6 宿を取り飯を食う (1)

 雲に覆われたまま日は傾き、店先に吊るされた提灯に火が灯り始めた。肉や魚を煮る・焼く・揚げるにおいが充満している。


 この時間になると通りはだいぶ賑わいを見せるようだ。物珍しさにキョロキョロしながら歩くと人にぶつかりそうになるほどの往来がある。


 やはり華人の男が圧倒的に多く、時おり天秤棒を担いだテャム人の女行商人が縫うように歩いている。華人と思われる女はごく少なく、着物を身に付けソロリソロリと歩くのを数人見ただけだ。それよりは西洋人勇者のほうが多い。テャム人の男は見ない。


 ヤマタ人は自分だけだ。異人としてたったひとりで、まったくわからない言葉が飛び交う雑踏の中を歩く。不安と共に得も言われない興奮がある。


 水路には小舟が行き交う。トポン、トポーンと櫂を漕ぐ音が涼しげだ。水辺に面した建物に船を着けて商売中の人も見える。


 香のにおいが強くなる。廟だ。ヤマタの寺や神社に近いがもっと派手な外観をしている。中に入ってみたいが、早く荷を下ろしたい。腹も減った。暑さのため消え失せていた食欲が、漂う料理のにおいに誘い出されてきたようだ。


 石畳の通りから水路沿いで未舗装の道に入り少し歩くと、華人街の外れにたどり着いた。道は途絶えるが、雑木林の中の集落へ水路が続いている。一応境界があるようで、竹で作られた簡単な垣根がある。


 その奥には水路に床の面している家が、華人街よりも間隔を空けて並んでいる。テャム人の集落のようだ。


 垣根のこちら側で、テャム人の女が小舟を水路から引き上げている。この女は髪を伸ばしていて、頭頂で髪を結いあげている。魚やエビを載せた天秤棒を担ぐと、華人街の雑踏に入っていく。


 宿は三階建てで、敷地はヤマタの脇本陣よりも広そうだ。手引書に書いてもらった宿の名前と看板を見比べる。ヤマタのカン字と少々異なるが、【旅館】と読める。


 一番安いと聞いていたからもっとボロ宿なのかと思っていた。けれども簡素な造りではあるが、建てられてからあまり年月がたっていないように見える。周りの建物も同様だ。この辺りは比較的最近拡張されたのだろう。


 開け放たれている入り口をのぞく。明かりがないため薄暗く、几帳台はあるが誰の姿も見えない。

 

 草鞋を脱いで床に上がり、エイ語で呼びかけるが反応はない。華国語で呼びかけてみようかと、手引書をめくる。


 商館が華人街にあるため、手引書の会話集にはテャム語よりも華国語の用例のほうが多い。

 項目を探していると、暗がりの奥から瓦灯のようなランプを持った男がやって来た。ランプを几帳台に置くと、ふたを外す。それでぼんやりと明るくなった。


 こんな時間まで昼寝をしていたのだろうか、男はけだるそうな顔をしている。辮髪は手入れがされていないようで、反り上げた部分の毛が伸び始めている。台の奥にある箪笥たんすを開けている後ろ姿を見ると、三つ編みもだいぶほつれている。


 エイ語でシャンさんの紹介であることと宿泊したい旨を伝えるが、伝わっているのかいないのか、台帳を置くと眠たそうな顔のまま手を差し出してきた。宿代の支払いかと思って銭入れを取り出すと、エイ語で「旅券、手形」と言う。


 二枚の印鑑書類を渡すと、うつろな目でこちらを見比べたあと、台帳にカン字で記帳する。これは役人に提出することになるのだろう。


 勇者はその国の規律の範囲内で自由に行動できることを、会社と国との取り決めにより保証されている。ただし、何か問題があった場合に足取りを追えるよう、野宿は厳禁。宿の人がお尋ね者を通報できるよう、身分証の確認は厳重に行われる……のだが、この男は大丈夫なのか。


