7 宿を取り飯を食う (2)

 異国の料理は楽しみであるのだが、まともな食事にありつけるというのはありがたい。


 船旅の後半はろくなものを食べていない。乾パンや豆、干した肉・魚といったものばかりで、うんざりしていたものだ。河口では陸から軽食が支給されたが、料理というほどのものではなかった。バナナの実は素朴な甘みがあって気に入ったのだが。


 短刀を念のため懐に忍ばせ、手引書と竹水筒、それから両替したカネを適当に巾着袋に入れて、部屋を出る。扉に鍵をかけて一階に降りると、先ほどの男はいないが、几帳台に火の付いたランプがふたをかぶせた状態で置かれている。火はここでもらえるようだ。


 宿を出ると、日は完全に暮れている。それでもまだジットリ暑い。生暖かい風が絡みつく。

 食堂や店では提灯を軒先の内側や建物の中に入れている。どうやらもうじき、ひと雨来るらしい。石畳の通りを歩く人も足早になっている。


 隣の食堂から魚介を煮込むにおいが漏れ出てくる。雨も降るようだし、きょうはもうこれ以上歩き回りたくない。ここで食べることにする。


 店に入ると何人かの客がこちらを見る。客は全員、華人の男だ。厨房では料理人の男が湯気の上がる鍋と釜を交互にかき回している。その奥ではたらいの中で皿を洗う女が見える。

 空いているテイブルに着いてしまっていいのだろうか。それとも店の人に声をかけるべきか。


 入口のわきにはカウンターがあり、壁際の台に像が置かれている。赤い顔に長い髭、矛を持っているのはヤマタでも有名な華国の英雄だ。壁には品書きと思われるものが貼ってある。


 料理人がこちらに気付き、女に声をかける。女は足が悪いのか、腰かけていた台から苦労する様子で立ち上がると、フラフラとカウンターまでやって来た。

 何かを言うが、わからない。エイ語、ラン語などがある程度以上通じるか、異国語で書かれた品書きのある店のいくつかは手引書で紹介されている。たぶんここはそういった食堂ではないだろう。


 女は台に並べられた食材と品書きを指し示す。華国のカン字で書かれた品書きは、なんとなくどのような料理なのか想像できるものもあるが、多くは肉・魚・菜といった食材以上のことはよくわからない。それぞれ横に料金も書かれている。


 腹は減っているが、獣肉や油っぽいものを口にしたい気分ではない。酷暑と粗食の日々のあと、いきなりそんなものを食べたら胃がもたれそうだ。


 とりあえず、【清蒸魚】と書かれたものを指差す。蒸し魚で間違いないはずだ。女が「センゼンフー(と聞こえる)」と言って台の魚を示す。どの魚にするのか聞いているのだと思う。適当なものを指差して注文する。


【米飯】はさすがにわかる。ほかと比べた料金の安さから素のご飯なのだろう。

 「麺」と読める料理群に、米へんのカン字のものがある。粿しらげよねすじとは、たぶん米の麺だ。それを指差すと、女は「グエディオウ(と聞こえる)」と言い、やはりざるに盛られたそうめんのようなものを示したあと、具材を選ぶよう言っているのか、台と品書きを示す。【魚丸】を指差す。こちらは、つみれだと思う。料金も安い。


 身振り手振りで、その二つにする、と伝える。女は品書きの料金を指し示す。前払いのようだ。懐からカネを出して、カウンターに並べる。


 女は何かをつぶやきながら、カネを一つずつ自分のほうへ寄せる。計算しながら硬貨を選んでいるように見える。


 品書きに書かれた料金はテャムではなく華国の通貨での表示なのだろう。こちらも頭の中で勘定する。物価はヤマタより安い。女は注文したぶんの料金を取ると、席を指差し食材を厨房へ運ぶ。


 窓際のテイブルに着いて外を眺める。街外れなうえ雨も降りそうだからか、歩いている人はほとんどいない。


 店内を見渡したあと、手引書をめくる。食事を終えた客が店を出ていく。小雨が降り始めたが、濡れても構わないのか、特に急ぐふうでもなく歩いて行く人もいる。

 残っている客は大体が食べ終わったようだが、茶を飲みながら話し込んでいる。雨が止んでから帰るらしい。料理のにおいに、湿った土のにおいが混ざる。


  雨音や異郷でひとり飯を待つ


 さみしさと気楽さ。この組み合わせは、悪くない。


 女が料理を運んできた。蒸し魚だ。待ちに待った、まともな、そして異国の飯だ。


 蒸した白身魚に刻んだネギと千切りにしたショウガが載り、香草が添えられている。タレに漬けられているが、まずは魚の身だけを食べてみる。やわらかな食感で、特に骨の周りは生に近い。これは絶妙な蒸し具合だ。


 次にタレに漬けて食べる。醤油に砂糖を混ぜ、少量のゴマ油を浮かせたものであるらしい。ほのかに甘く、ゴマの風味が加わったタレは、あっさりとした魚によく合う。


 ……うまい。何やら、感謝の念のようなものが湧いてきた。過酷な船旅のあと、異国でこうしてうまい食べものにありつける。なるほど、「ありがたい」の由来が身に染みる。


 麺料理も運ばれてきた。白濁した汁に白い麺。つみれ、刻みネギ、小松菜に似た青菜に香草が浮かぶ。立ち昇る湯気を吸い込み、汁を飲む。トリガラと、たぶんシイタケでダシを取り、塩で味付けしたようだ。


 見た目はそうめんのように細い米の麺であるが、食感はうどんに似ている。汁も具材もクセがなく、香草の香気と相まってさわやかな味わいだ。


 額から汗を垂れ流しつつも、箸が進む。さすがは食の大国である華国の料理だ。通りを歩いている時は漏れ出てくる強いにおいばかりが大手を振っていたが、店に入ると品書きはむしろ、さっぱりとした味わいを予感させるカン字が並んでいる。

 中には口に合わないものもあるかもしれない。けれども万が一、テャムの料理が口に合わなかったとしても、華人街にいる限り困ることはなさそうだ。


 食べ終えて茶を飲む。手引書に記載されている華国語を探す。厨房の前に行き、うまかったことと感謝を料理人と女に伝える。

 しかし発音が悪いためか通じなかったらしく、呼びかけられたと思った女が厨房から出てくる。

 手引書の項目を指差すと、女は笑って料理人に伝えたようだ。料理人はこちらを見て軽くお辞儀をする。


 水筒に水を入れてもらい、多謝と礼を言う。こちらは通じたようで、女も何かを言ったあと最後に「多謝」と言う。


 多くの人が最初に覚える異国語のひとつが「ありがとう」だ。異国の地で、誰かに感謝を伝える。本当に「ありがたい」ことだと思う。




 食堂を出たちょうどその時、雨は土砂降りになった。手引書を服の中に抱え込んで宿に駆け込む。

 やはり隣の食堂にして正解だ。服はどうせ汗だくだが、手引書と短刀をずぶ濡れにしたくはない。


 通りに出ている人はなく、早くも泥だまりのようになってきている道を雨が打ち続けている。


 帳場には相変わらず誰もいないが、足を洗うための水桶と柄杓が置いてある。草履を脱いで、足に付いた泥を洗い流し、予想以上に暗い階段を上る。激しい雨の音以外何も聞こえない。


 部屋に入ると、途端に眠くなる。朦朧とするほどの眠気だ。戸締りをして荷を置き、汗と雨の染みた服を脱ぐ。手探りで布団を敷いて、沈みこむ。雨音が遠ざかる。 

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