(二)

 私が探しているのは、ゾネの古語で書かれた詩集である。これに触れた経緯を語るには、私の大学時代まで遡らねばならない。少なくとも、仔細を求める人にとっては、外せない説明である。修繕屋に詩集の行方を訊ねた際、

「あなたはその本をどうやって知ったの? 何故読みたいの?」

と訊き返されることがある。怪しまれているのかもしれない。私は別に何も疚しくはないため、訊かれれば素直に答えるようにしている。

 約十年前、私は大学で、ゾネの古語の選択授業を取っていた。学期末の研究発表において、とある学生がこんな言葉を口にした。

「ワルウ・ノーテモネー・アヤマラナイカン・コトモ・アルガヨ」

 授業を真面目に受けていれば、翻訳はたやすい。直訳すると、「悪くなくてもね、謝らなきゃいけないこともあるんだよ」となる。もっと丁寧に訳すと、「人生は理不尽に溢れている。それでも、自分が正しいことを知ってくれている人がいるというのは救いだ」という意味になる。

 発表者である彼は、そんな話を皮切りに、本題へと入っていった。あくまでアイスブレイクのためか、出典は明らかにされなかった。当時の私は、ふ~ん、いい言葉だな~くらいに思っていた。

 そして数年経ち、私は就職難に喘ぎながらようやっと就職した。やりたくて選んだ仕事ではなかったため、苦痛で堪らなかった。仕事が大嫌いでも働かなければならない。

 そんな大嫌いな仕事において、実に腹の立つ出来事があった。酷くありふれた話だが、それは怒ってはいけない理由にはならない。こちらのミスではないのに、責任の所在を私に押しつけられたのである。くさくさした気分で帰宅している途中、例の言葉が頭を過った。ずっと頭の片隅にあったというわけではない。寧ろ、頭の外側にあり、それが急に降ってきたという印象だった。時間が空いたからこそ、言葉が熟成されて返ってきたのかもしれない。或いは変わったのは私自身か? 何にせよ、私の中に刻み直されて以来、その言葉はずっと私の心の支えとなっていた。何かある度、自分によく言い聞かせていた。

 そんなわけだから、大学で同窓会が開かれると知らせが来た際、行ってみようと思って参加したのである。例の彼はそこの院生になったと風の噂で聞いていたため、確実に会えるだろうと踏んでいた。特段仲が良かったわけではないが、件の言葉について詳細が知りたかった。

 同窓会に彼は来ていた。そこで、あれはとある詩の一部であるということ、載っていた本から引用したということを教えられたのである。本のタイトルを訊いたが、彼は覚えていなかった。たまたま大学のキャンパス内で飛んでいたところを捕まえて読んだ詩集らしかった。私が読みたがっていると

「見かけたのはその一度きりだったよ。ゾネの古語だからゾネに帰ったんじゃないかな。あと、古い本で有名じゃなさそうだし、増刷はされてないと思うな。その一冊を追った方が確実だね」

とアドバイスをくれた。

 できることならゾネへと向かいたかったが、私の居所からゾネは大変遠かった。家から大学は近かったというのに。また、仕事がある以上、ゾネへと辿り着いてから家に帰ってくる時間を取るのは不可能に近かった。だから私は退職して旅に出ることにした。

 一身上の都合。そう言って去る私を、職場の皆は快く送り出してくれた。いい人達だ。私にはもったいないくらいに。それでも私は職場が嫌いだった。退職理由だって、詩集のことを隠して嘘を吐いたというわけではない。詩集は一因ではあるが決め手ではないのだ。本当に私自身の中の問題だ。恐らく、働くという行為自体が、人と関係性を築いてそれを持続せねばならないという義務自体が苦痛なのだ。どこへ行っても同じことだ。そんなわけで次の職は決めなかった。金はない。だが自由と時間が生まれた。あくまでも、金の制限下に置かれた自由と時間だが。

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