「名前、ここ」と、台帳を指さす。筆で署名すると旅券の筆跡と見比べてから「何日」と聞いてくる。


 とりあえず、十日と伝える。


 そして支払いだ。

 初めて使う硬貨で、どの大きさの物をどれだけ渡せばよいのかわからない。

 几帳台にカネを並べると、十日ぶんのお代を男が取る。シャンさんの知人とのことだから、多く取られてはいないと思うが。


 男は台帳を閉じ箪笥にしまい鍵をかけると、ランプを持ち「部屋、こっち」と言って几帳台脇の階段を上がって行く。


 三階の部屋を案内し錠前の鍵を渡すと、男はさっさと階段を下りて行った。同じ華人でもシャンさんとは全然違う。

 でも考えてみれば、自分も「同じヤマタ人」などとひと括りにされるのはごめんだ。一緒にしてほしくない奴も大勢いる。


 宿は井戸のある中庭を囲った造りになっていて、案内された部屋は華人街の境界に面している。表通りに面した廊下には壁がなく、通りの提灯の明かりがわずかに届く。


 部屋はたしかに狭く、三畳ほどだ。布団と大小の桶が置いてある。ヤシの殻もあり、ランプ皿や灰皿として使われているようだ。天井には無造作に丸められた蚊帳が吊るされている。木窓は最初から開けられていて、防犯のためであろう格子が付いている。


 荷を下ろして、棍棒と短刀も外す。

 それほど重くない荷ではあるが、長い船旅のあとにこの暑さの中を持ち歩くのはやはり負担であったようで、心身ともに開放された気分だ。宿を取れた安堵感もある。それでいて、狭くてうす暗い部屋の閉塞感と、孤独感も同居している。


 窓からはテャム人の集落が見渡せるのだが、すでに景色は薄闇の中、はっきりとは見えない。提灯で照らされた華人街に比べると、だいぶひっそりとしているようだ。


 民家は水路沿いだけではなく雑木林の中にも点在しているようで、高床の家の影からかすかな光が漏れている。


 テャムに入国したとはいえ、ここは華人街だ。十分に異国・異界を感じるが、やはりテャムならではの風景の中を歩きたい。

 どのみちそれは、あす以降だ。


 窓から入り込む、異国の料理のにおいに腹が鳴る。けれども食事の前にやることがある。


  宿取りて一に方角二に雪隠三に戸締り四には火の元

                           詠み人知らず


 そんな旅の教訓歌がある。


 手引書にはバノイナの簡単な地図が描かれているが、ごく大雑把なものだ。この宿の正確な位置もわからない。とりあえず大河を目指せば商館にはたどり着けるだろう。


 雪隠便所はない。小便はどこかその辺で。大便はどこか奥まったその辺で、もしくは街なかにある便所兼豚小屋でする。あらかじめ水か葉っぱなどを用意し、それで尻をきれいにする。手引書にはおすすめの葉っぱが絵入りで紹介されている。


 部屋の扉は、外からは錠前で施錠。中からは扉に付いた金具の穴に棒を刺し通してつっかえにする。カネを置いておくのは少々不安だが、大金を持ち歩くよりはいいだろう。


 ランプ皿と灯心、折り畳み提灯、火打ち道具はヤマタから持参した。灯火油はあした買うことにする。通りに明かりがあるうちはなんとかなりそうだ。


 薄闇の中で荷を探り、タバコ道具を取り出す。普段はほとんど吸わないが、旅の友にと持ってきたものだ。

 パイプの火皿に葉を詰めヤシ皿と火付け道具を持って廊下に出る。


 座り壁に寄りかかり、手すり越しに提灯に照らされた通りを見下ろす。宿の隣は食堂だ。うまそうな料理のにおいと、全然理解できない会話の声がここまで届いてくる。


 火打石と綿火口を持ち、火打鎌を打ち付ける。火口に息を吹きかけ、火が上がったところでランプ皿に置き、付け木に火を移す。パイプの吸い口を咥え、付け木で火皿の葉に火を付ける。煙を吸い、むせる。煙を肺に入れてしまった。


 ヤマタを出て以来、ようやくひと息つくことができた。あらためて、これは不思議な感覚だ、と考える。


 危険な船旅を終え、異国で宿が取れた安心感がある。しかし異国にいるという興奮と不安もある。暑さと疲れによるけだるさ。早く飯を食いたいと、はやる気持ち。いろいろなものが混ざっている。これもまた旅の、そして勇者の醍醐味なのだろう。

 

  宿りせん旅心たびごころわくにおいかな


 タバコの煙がほんのひと時、異国のにおいをかき消す。


 タバコを吸い終え、いよいよ異国の飯を食べに行くことにする。

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