第3話

──それは、眠りの夢の中だった。


夢の中でも夢を見るの?それにしても真っ暗だ。


半信半疑でいると、目の前で誰かが悲嘆に暮れて、この世の終わりみたいに泣く姿が浮き出てきた。──スチルで見てきたアリューシャだ。


彼女は「もう嫌よ……」と泣いている。


「もう耐えられない……屈辱だわ、社交界にも出られない、皆が私を嘲笑うのよ……!」


あまりにも悲痛な嘆きを見て、思わず慰めようと近づくと、がばりと振り向いたアリューシャが、血走った目を向けてきた。


「──そこの、あんたが代わってよ。こんなもの、傷も痛みも全部くれてやるから」


言うなり、アリューシャが生きてきた記憶を押しつけて消えてしまう。


世界が暗転する。


残された私は暗闇の中、アリューシャの記憶が嵐のように襲いかかってくるのに巻き込まれ、為す術もなかった。


──アリューシャが感じてきた焦り、嫉妬、憤り、悲しみ、悔しさ、憎しみ、侮蔑、恥辱、失望。


それらから、アリューシャの心は傷つき壊れたのだと思い知らされる。


その心で、大きく変わった環境の中、前向きに生きてゆく事は耐えがたいもので、とてつもなく難しかったのだと。


私には、傷ついた心を治す術も、壊れた心を元に戻す術も分からない。多分、本人が苦しみと痛みを乗り越えるしかないのだろう。


けれどアリューシャには、その気力も残されてはいなかったんだと、凄まじい記憶の嵐の中で翻弄されながら感じた。


アリューシャの残した負の感情は重たくて激しくて、私はすっかり呑み込まれてしまい、抵抗しようにも叶わずに息が出来なくなる。


──誰か、助けて。苦しい。心がちぎれそうに痛い。


「……シャ……アリューシャ!」


「……あ……」


「やっと目を覚ましたか……ひどくうなされていたが、気分は悪くないか?どこか具合の悪いところがあれば言ってくれ」


心配そうに見つめる瞳。かけてくれる言葉。肩に触れる手は、私を揺り起こしてくれたのだろう。


「……グルー……」


「ああ。息は苦しくないか?顔色が悪いな、医師を呼ぶか……」


「いえ、あの……私は」


何となく言い淀む。そこに使用人が「ご入浴のお支度が整いましたが……奥様のご様子は……」と声をかけてきた。


入浴──お湯?夢ならお湯の熱さも感じないはず。確かめなきゃ。


この期に及んで、まだ夢かもしれないという気持ちを捨てきれない自分は愚かだろうか?


いや、そう単純に信じて受け入れろという方がおかしいに決まってる。


「アリューシャの顔色が悪い。すまないが、入浴は──」


「……夢見が悪かっただけです。お風呂で汗を流せば気持ちもすっきりします」


難色を示すグルーに言い切ると、彼も引かなかった。


「湯浴みは体力を消耗するだろう。どうしても汗を流したいなら、湯を運ばせてタオルで拭わせよう。……俺は隣室に控えているから安心して世話になれ。いいな?」


「ですが、──」


「お前の体に無理はさせたくないんだ。──頼むから言う事を聞いてくれ」


懇願のように言い返され、私は何も言えなくなってしまった。


そしてグルーの手配で盥に満たしたお湯が運ばれてきた。


メイドがベッドに座る自分の体を優しく拭ってくれる。お湯につけたタオルは温かいし、アロマオイルを使っているのか、花の香りがしてくる。


……こんなにリアルに温かさや香り、拭われる感触があって、もうこれ以上は夢だと思えない。


「……そんなの……」


ありえない。そう声に出す前に、あまりのショックでめまいがして、意識が遠のいてくる。


「──奥様?!奥様……!」


慌てるメイドの悲鳴を聞きながら、真っ暗になった視界の闇に沈んだ。


それから、どれだけ時間が経ったのだろう?


「……アリューシャ……そんなになるまで耐えていたなんて……」


苦悶の声が聞こえてきて、ふと目を覚ますと、横たわる私をグルーが見下ろしている。


彼は冷えたタオルで、額を拭ってくれていた。


──ちゃんと冷たい。心地よいのが分かる。


「意識が戻ったか……良かった。──お前は王太子夫妻の婚約が決まってから、度重なる屈辱に耐えてきたし、貴族連中の見世物にもされてきたんだから、心身共に弱っても当然だったな」


「……私は……」


押し出した声は掠れていて、喉に詰まって続かない。


「──本当によく頑張ったよ、俺がお前なら死を選んでたかもしれないな……」


グルーの言葉は実直で、心底から労ってくれているのが伝わる。本来なら私が受け取る言葉ではないのに、胸に迫った。


「昨夜から何も口にしてないからな、何か胃に入れた方がいい」


そう言ってグルーが呼び鈴を鳴らすと、湯気のたつスープ皿が運ばれてきた。


「疲れが出たんだろう。これは食べられるか?」


「……ポタージュ、ですか?」


「ああ、カボチャとジャガイモのポタージュだ。俺の領地ではカボチャが良く育つからな、疲れた時には必ずこれが出る。結構効くぞ」


「……頂きます」


夢の中でアリューシャは絶望していた。でも、グルーは目立つ贅沢こそさせなくても、常にアリューシャを気遣ってくれているのは私にでも分かる。


流れ込んできたアリューシャの記憶でも、アリューシャとして過ごした短い時間の中でも。


「全部は食べきれなくてもいい。ひと口でも、口に出来るだけで良いから食べて、胃を落ち着かせろ。後でジャスミンティーも用意させる。今は体内の気血水を補う事と、気血水の巡りを良くして体を癒す事だけ考えろ」


私は、のろのろとスプーンですくい、口に運んだ。


「……美味しい……」


ぽつりと呟く。グルーは一瞬、驚いたように目を見張り、それから表情をやわらげた。


「良い子だ。──熱いから、ゆっくり食べろよ」


ちゃんと美味しい。熱い。


ああ、これは本物なんだ。全てリアルで、私はアリューシャに代わらせられてしまった。


アリューシャは出てこない。逃げてしまった。


目頭が熱くなる。つんとして、視界が曇りそうだ。


──今は私がアリューシャ。


きっと、これからもずっと。ハイラアット辺境伯に買われた妻として、本来のアリューシャの身代わりとして、彼女の人生を生きてゆく。


それは幸福な人生になるの?


傷ついて壊れた心で、今を生きて、未来へと歩んでゆく事は──苦しみでしかないだろう。だからアリューシャはその心を手放し、全てを捨てる道を選んだ。


私という傍観者だった人間に押しつけて。


それを恨もうとも、生きている現実は変わらなくて、自我を捨てられない私は──捨てる程のの絶望を味わわされていない私は、何であれ生きるしかない。


何もかもが手探りの中、私は悪役令嬢のなれの果て──その後の「アリューシャ」になった。


ここから、私というアリューシャが、グルーと生きてゆく物語が現実として始まり、私は困惑しながらも自分の目で確かめて、自分の足で立って、そうして様々な出来事と真っ向から向き合う事になるのだった。

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