、頑ななまでに気位の高さを保っていた妻が──王都育ちのくせに、辺境伯の戦と血の匂いの近さに震えもせず気を張っていた妻が、王太子の結婚式で頼りなさげな顔を見せた。
常に身を取り巻く世界を睥睨する事で耐えていた妻が、あの時確かに俺へと助けを求めた。
「あの、旦那様……カボチャとジャガイモのポタージュなど、平民でも口にするものです。果たして奥様が受けつけるか……」
用意させた料理を運んできた使用人のエミリーが、困惑と恐れの入り交じった声で視線を落とす。
無理もない、エミリーはアリューシャの専属メイドに就いてからというもの、辺境伯家の使用人というだけで煙たがられ、邪険にされ続けてきた。
「ああ、嫌がるだろうな。そこまで身を落とせと言うのか、と。だが、今のアリューシャには必要な栄養だ」
「それは、そうですが……」
「拒まれても、今のアリューシャに必要なものを出すしかないだろう、俺からも勧める──冷める前に出してやらないと」
「は、はい。旦那様」
蒸したカボチャとジャガイモを濾して、クリームと塩で味つけしただけの質素な料理だ。侯爵家で贅沢に慣れた彼女では、貴族の矜恃が許さないかもしれない。
だが、今のアリューシャは弱りきっている。
それもそうだ、婚約者候補としてエスター様と火花を散らした末に、グロウラッシュ殿下がエスター様と結ばれる場に招かれて疲弊しない訳がない。
「……あの時から三年か……」
今でも鮮やかに思い出せる。初めてアリューシャを見た時の事を。
あれは、アリューシャがまだ十四歳だった頃に催された夜会での事だった。
グロウラッシュ殿下とエスター様が二曲続けて踊った時の事。
「……まあ、ご覧になって。まるで白薔薇が寄り添ったかのようなお姿ね」
「本当に。王太子殿下とエスター様はお似合いですわ。……それに比べて……ねえ 」
「アリューシャ様は、ずいぶん涼しいお顔をしてらっしゃること。余程の自信がおありなのね」
「目の前で二曲踊られて?もはや哀れですわね」
周囲がさざめく中、アリューシャは好奇の眼差しを浴びながらも、凛として立っていた。
手を握りしめるどころか、震わせもせず。
その誇り高き姿を遠目から見て、心を打たれた。
しかしダンスに誘うには躊躇われた。年嵩の辺境伯に申し込まれても、彼女が醜聞に晒されるのがオチだろう。
第一、彼女は王太子の婚約者候補なのだから、下手な事をしては彼女に傷がつく。
その夜は衝動を堪えて、ただ彼女に見惚れていた。静かに耐え抜いていた彼女は美しかった。
だからこそ、彼女が窮地に立たされた時、己の分を顧みずに求婚した。
「貴公の抱える問題は承知の上です。令嬢が置かれているお立場も。全て私が引き受けたく存じます」
「それは……娘には満足な持参金も持たせられないが……」
「それでも構いません。私が妻にと望むのは持参金ではなく令嬢ご本人ですから」
「……うむ……こうした事はアリューシャ本人にも話を通すべきところだが、今の状態では何を話しても無駄だろう」
「失礼ですが、令嬢は今どのように過ごしておいでなのですか?」
「部屋から一歩も出ようとせずに籠もっていて、家族とさえ言葉を交わさないでいる。おかげで、どう接したものかと頭を悩ませているところだ」
「そうですか……この婚姻には、令嬢から同意を得たかったのですが」
「何、その点を気にする必要はないだろう。他に求婚する者も現れようがないのだから」
「……」
本来ならば一蹴されるものでも、侯爵家は傾いており、娘は国中で敗北者と囁かれていて近寄る者もない。アリューシャは完全に孤立していた。
巷では、格下である伯爵家の令嬢から王太子妃の座を奪われるような、何らかの欠陥があるのではないかと勘ぐられ、もはや王都に彼女の居場所はなく、侯爵家にも彼女を守り抜く力など残っていなかった。
それにつけ込んだ俺は野蛮だ。
