記録③『楠の下のもの』 (2023年10月9日)
《とある用務員K》
成尾高校といえば、楠でしょうなぁ。
雨風や落雷に耐え、一年を通して葉を茂らせるその姿は、まったく見事なものです。また、楠は古くから御神木として、多くの人々に敬われてきました。魔除けや厄払いの力も持っているそうで、神社や仏壇の材料にもなるんですな。
ちなみに名前の由来は、香り高く、その寿命の長さから『奇(くす)しい木』、と呼ばれたところにあるそうです。
それからそれから————、おっと。すみませんなぁ、年を取るとどうにも無駄話が長くなるようで。
そいで、何の話でしたっけ? ああ、五つ怪談の一つ、『楠の下のもの』とやらでしたな。正直なところ、あまりこの話はしたくないんですがね。
二週間ほど前のことです。
たいていの場合、私は用務員なので朝早くだったり放課後だったりに、よく校舎を掃除しとるわけですが……。その日、いつものように学校に来て、ちょいと缶コーヒーでも飲んでから仕事に取り掛かるかと考えていたときにですな。
一本の楠の根本あたりに、妙な人影があったんですよ。
まだまだ部活の朝練も始まっとらんような時間だったもんですから、教師か生徒か、はたまた不審者なのか、気になって仕方がなくって……。
こっそり物陰から近づいて、何をしとるのか見極めてやろうと思ったんですわ。
近づいてみると、その子はやっぱり制服を着ていまして、どうやら、一心不乱に木の根元をスコップで掘り返しているところでした。
これはいったいどうしたもんかと、ひとまず声をかけたんですわ。
「おうい、そこで何をやっとるんや」、ってな。
そして振り返った、その子の形相ときたら。
顔が真っ青になって、必死に何かから逃げているような、恐怖の表情でしたわ。
それがあんまりにもおっかないもんで、私は思わず後づさった拍子に、よろけて尻もちをつきました。
その隙にぴゅーっと、生徒はどこかへ逃げていってしまいましたわ。
私はもうなにがなにやら分からなくて……。とりあえず立ち上がって、その子が掘っていたところをじっと見つめてみたんですわ。
いったい彼が何を探していたのか、どうにも気になる。こんなことは初めての経験だったにせよ、なんだか熱に浮かされたようでした。
そうして傍らに落ちていたスコップで地面を掘ると、何か硬いものに当たる感触がしました。しめた、と思って地面から掘り出して手に取ったそれは、小さな古い木箱でした。
小さいと言っても、両手に収まるほどの大きさはありましたし、腕の中にはずしりと確かな重さが伝わってきました。さて、いったい中身はどんなものか。
それを恐る恐る開けようとしたその瞬間。
異様な臭いが、突如として私の鼻を襲いました。何日も洗い忘れた弁当箱の蓋を開いたときの腐臭と、鼻血が出たときの鉛のような臭いを混ぜたような————。
なんとも、形容しがたい悪臭でした。
風に吹かれてどこからかやってきたのか、と周りを見渡しても何もありません。
ああ、これはまずい。すでにその場に蔓延しているのは、耐えがたい異臭のみではなくなっていました。まるで何かとてつもなく大きな存在がこちらを覗き込むような、漠然とした危機感。それはもはや、体の不調や気の迷いでは片づけられないほどの大きさでした。
一刻も速く、ここから逃れなければならない。そんな焦りが体を突き動かしたはいいものの、私は木の根に躓いてしまいました。
反射的に楠に寄り掛かってしまった、私の右手。
ぬるり、と。手をついたそのおかしな感触に、私はまじまじと自分の手を見詰めて—————。
最初はそれを、樹液だと思ったんですわ。ねっとりと指に絡みつく、どす黒い液体のような何か。しだいにそれがさっきから感じている臭気の発生源だと、麻痺した鼻が気づきました。
そして私は、幾ばくかの自問自答のすえに、とうとうその正体に気づいてしまいました。
血だ。
異様な悪臭を発する、正体不明の液体。それは長い時間をかけて凝り固まった、人の血液でした。
節くれだった楠の肌を、蛇のようにゆっくりと伝う血液。その始まりがどこなのか探るように、私は視線を上へ上へと伸ばそうとして—————。
