(八)
ウカイにて、以前より息切れしやすくなった身体を引きずりながら、私は一軒目の修繕屋へ向かった。そこには店員が一人ぽつねんと座っていた。早速詩集のことを訊ねる。店員はそれには答えず、訝し気に私の素性を問うてきた。見かけよりも低い声である。私は、どうしても読みたいのでそれを探すために旅をしていると告げた。ほんの一瞬、店員の顔が歪んだ。私はそれに引っかかりを覚えた。
これまでにも、似たようなことはあった。「いいご身分ですね」だの「俺にはできねえな」だのとやっかまれたことだって、一度や二度ではない。だが、この店員がすぐに隠してしまった感情は、それらとはやや異なるような気がしてならなかった。私が今まで人にほのめかされてきたのは、自由な身の上という立場への羨望である。だがこの人は、私の欲そのものに何かしら思うところがあるらしかった。
私の直感はどうやら当たっていたようで、本題が終わって沈黙が訪れた後、店員は恐る恐る話しかけてきた。
「どうしても、その本が読みたいんですか?」
肯定する。店員は小さな声で何やら呟いた。それを発した瞬間には聞き取れなかったが、考えてみると、どうやら「羨ましい」と言ったと分かった。
「お兄さん、その感情は、大事にしてくださいね」
縋るように言ってきたので、気圧されて頷いた。大事にするも何も、確かに私の中に存在する感情である。
「大好きだったものが普通になるのって寂しいですよ。本は読めるうちに読んでくださいね。僕はもう、情熱がどんどん冷めてきてしまいました。あなたがそうならないことを願っています」
明らかに私より年下だのに、そうとは思えぬ物言いであった。アドバイスに見せかけた皮肉や自分語りとして一笑に付すのは難しかった。重すぎる感傷が確かに詰まっていた。「いつかまた読みたくなりますよ」とは言えなかった。いつかとはいつだ? 本はそこかしこを飛び回っている。それが目に入る度、この子は苦痛に苛まれているのだ。
「別の物でその寂しさを埋めるのは難しいんですよね?」
訊く前から答えが分かり切っていた質問だった。店員は黙って頷く。
「だったら、まだ好きなんじゃないですか。以前のように読めないことそのものが辛いだろうから、頁を開く度に、痛いでしょう。それでも、何もしないよりは寂しくないと思いますよ」
説教臭かっただろうか。だが、この子は私を助けたくて話しかけてきたのではなくて、助けてほしくてそうしたのだと思った。これが最適解だと胸を張ることはできないが、今自分が出せる精一杯の答えがこれだった。「いつかまた読みたくなりますよ」と似たりよったりだ。ハルアの男の子にした話だって、「いつか外に出てごらん」だ。
店員は口元に手をやり考え込んでいた。
「そっか、まだ好き……」
と独りごちている。私の言葉に反応しているのに、私などもういないかのようだった。
所在なげに佇む私に気がつくと、店員は口元だけで微笑んだ。
「ありがとうございます。もう少し考えてみます」
快晴とまではいかないが、先程よりもいくらか晴れやかな顔をしていたので、私は店を出た。
二軒目の修繕屋では珍しいものを見た。本が人に懐いていたのである。本が長期に渡ってひとところにとどまるというだけでも稀なのに、それの理由が人とは。まるでその修繕屋の所有物であるかのようだった。
「僕が修繕屋ですから、手元に置いておくために、わざと壊し続けているんじゃないかって疑う人もいますよ」
その本は古びてはいたが、修繕した跡は見当たらなかった。
そこでも詩集に関する有益な情報はなかった。店員は別の修繕屋を薦めてきた。そこは私が一軒目に立ち寄った場所だったので、すでに行ったと伝えると、店員は顔を綻ばせた。
「いい所だったでしょう。彼は僕の友人なんです」
例の彼の顔が頭に浮かんだ。恐らく、彼が自信を失った理由は、この友人にあるのだろう。だが、私の邪推が当たっていたとしても、この店員は微塵も悪くないのだ。私はそんな当たり前のことを思いながら店を後にした。
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