第2話

「アリューシャ、今日はよく我慢したな」


客間で一息つけるようになると、グルーが労いの言葉をかけてきた。


「不満も多かろう。だが、お前は侯爵家のお嬢様だった頃とは、もう違う。好きに着飾って贅沢三昧する事は許されない」


アリューシャが家を誇る為に着せられてきた、華やかで窮屈なドレスの数々が、自分の記憶みたいな感覚で、断片的にだけれど私の心に浮かんでくるようにまでなっている。


それに己をことさら誇張するような多くの宝石を、ヒロインに対峙する為の鎧として与えられていたものを、与えられるがままに着けていた事も。


「しかし、用意させたドレスについて、お前にだけは誤解しないで欲しい。今日の装いが殊更地味だったのは、王太子夫妻の神経を逆撫でしない為だ。お前は敵が多すぎる。今は目立たないようにしなければ、お前が更なる悪意に晒される」


「……はい、その通りだと思います」


他にどう言えばいいか分からない。何しろ悪役令嬢というポジションでは、負ければ周りは全て敵になるから。


「それでも、俺の隣に立たせるからには、地味に見えても貧相にはさせないつもりでドレスは作らせた。生地も仕立ても王太子妃と遜色はなかったはずだ」


言われてみれば、好奇の目には晒されていたけど、難癖をつけてくる貴族はいなかった。グルーが長く生きてきた分だけ、培った経験で守ってくれていたのかもしれない。


「お前の今後には、俺が責任を負う。お前は自覚を持てばいい」


「……あの、……はい、努力します……」


「よし、上出来の返事だ。──じゃあ、ベッドはお前が使うといい。俺はソファーでも眠れるからな」


こうなると、いよいよプレイヤーだった私と悪役令嬢のアリューシャ、二つの意識が同化してきて混迷を極めていた。


頭はくらくらしそうなものの、とりあえずグルーが思慮深くて悪い人ではない事は伝わる。


でも、婚活はおろか合コンにさえ縁のなかった私が、いきなり辺境伯家に嫁がされた女性として存在している現状は理解が追いつかない。


「寝つけなくても横にはなっていろよ。ここまで家同士の争いの駒にされてきて、色々と疲れただろう。それも今日で片がついた。今後の事はゆっくり休んでからだ。俺達の城で始まる新しい生活には、焦らず少しずつ慣れるといい」


俺達?新しい生活?慣れろって、アリューシャとして生きる事に?私はどうなったの?


「あの、旦那様……」


「アリューシャ、お前は我が家門に仕える身じゃないからな。旦那様などと呼ぶな」


展開についていけずに恐る恐る口を挟むと、ぴしゃりと言い返された。


どことなく不機嫌な声音は、もしかしたら私への忌々しさからだろうか?押しつけられた女でしかないアリューシャなど、押し売りに買わされた余計なものだから。


「あの、申し訳……」


私は咄嗟に謝ろうとした。


すると、それを遮ってグルーはこう告げた。


「つまり、だ。──お前は俺の伴侶になった身だろう。ならば呼び方は「グルー」だ」


伴侶。この人は、私を生涯の妻として認める発言をした自覚があるのだろうか?


ゲームを楽しんでいた頃の私といえば、悪役令嬢は惨めに消えてゆく存在でしかないと思っていたのに。


「あの、……グルー様」


「様はいらない。グルーだ」


「……その、グルー……私達は夫婦として……同じベッドで眠ってさえいません。初夜だって……」


「浮かない顔をしてばかりいると思っていたら、そんな事で悩んでいたのか?」


「ですが、伴侶でしたら……グルーは今もソファーで寝ようとしていて、おかしくはありませんか?」


言い募った私に対し、グルーは至って冷静な態度を崩さなかった。


「十七歳だなんてまだ子供だろう。俺は子供が子供を孕み産む事の危険性が分からない程、分別のない人間に見えるとでも?」


「危険性……ですが、エスター様は既にグロウラッシュ殿下との子供を身ごもっております。それは誰からも祝福されていた慶事なのではありませんか?」


このグルーの発言は、そうした幸せなエンディングシナリオを否定するものだ。


シナリオでは、はじめこそ王太子殿下がエスター様に対して強引に迫って求めた。


エスター様は婚前どころか婚約者にも決まっていないから駄目な事だと分かってはいても、……それでも王太子殿下を愛していたから拒めなかった。


それで、アリューシャには気づかれないように関係を続けて、婚約者に選ばれて、しばらくして身ごもった事に気づく。それにより二人の結婚式が急がれる事になった。


その婚約からしばらくの間に、アリューシャは落ちぶれて辺境伯家に嫁ぐしかなくなるのよ。


確か、エンディングではアリューシャについて「神罰がくだったのだろう、アリューシャは新婚初夜も独りで眠り、子宝に恵まれる様子もなかった」と触れられていた。その記憶が私にのしかかっていたものの……。


でも、それは哀れな末路なのではなく──グルーがアリューシャの体を思いやっての事なのだとしたら?


こんなのは神罰じゃない。ただ、人の優しさに触れているだけになる。


「慶事と言えば聞こえは良いが、俺からすれば殿下は軽率な行動をとったとしか言いようがない」


「軽率だなんて……誰かに聞かれでもしたら、不敬だと思われてしまいます」


「今ここには、俺とアリューシャしかいないだろう?そしてお前は言いふらしたりしない」


日本でも昔は、政略結婚で幼いうちに嫁入りする姫も珍しくはなかったけど、そうした姫は成長するまで、床入りせずに育てられていたらしいとは聞いた記憶がある。


それを考えれば、グルーは出産が命懸けになる事を、現実的に考えてくれている事に他ならない。


私は──私だって、なぜゲームの世界にいるのか分からないけれど──たとえ朝になれば醒める夢の中であっても、今こうして生きている以上、危険な目には遭いたくない。


叶うなら落ちる所まで落ちたアリューシャとしてではなく、夢でもこうして生きている夢なら不幸な死なんてごめんだし、不幸になんてなりたくない。夢だろうが現実だろうが、幸せな生き方をしたい。


ゲームではエスターに敗れたアリューシャだけど、辺境伯に売られたような身でも……その辺境伯のグルーは、時代の敗北者である私を、ぞんざいに扱ったりしていない事も所々で感じられる。


私は、もはやそこにしか希望はないと薄々感じていた。


「ほら、明日に響くだろう?早く寝るんだ」


「あ……」


グルーが私の顔を覗き込み、ぽんと頭を撫でてから背を向けてソファーに向かう。温かい手のひらを、けざやかに感じた。


「……おやすみなさいませ、グルー……」


何とか声を振り絞ると、振り返ったグルーは片手を上げて「おやすみ」と応えてくれた。


そして、促された通りベッドに入ってみた。


寝具は心地よく体を包んで、肌触りも良くてなめらかだ。


まだ我が身の事を受けとめきれない状態。まさか眠れるとも思わなかったけど、じっと目を閉じていると、心のどこかで「これは夢」と抗っていた最後の意識が、すっと眠りに吸い込まれていった。


「可哀想にな……夢くらい、幸せなやつを味わえよ」


ソファーから歩み寄ってきたグルーが、眠る私を見下ろして、手を伸ばして大事そうな手つきで頬に触れ、まるで幼子にするように撫でていた事には、気づくよしもなく。


そうして、暗闇の夢の世界で、出逢うはずのない者と相対する事になる。


人によっては、それを絶望と呼ぶかもしれない邂逅は私を大きく変える。

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