ハイドレンジアとの日々

第30話神様の居場所

なんと清らかで、安らかな場所だろう。

上昇を続けてついた場所ならば雲の上なのかもしれないけれど、でも地面はちゃんとある。


ハイドレンジア様は私をゆっくり降ろすと、手を取って

『来て』

と言った。


しばらく歩くとそこには池があった。透明度の高い水が満ちている。

まるで鏡のよう。

『覗いてごらん』


私はそっと眼をやると、そこにはルイス様が、目を開けたまま呆けている私を抱きしめていた。

その光景に、思わず口を押さえて後ずさる。

ルイス様の絶叫が響く。

傍にはセイレンが転がっていた。

なるほど魔王が連れて行ったのはエストリエの魂だけ、ハイドレンジア様が私をここに連れてきたのと同じような原理だろうか。


『これでね、ずうっと僕の国の人間たちに話しかけていたんだよ。気づいてくれる人はいても、会話までできたのはキャンベルだけだった。嬉しかったなあ』

「っ…!!」

私の手を愛おしそうに頬擦りしている。

私はとても恐ろしくなって自分でも青ざめていくのが分かるほどだった。

「も、っ…帰して…ください」

『良いじゃない、ゆっくりしていって』


ふっふっと浅い呼吸しかできない。

「は、ハイドレンジア様」

『仰々しいなあ。いつかみたいに気さくに話してよ』

「っっっ…」

『こちらへ』

と案内されて、なにやら荘厳な神殿のような建物の中、応接間に設えたソファに座るよう促された。

パチ、と音がしたかと思うと、カップの中にお茶が並々注がれる。

「えっと……私はどうしてここに連れてこられたのでしょうか?」

『どうやらキャンベルは何もわかっていないらしい』

ハイドレンジア様は立ち上がると、私の耳に髪をかけた。

それから、跪いて私の靴を脱がせ、足の甲に頬を寄せる。

『可哀想に、ボロボロだ』

と言い、くちづけを落とした。

靴擦れだのの足の傷はみるみる回復していく。

「っ…あのっ…神様が人間の足にくちづけなど……」


ぴく、と耳が動く。

暗い顔をして立ち上がると

『愛しの君には、私の気持ちの万分の一も伝わっていないらしい』

「いとし…え?」

屈んだので金髪がはらり、と滑り落ちる。

喰むようなくちづけに、目がチカチカとした。

『もう、離さないよ、私のキャンベル』

「帰して…帰してください…」

『どうして?君も私のことが好きなはずだよ』

抱き寄せられ、髪を絡ませるように指で弄ばれる。

くしゃ、と髪を束ねて思い切り顔を埋めている。


「好きとかそんな…畏れ多くてとても…」

肩を掴まれ、ハイドレンジア様はじっと私を見ている。

なんて暗い顔をしているんだろう。

『私なしでは生きられなくさせようか』

「……私如きになぜそこまで…?」


両手を握ってなんとも愛おしそうに口に寄せた。

『…君は想像できるかい?もう何千年も何万年も人々に語りかける、そのやるせなさを。今こうして想い人にようやく触れられる歓喜を』

「ですが、私は所詮人間です。ハイドレンジア様は…」

『そうさ、神だよ。私の存在意義ってなんだと思う?愛するあの地を繁栄させることにこそある。それってさ、結局神なんて人間のために在るってこと。愛する地の愛する子らに、語りかけては空しいきもちになる。でもキャンベル、君だけは私の声を聞き、臆することなくお喋りに付き合ってくれた』

だから、もう離さないよ、と困ったような笑顔で言った。


「いや…っ…私、私は…」

(幼い私と話している時、貴方は…)

涙がぽろぽろ溢れてくる。

『…幼少の頃など私には関係ないよ』

「え!?」

くすり、と笑う。

『心の中で話していたんだから、心の中なんてすぐ覗けるよ。人間は不便そうだ。だから上部と心底考えていることが乖離して面倒になる』


少しでも悟られないよう、ふるふると頭を振った。

『人間は小さいと恋ができなくて、歳をとっても恋ができないんだろう?神は違う。そもそも時間の概念が違うのだから。私たちはね、魂に恋をするんだよ』

(なら肉体などいらないじゃないか)

『今の君は、魂が剥き出しの状態だよ。でも姿はある。魂の見た目というのは肉体とそう違わない。私たちは今、物質から離れているんだよ』


わかったような、わからないような。

『肉体同士でないと触れ合えないし、霊魂…つまり精神界の存在同士でないと触れ合えない。私はね、今キャンベルに触れられる史上の喜びに満ちているんだよ』


震えがおさまらない。

言葉が出てこない。


『キャンベルはルイス君が好きなんだね、なおさら帰すわけにはいかないな』

「え?ええ!?そんな、私がルイス様のことを好きだなんて…」


ハイドレンジア様はふふ、と微笑む。

それから深くくちづけされた。

『だめだよ、もうルイス君のことは考えちゃだめ。これから二人で暮らすんだから私のことだけ考えていて、ねえ?』


(怖い、恐ろしい…)

ぎゅう、と眼を瞑る。

『キャンベル、眼を開けて』

おでこに、ちゅと唇が触れたので眼を開けると

そこは先ほど訪れたあの泉だった。

『ほら、ルイス君、君の体を一生懸命魔塔に運んでいるよ。可哀想に、泣いているね』

「ハイドレンジア様…もう、赦してください」

『赦す?何をさ、面白いことを言うなあ』

私は泣くしかない。泣くしかなかった。

その姿を冷たく見ていた神様は、やがてぽそりと言った。

『じゃあ、賭けようか。どんな事をしてもルイス君のところへ帰りたいか。簡単だよ、十日間君がルイス君のことを忘れなければ良い。忘れなければ、ね』

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