生涯見下されても我慢出来る。彼女が傍に立つならば。同じ城の中で生きてくれるなら。
その覚悟が、王太子の結婚式をきっかけに揺らいだ。
弱気な素振りを見せた彼女は孤高の令嬢ではなく、しおらしい一人の乙女だった。
俺を「旦那様」と呼び、人が変わったように真っ向から向き合う姿は、従順でありながら今にも消えてしまいそうに儚かった。
ポタージュを用意させたのは、彼女の体を思いやったのと同時に、彼女を試したのだ。
俺はどこまでも、愛を前にして卑怯だ。
愛する乙女を前にして、恐れずにはいられないのに、乙女を庇護したいと願う矛盾した男だ。
「……頂きます」
呆気ないくらい素直に差し出された食事を受け入れ、泣き出しそうな顔でポタージュを口にする彼女を見守りながら、密かに熱く彼女を恋うた。
そして願った。
ひとたび、同じ城の中で彼女の笑顔を見られたならば、直後に戦で命を落としても惜しくはないと。
俺の命で彼女を守れるならば。
「元気が戻ったら、デザイナーを呼んでお前のドレスを作らせよう。せっかく王都なんかにいるんだ、この機会を利用しないとな」
わざと明るく言うと、アリューシャは目を丸くした。この表情も、見せた事がない初めてのものだ。
「え……ですが、贅沢はさせられないと……」
「普段着のドレスくらい必要だろう?部屋着を買うのが贅沢か?」
何しろアリューシャは、嫁ぐ時に持参した、侯爵家にいた頃に作らせたドレス数着をやりくりして、こちらではドレスも宝飾品も求めずにいた。
しかし、着古したドレスはすぐに着まわしがきかなくなる。
それでも断固として辺境伯家に頼るまいとしていた彼女の、その意思の硬さは大したものだが、放置していたら彼女の不幸にしか繋がらない。
アリューシャの何かが変化したのなら、今のうちに必要なものを揃えてやりたい。
「どうせ王都は一ヶ月かけてお祭り騒ぎだ。それなら、足止めを食らっている期間は有効に活用しないと無駄足になる」
「……私のドレスをあつらえるのが時間の活用になるんですか?」
「むしろ、それより有益な時間の使い方があるのか疑問だ。社交なんて、今はそれどころでもないだろう?」
「……そう、ですね……」
態度が変化してから、彼女の瞳は雄弁になった。
今はまさに、社交界への不安と恐怖、そして気後れを示している。
こんな状態でパーティーや茶会に参加しても、後で悔し涙に暮れるだけだ。
「……ご馳走様でした」
アリューシャがおずおずとスプーンを置いた。
「半分も食べられたか、偉いぞ」
「あ、……ありがとうございます……」
どれだけの衝撃が彼女を激変させたかは分からない。積もり積もったものが決壊したのか、それも判断がつかない。
それでも──今、アリューシャは俺の妻だ。
彼女を見ていて、込み上げてくる感情が愛おしさなのか憐憫なのか判別出来なくとも、大事な存在に変わりない。
「よし、少し横になって休め。お前は頑張りすぎたんだ」
「……はい……」
「俺がつきっきりでは落ち着かないだろう。隣室にいるから、何かあれば呼んでくれ」
そう言い残して、隣室に向かった時──微かな声が聞こえたのは、気のせいだろうか?何かの聞き間違いなのか。
「……頑張りすぎたのね、アリューシャ」
アリューシャが自身を労っている。
何もかも諦めたような口調で。
──それは、魚の小骨が喉に引っかかったように、後々まで違和感を残した。
諦めたような?彼女は自分の人生において、どれだけ諦めさせられた?
叶うなら、取り戻させてやりたい。アリューシャを手放す事だけは出来なくとも。その為にそそぐ力は惜しまない。
そう思うと同時に、そこまで追い詰められていたのかと、痛々しく感じながら──今は休ませようと決めた。
彼女が、ひどく疲れているように見えたから。
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