第25話

 何も聞こえないはずの深淵で、誰かの声が聞こえた。その声はすぐに闇に溶け込んでいき、声の主を判別することが出来ない。

 サーシアは、辺りを見回した。何も見えない、真っ暗な世界。やはり、さっき聞こえた声は気のせいだったのか……。


「目を覚ませ!」


 まただ。また聞こえた。慌ててまた周囲を見回す。しかし、誰の姿もない。


「誰? 誰なの?」


 懸命に声を出しながら走り始めるサーシア。この世界に来て、初めて聞こえた声の出所を必死に探し始めた。


 このままでいいと。この世界が好きなのだと、ずっと自分に言い聞かせてきた。この場所以上に心地よい場所など存在しないと、信じ続けて来た。


 現実など、見るに堪えぬものだと、思い込んできた。


 なのに何故。何故自分は息を切らしながら、こんなにも必死に走っているのだろう。縋るような思いで、声の主を探しているのだろう。

 

「現実は辛い。苦しい。でもそれと同じくらい、いや、もしかしたらそれ以上に嬉しいことや楽しいことだってあるんだ!」


 どこ。どこなの。どこにいるの。


「辛い過去を背負って生きていく過酷さは、俺も痛いほど身に染みてる。でも、それでも俺たちはまだ生きてるんだ。生かされてるんだ」


 まだ、聞こえる。途切れない。どこからか聞こえる声。熱く、燃え滾るような。冷え切った心を温めてくれるような、そんな声が聞こえる。


「簡単に自分を捨てたら、大切な人たちに申し訳ないだろ!」


 その場で立ち止まり、上を見た。なるほど、そうか。どうりでいくら探しても見つからなかったはずだ。声の出所は、この地平上にはなかったのだ。


 天空から差し込む一筋の光。そこから差し出される、大きな手。見慣れた手ではない。それに、どうも男の手のようである。年頃の娘なら警戒心を抱いても、おかしくはない。


 サーシアは、微笑んだ。出会ったばかりの男の手がこんなにも頼もしく、そして温かく感じられるなんて。


「一人で現実を見るのが嫌なら、一緒に側で見てあげる。だから、戻っておいでよ」


 光の先に、父親と母親の姿が見えた。二人は愛娘に満面の笑みを見せて、祝福してくれているように見える。夢幻の世界で見た二人の歪な笑顔などとは比べ物にならないほど、愛情に満ちた笑顔。

 金色の髪を揺らしながら、まるで幼女のような動きで無邪気に差し出された手に飛びついた。感じる体温は、まさしく現実でしか感じられないものであった。


「リッカ……私……」


 床に座り込んでいるリッカの左手を両手で握り締めて、しおらしくサーシアは呟いた。リッカの頭からは血が流れ落ちていて、右腕は異様な方向へと曲がってしまっている。惨たらしいその様は、サーシアの喉をきゅっと締め上げた。


「俺のことはいい。それより、サーシア。後ろを見てくれ」

 

 振り返る。そこには、一人の大男が戦斧の柄を使って、二体の人型魔族を壁に押し付けていた。もう一体の魔族は、胴と頭部が斬り放された状態で床に転がっており、既に絶命している。


「君には、あの二体の魔族がどう見える?」


 青い薬の効果は既に切れている。サーシアの目に映るのは、紛れもない現実。彼女の心は、現実を覆い隠そうと、過去の凄惨な光景を脳内にフラッシュバックさせていく。


 そして映る。愛する両親の、歪な笑顔。


 サーシアは目を見開いた。幻の世界は心を救ってくれる。だが、それに浸り続けたとて、心を満たしてくれなどはしない。

 私が見せて欲しいのは。あんな、人形のような笑顔なんかじゃないんだ。


「あれは――私の大切な人たちを奪った、憎い魔族よ!」


 サーシアの叫びが合図であったかのように、ラルドはハルバディオンを手放し、巨大な手で二体の魔族の頭を掴んで外へと向かった。家の外で、虫が絶命する時のような甲高い音が鳴る。どかどかと足音を立てながら戻って来たラルドは、腰を下ろしてリッカを覗き込んだ。


「動けるか?」


「なんとか。でも、腕がまったく動きそうにない」


 眉間に皺を寄せるラルド。苦痛で顔を歪ませ、汗と血を流し続けるリッカ。医療従事者でなくとも、リッカの状態が良くないことは明白である。


「ご、ごめん。私のせいで……」


 俯くサーシア。二人の顔を、真っすぐ見ることが出来なかった。自分のせいでリッカがひどく傷ついたのは、事実なのだ。


「サーシアのせいじゃないよ。むしろ、感謝しないとな」


「私、感謝されることなんて何も――」


「何を言う。風呂だけでなく、食事まで出してくれたではないか。飯の恩は、かなりでかいぞ」


 豪快に笑って見せるラルドだったが、その声にはいつもの張りがない。わざと平気を装い、冷静さを保とうとしていた。魔族を軽んじていたわけではないが、まさかこんなにも早く深手を負ってしまうことになるとは予想していなかった。まあ、予想していたからといって、瀕死に近い友を見て動揺しないわけもなかったが。


 リッカの瞬発力が仇となった。見方を変えればそうとも取れる。リッカだったからこそ、サーシアと魔族の間に入り込むことが出来たのだ。彼がいなければ、目前の女は既に息絶えていただろう。


 彼女を救わなければ、リッカは傷つかずに済んだ。それも事実。だが、そうなったとしたら、ラルドもリッカも身体は壊れずとも、心が壊れてしまっていただろう。救えたはずの人間を救わなかったなど、自分で自分が許せなくなってしまう。


 





 



 

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