第24話

 サーシアは身動きすることが出来ずに、一時間以上もの間、その場で座り込んでいた。頭の中は闇のように真っ暗で、外界の情報の一切を受け入れようとはせず遮断していた。見えているものも聞こえているものも、身体が反応するだけであって、理解することはない。


 ようやく世界に色が戻ったサーシアは、混乱しながらも現状の把握に努めた。記憶を呼び起こして、自分が何故ここにいるのかを解き明かしていく。


 胸が苦しくなって、嘔吐する。胃の中のものだけでなく、内臓さえも吐き出してしまいたいぐらい、気分が悪かった。

 

 胃液も枯れるぐらいに吐き続け、焼け付く喉の痛みに苦しみながら顔を上げる。自分の故郷である集落を、我が物顔で闊歩する異形の者たちの姿が目に映った。


 悲痛、憎悪、絶望。様々な負の感情が脳内を駆け巡る中、ふとした疑問がよぎる。


 何故、自分は喰われていないのか。


 一体の魔族と目が合った。小さく悲鳴を漏らすサーシア。しかし、魔族はサーシアのことを意に介さず、歩みを止めることなく過ぎ去って行く。


 不思議に思ったサーシアは、身体を震わせながら立ち上がり家へと戻って行った。好奇心が身体を動かしたのは、研究熱心な親から譲られたものだろう。


 サーシアは両親の研究部屋に入り、二人が家を出る前に飲んでいた液体を探した。漁ることもなく、目的の物はすぐに見つかった。フラスコを半分ほど満たしたその青い液体は、丁度研究中のものであったようで、父親の机の中心に置かれていた。


 サーシアは、フラスコを重し代わりにして置かれている一枚の紙に目を通した。

 そこに書かれていたのは、ある調合の研究結果。

 マドロミの花をベースとした、多種多様の組み合わせの調合結果が記されていた。それぞれ調合パターンを記した右端に『不』の文字が書かれている。


 目を下に滑らせていくと、どこまでも続く『不』の文字。

 そして、一番最後には『成』の文字が記されていた。


 サーシアは、更に読み進めていく。『成』の文字が記された欄の下に、補足として詳細が記されていた。


 それは青い液体であり、その効能は、見たいものを見せる幻覚作用である。

効果時間は、約五時間。

 

 何故、両親はこんなものを作ったのか。娘であるからこそ、語られずとも感じ取ることが出来た。

 見たいもの。それはきっと、最愛の誰かのことなのだろう。

 別れたくなかったのに別れることになった人たちの絆。それを一時だけでも幻覚としてつなぎ合わせ、人々の心を救いたい。両親はきっと、そんな思いでこれを作ったのだ。


 サーシアの目からは、最早涙が流れることはなかった。既に、身体中の水分を放出してしまっていると思えるほどに、彼女の身体と心は衰弱し切っている。


 父親と母親がこれを飲んだ理由。それは、自分たちが幻覚を見るためではなかった。自分たちを喰らわせることで、魔族たちの体内にこの液体を取り込ませるのが目的であったのだ。


 自分たちが体内に取り込み、見たいものを想像する。それは、自分たちの大切なものを破壊していく憎き魔族たちの姿。見たいものを見せる効能を発揮した後、自分たちもろとも、魔族の身体に液体を体内に送り込む。


 そうすることで、効能を発揮している液体は、魔族たちに強制的に見せることに成功した。


 一人の人間を、同じ魔族の姿に見せることに成功したのである。


 サーシアは、自分が襲われない理由を突き止めると、フラスコの中に手を入れて、指先に青い液体を着けた。濡れた指を咥えて、舌でなぞるようにして液体を舐め取り吸い込んでいく。


 彼女の心は、救いを求めていた。


 それが、夢幻であってもいい。未来のない、幻想の世界でも構わない。


 どうか。この凄惨な現実を、嘘にしてください。


 そう願って、サーシアは家の外へと出た。そこには、先程まで我が物顔で闊歩する魔族たちの姿はなく、昨日と何も変わらない、大好きな人たちで満たされている世界が広がっていた。


 集落の中心でこちらに顔を向けて立ち尽くしている二人。その二人の笑顔は、どこかぎこちなく、まるで造られているものように感じられる。


「ママ、パパ。良かった、これからも一緒だね」


 闇の崖に立つ娘は、自ら足を滑らし転落していく。終わることのない落下は、次第に速度を増していき、誰の目も届かない光なき深淵へと続く。


 しかし人は。暗い奥底で嘆くことを拒んだ。そうすることよりも、暗い闇の中で、まやかしの中で平穏に暮らしていくことの方が、楽なのである。

 

 心を傷つけなくて済むのだ。


 何も見えなければ。何も聞こえなければ。


 現実の中で生きなければ。何も恐れることはない。


 サーシアは、両親が残した青い液体がなくなれば、自分は殺されるのだろうと思っていた。そして、それを受け入れていた。

 これは僅かな間だけの夢なのだと、だから、許してほしい。そんな、誰に向けての謝罪なのかも分からない言葉を、何度も投げかけた。


 既に現実の中では死んだ心。時が来れば、肉体が失われる。ただ、それだけのことなんだ。


 何も見えない。何も聞こえない。そんな、現実とかけ離れた闇幻の世界。その世界は傷つくことに恐れる必要もないし、痛みを感じることもない。


 だがそれは。所詮、未来の話でしかなかった。孤独の中で、ただ自分があるだけの世界の中で巡り巡るのは。後悔と自責の念。死んだはずの心は、サーシアを責め続けていた。


 本当に、これでいいの?


「何のために、生かしてくれたんだ!」

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