その瞬間でした。あまりに多くの怪奇に脳の理解が追い付かず、腕の力が抜けてしまった私は、木箱を地面に落っことしてしまったんです。
ちょうど掘った穴の真ん中に落ちたそれは、衝撃で蓋が外れていました。
……あのときのことは、今でも夢に見るのです。
墨よりも真っ黒で底冷えのする、空虚な二対の丸い物体。それがこちらを、じっと見詰めていました。
小さな人形の目玉でした。
私はこの生涯で、あれほど不気味な人形を見たことがありません。
死んでいるのに生きているような、ひどく虚無な表情。不均衡で汚れた、ぼさぼさな髪。そして寸胴な体に巻き付いた、縄のような細い紐。
ああ、これは埋めなければならない。誰に教えられるでもなく、自然と体が動きましたわ。震える指で冷たいスコップの柄を握ると、奇しくも最初に人形を掘り返した生徒のように、無我夢中で土をかぶせました。
全てが終わってから楠を見てみると、そこに確かについていた血は消え去っていました。私の指に付着したものも同様に。
まるで全ては、白昼夢だったかのように——。
もしもあのとき私が、落ちた人形ではなく、頭上に何があったのか確かめようとしていたら。私はいったい、何を見ていたんでしょうね。
翌日、埋めた穴がどうなったかが気になり、楠の根本を覗きに行きました。するとこれが不思議なことにですな。
なぁんにも、なくなっとりましたわ。
穴が掘られた形跡すらこれっぽちも見つからず、しだいに私は、全部悪夢だったのではないかと考える始末でして。
悪い夢なら、それでよかったんですがねぇ。
あれもつい一週間前くらいのことです。時刻はもうすっかり暗くなって、生徒も誰もいなくなったころでした。
虫の知らせ、というんでしょうかね。妙に、あの日の楠が気になったんですわ。
まさかまさかとは思いながら向かってみると、案の定そこには怪しい人影がありました。服装の色合いからして野球部だったと思います。
また同じ人形を掘り返すのか、と思って好奇心が湧いてしまった私は、しばらくその人影を観察してみることにしました。そいつはもはや周りを気にすることすら忘れて、ひたすら地面にスコップを打ち込んでいるようでした。
ぼちぼち夕暮れ時も終わり、辺りが薄暗くなるにつれ、視界はどんどん悪くなっていきます。掌が脂汗でじっとりと濡れていったのが、よく頭に残っとりますわ。
やがて人影はぴたりと作業の手を止めました。そして恐る恐ると言った風に、自らが掘った穴を覗き込んでいるようでした。そして、その次の瞬間、踊るように人影が飛び上がったかと思えば、すごい速さで私と反対方向の校舎に逃げていってしまいました。
てっきり私が隠れて見ていたのに感づかれてしまったか、と思いましたが、どうやらそうではないようで……。
人影が逃げたのは私からではなく、自らが掘り起こしてしまった何かからだったのです。
夕闇と木陰に閉ざされた薄暗い地面から、それはゆらゆらと這い出てきました。まるで、墓標から現れる映画のゾンビのように。これは幻覚かと、私はかつてないほど眼をかっ開いて、立ち上がったそいつの様子を観察し続けました。
その人影はしばらく突っ立ったまま動かないでいるかと思うと、やがておもむろにその腕をゆっくりと肩の高さまで持ち上げます。
その腕の示す先にいたのは、私でした。人影は、まるでそこにいるのはお見通しだぞ、と言わんばかりにこちらを指差してきたのです。
そのあとどうなったかって? そりゃあ逃げましたよ。自分がどこにいるか、道も分からなくなるくらいね。
まるで作り話のようでしょう? 自分でもそう思いますとも。
しかし、未だに震えが止まらんのです。まるで誰かに尾行されているような、見張られているような……。そんな感覚が、脳裏にまとわりついて離れんのです。
あなたがこの件に関わろうとするのを止めはしません。
けれども、決して私の様に、好奇心にかられて行動するのはやめなさい。
取り返しの、つかなくなる前に…。
(取材記録はここで終わっている)
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